君の名前をもう一度。
『……』
看護師さんが世間話をしながら繋がれた管の先にある液体の入った袋をいじっている。
梨子は表情も変えずにただぼーっと一点を見ていた。
昨晩、大輝が帰った後に看護師さんと入れ替わりで世良先生が来て、いろいろと話をした。涙ながらに大輝と一緒にいたいことを伝えたが、世良先生は冷静に今はまだ無理だ、とだけ梨子に言い放った。
悲しくてさみしくてまたどうにかなってしまいそうだったが、体力のなくなった身体と心は眠気に誘われ意識が戻ったときには外は明るくなっていた。
大輝が本当に来てくれるのか、不安で胸がいっぱいで看護師の世間話なんて聞こえない。
目が覚めてすぐに外れた器具も分厚い包帯も梨子の心までは軽くはしてくれなかった。
しばらく思うように動かせなかった足は重りを付けられたように動かしづらく、先生も看護師さんも無理して動かさないようにと念を押している。
「梨子ちゃん、昨日のお兄さんがきたら一緒にご飯食べてもいいって先生が言ってたよ。お兄さんが来たら車椅子で食堂にでもいってみる?」
『……お兄さん、来るのかな』
ボソッと看護師さんの問に答えると、口をつぐんでしまって何も言わなくなった。
そのあとの病室は静寂に包まれ、看護師さんから聞こえる物音だけがやけに大きく聞こえた。
ふう、と息をついてベッドに横になると、寂しく微笑む看護師さんが毛布をかけてくれた。
目をつむり、看護師さんが出てくのを待っていると、コンコンッとノックの音が聞こえた。
看護師さんが返事をすると、扉の開く音が続いて聞こえた。
閉じていた瞼を開け、扉のほうを見やる。同時に看護師さんが明るい声で訪問客に話しかけているのが聞こえた。
「お兄さん!お待ちしておりましたよ!」
「あ、こんにちは。梨子は起きてますか?」
看護師さんに挨拶をする声でベッドから飛び起き声の主を見ると大輝が私服でこちらをみていた。
信じられない、というように固まっている梨子に看護師さんが肩をぽんぽんと叩いてよかったね!と嬉しそうに微笑んでいる。
大輝はベットに近づいて梨子のほうを見る。
梨子も、自然と笑みがこぼれていた。
『お兄さん、こんにちは』
「ん、こんにちは。よく眠れた?」
『うん、今日も元気ですっ』
他愛のない会話。それをほほえましそうに看護師さんは眺めてから一言挨拶をして病室を出て行った。
残された大輝と梨子。
『さっきの看護師さんがね、お兄さんとお昼ご飯食べてもいいからしょくどうってところに行ってもいいって言ってくれました!』
「良かったじゃん、だから病室の外に車椅子があったのか」
『お兄さん、そこでご飯でも良い?』
「うん俺はいいよ」
返事をする大輝の声が柔らかい。なぜかその声に梨子も安心している気がする。
手を付いて体を捻り、下半身をベットから降ろそうとするも上手く力が入らずに手間取る。
その様子を見た大輝はベッドに腰かけて梨子の片腕を自分の肩に回して補佐をしてみる。
腰かけた大輝の隣に腰を掛ける形になった梨子は息を吐いて大輝のほうを見る。
『ありがとう、お兄さん』
「え、ああ、ううんどういたしまして」
大輝の腕に自分の腕を絡めてくっつく。誰かが隣にいることがこんなにもうれしかったのはこの病院で目を覚ましてからは初めてだった。
肩の部分に自分の頬をこすると大輝の身体が強張るのがわかった。
顔を上げて大輝の様子を見ると、頬を赤らめて視線を反らしていた。
思考が小学生の梨子にはわからないが、はたから見たら恋人がいちゃついているかのような光景である。
「と、とりあえず、車椅子持ってくるから行こうか」
『うんっ』
ベッドから立ち上がった大輝を目で追いながら思うように動かない身体を動かしてみようと試みる。
そこで気づく。
ベットに腰かけている自分の脚は床に付いている。
この高さのベッドは家のベッドよりも高いはず。なのに余裕をもって伸ばされている足に違和感を感じた。
『たくさん寝たから身長が伸びたのかな』
どこか不安を感じながら自分の身体を見回す。
少し胸が大きい気もする。
どこか自分の身体じゃないような違和感。そんなことを考えていると病室の扉が開いて大輝が車椅子を引いて入ってきた。
後ろには世良先生もいる。
「おはよう、梨子さん」
『おはようございます先生っ』
「食堂のご飯も食べていいけど、あまりたくさん食べすぎないようにね。いつものご飯の量くらいが良いかな」
『あれくらいでお腹いっぱいなので多分大丈夫です!』
そういうと先生はうんうんと頷いて梨子に肩を貸して車椅子へと座らせた。固い感触がお尻に伝わる。座り心地は良くない。
ぎし、と軋み車椅子が前に進む。
「そうだ、顔のガーゼを取っても大丈夫か見せてもらおう」
先生が梨子の前に跪いて顔のほうへ手を伸ばす。
されるがままゆっくりと顔に貼られたガーゼを取られ、傷があるであろう場所を触られる。
ザラ、とした感触と少しの痛み。先生の顔は一瞬少しだけ歪んですぐにスッと元に戻った。
立ち上がってはがしたガーゼを備え付けのゴミ箱へと捨てた。
「まだ少し、傷が残っているけれど傷口は塞がっているね」
「治ってるって。よかったな」
『うん、傷はどんななのかな』
ぺたぺたと自分の顔を触る。ところどころかさぶたのようなざらざらした感じと、それとはまた違う感触の肌。
触りながら視線に気づくと梨子の様子を見るふたりのまなざしは悲しげなものだった。梨子がふたりの視線に気づいたことに気づくとふたりは何事もなかったように微笑んだ。
大輝が後ろへまわると車椅子が動き出した。それを見た先生は先に病室から出ると入り口を全開に開け閉まらないように抑えた。
「世良先生ありがとうございます」
「いえいえ。楽しい時間を過ごしてね梨子さん」
『はい先生!いってきます!』
先生が手を振って見送ってくれ、車椅子はずんずんと廊下を進みだす。
初めての病室以外の景色にドキドキしながらキョロキョロと周りを見渡す。
大輝と同じようなお見舞いに来ている人。同じように車椅子で移動している人。笑う子供たちと看護師。
すれ違う人たちを見ていると進んだ先はエレベーターだった。大輝がボタンを押すとほどなくして扉が開いた。
広めのエレベーターは車椅子の梨子が入っても余裕がある。
中へ入って大輝が1階のボタンを押して扉が閉まる。
少しの揺れの後エレベーターが下りるのを感じる。
「梨子は何が食べたい?」
『え、うーん…梨子はハンバーグが食べたいなっ』
「病院の食堂にハンバーグなんかあるのかな」
『なかったらオムライスがいいな』
「オムライスならありそうだな」
そんなことを話しているとエレベーターが止まってゆっくりと扉が開いた。
エレベーター前で待機していた人が梨子を見て前から退く。大輝がお礼を言って車椅子を降ろすとその人は足早にエレベーターに乗り込んでボタンを何回も押しては扉を閉めていた。かなり焦っているようだ。
また車椅子がゆっくりと進みだして5階とはまた違う雰囲気が漂っていた。
「地図だとここあたりに食堂があったはず」
キョロキョロと見回しながら進むと食堂と書かれた案内板が見えた。
梨子が指さすと大輝もそれに気づいて車椅子をそちらの方向へと向けなおす。
食堂へと入るとお昼時だからか少し込み合っていた。
大体はお見舞いに来たであろう私服の服が多く、その人たちが頼んだ鼻とお腹を刺激する料理のいい匂いが入り口にもわかるくらいに漂っている。
「よし、席に車椅子をつけるから待ってて。俺がご飯運んでくるから」
『うん、わかりました!』
梨子の返事を聞くと大輝が注文口のところへ歩いて行った。
そわそわと大輝を待っていると数分して大輝がおぼんをもって帰ってきた。
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