君の名前をもう一度。
『………んん…』
重い瞼を無理やり開く。
覚醒していない頭で見慣れた天井を眺めて部屋を見渡す。
そうしているうちに少しずつ今の状況、最近起きた記憶が流れてくる。
ぱっと目を見開いて体を起こす。
ここ数日だるかった身体は快調を取り戻している。お風呂に入れていないから少し汗ばんでいるのが気になり、ベッドから立ち上がる。
『そういえば…大輝くんのお母さんがお見舞いに来てくれてたんだよね…』
数日風邪で寝込んでいた璃子はその間に起きていたことを少しずつ思い出してリビングへと向かう。
道中の廊下や洗面所なども物の場所は変わらず清潔さが保たれていた。
リビングの扉に手をかけて開ける。リビングも前と変わらず掃除されている。キッチンの中も見てもゴミは分別されてまとめられており、調理に使ったものは洗って乾燥されている。
冷蔵庫の中身も作り置きされたものはタッパーに保管されており、丁寧にいつ作られて期限もメモ書きされていた。
人の優しさがじんわりと胸の中に広がっていく。
『ちゃんとお礼言わないと…』
キッチンから出て、母親のいる和室の扉が目に入る。
ふとあの日の光景が思い浮かぶ。母親とはあの時以来の顔合わせだった。
生唾を飲んで静かに扉に手をかける。
『お母さん…』
和室を覗くと、中には思い描いていた人物はいなかった。
もぬけの殻の部屋にはリビングと変わらずきれいにされており、仏壇にもお供え物が置いてある。
母親がいないことに少し胸を撫でおろしている自分がいた。
いつもならきっと母親がいないなんてことがあったらパニックになっていただろうに。
『……。』
頭の中の邪念をかき消して和室の扉を閉じる。
洗面所へと足早に移動してパジャマを脱いで洗濯機に放り込み、浴室に飛び込むように入った。
シャワーの音が自分の中で悪いことを考えないようにしてくれているようで心地いい。
お風呂の水が汚い自分の心も流してくれたらいいのに。
こんなことを考えてしまう自分が嫌いなのに。
『どうして誰かに許してもらいたがるんだろ…』
シャワーを止めて洗面所へ移動する。
タオルを手に取り、少し乱暴に体を拭いてそのまま体に巻き付ける。
ひとりぼっちになってしまった家の中は静けさしかない。自分が何かしなければ物音がしないこの空間が自分を押しつぶしてくるんじゃないかって思うくらいに。
病み上がりだからか身体のだるさが戻ってきたように感じる。
部屋へ戻って部屋着に着替えると、巻き付けていたタオルで水の滴る髪を拭く。そのままベットに腰かけて枕元に置いてあった携帯を手に取る。
待ち人からの連絡はない。
少し肩を落として携帯を元あった位置に戻す。
『また仕事休んじゃったなぁ…』
今度は今後のことが頭をめぐる。
考たって変わるわけでもない。現実が現実を突き付けてくるだけ。
一息吐いて携帯を手に取り、先ほど着た部屋着を脱いで出かける用の服に着替える。
『梨子の顔を見ればきっと頑張れる』
支度を終えて玄関から出る。体調を崩さないよう念のため薬も飲んだ。
朝日がまだ眩しくて空を見ては目を細める。
外の空気を吸うと少しは心が落ち着く気がして数回深呼吸をしてから梨子のいる病院へと向かった。
早く会いたい気持ちもあったが時間がまだ早いこともあって歩いて病院へと向かうことにした。秋色へと染まる景色を眺めて時の流れを感じる。
ふと大輝の顔が思い浮かんだ。
『そっか…大輝くんとの初デートってこの時期だったなぁ…』
璃子の就活時期と大輝の部活の大会の時期などが重なり遅くなった初デート。
大輝から勇気を出して誘ってくれたことがうれしくて即答してしまった記憶がある。デートなんてしたことがなかったから梨子にもたくさん相談して大輝のことで嫌な顔をされたけど、服装選びや気を付けることなど助言をたくさんしてくれた。
当日はふたりとも緊張しすぎてそれがほぐれるまでも時間がかかったけれど、公園を散歩して大輝くんが精一杯調べてくれたであろう流行のお店や、璃子が好きそうなお店など歩いて回った。
その間も璃子の体調や疲れなどを気遣ってくれて、大輝くんと一緒に入れて幸せだな、と思えた瞬間もあった。
『私って本当に人に恵まれてるなぁ』
そんな幸せな過去を思い出しているとあっという間に病院へと着いた。
受付時間はもう始まっている。
行きかう人に混ざるように自分も入口へと入った。
受付時間が始まったばかりなのにもう受付の順番待ちをしている人たちが各々座っている。
ナースステーションに向かって梨子の名を出し用紙を記入しようとすると応対していた看護師に呼び止められた。その看護師の後ろには木嶋の姿もあった。
「璃子さん、お久しぶりです。梨子さんのことについて先にご説明したいことがあるので少々お時間いただいてもよろしいでしょうか?」
『はい。梨子に何かあったんですか?』
「…こちらへどうぞ」
診察室の一室に案内されて椅子に腰を掛ける。
木嶋の様子は明らかに何かがあったかのような焦り具合なのがわかった。しん、と静まり返った室内には木嶋が腰かけている椅子がきしむ音とバインダーに挟んだ用紙をめくる音しかしなかった。
意を決したのか木嶋がこちらを見る。
「あの、大輝さんからはなにか聞いていますか?」
『え…っ』
「大輝さんが梨子さんのお見舞いによく来てくれていたんですが……梨子さんの容態については大輝さんから説明することになっていたのです」
『……梨子に意識が戻る兆候が出たということは聞いていました。そのあとはきっと…母のことや、私が体調崩してたりしてたのできっと言えなかったのかと……』
「そう、ですか」
璃子の説明に木嶋は目を伏せて、璃子の方に一歩近づいた。
緊張感が走り、璃子は木嶋を見つめる。
「私たちから説明するより大輝さんからの方が璃子さんの心の負担を減らせると思っていたのですが……私からゆっくりと説明しますね」
『……っはい』
「まず、梨子さんは意識を取り戻しました」
『…!よ、よかった…!じゃあ梨子は…!』
「はい、元気に過ごしておられます。ただ」
『梨子が元気なのなら、大丈夫です』
「……記憶に欠落が見られました。今の梨子さんは小学5年生までの記憶しかありません」
木嶋が璃子の目を見てゆっくりとそういうと璃子はなぜここまで木嶋が言いにくそうにしていたのか察した。
時が止まったかのように動かなくなった璃子に木嶋は一度説明を止めた。璃子の手を握って璃子が平静を取り戻すのを祈る。
『しょ、うがく……ごねんせいって…』
「…はい。お父様のことも…」
唯一動かせた口元が、もう一度事実確認をする。木嶋も苦しそうにその現実を突きつける。
ぽろ、と璃子の瞳から涙がこぼれた。
一粒こぼれた後は決壊したように幾度となく涙があふれ続けた。
木嶋がナース服からハンカチを取り出して璃子の目元をぬぐう。
『す、すみません…梨子が元気ならそれでいいんです………記憶だってきっと…いつか思い出すはずです…』
「璃子さん…」
今の木嶋のところに大輝がいればきっと璃子も素直に涙を流してまた重荷を背負くことなくいられただろうに。
木嶋は無理やり涙を止めて今後のことを話し始める璃子の姿に心を痛めずにはいられなかった。
どうしてこんなにも神様は薄情なのだろうか、と思ってしまうほどに。
梨子についてこれまでのことと今後のことを話し終えたふたりは診察室を出た。
璃子は木嶋に一度頭を下げて梨子を見舞うべく踵を返した。
その小さな背中を木嶋は見送った。
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