君の名前をもう一度。
結局母親を説得することは叶わず、ご飯を食べ終わったあと出かける準備をしていた。
まだ璃心には会いに行くことを伝えてはいなかった。
時刻は16:30。ゆっくり向かったとしても璃心が仕事終わる時間より早く着いてしまうだろう。
会えるとは思っていないのでそのままきっと病院へ行く流れにはなりそうだ。
携帯を確認する。あのあとトークのやり取りはしているが、今日の朝面接前に送ったトークにはまだ既読がついていない。
『……ほんとについてくんの?』
「将来のお嫁さんになるかもしれないのよ?仲良くしといて損はないわ!」
『お、お、嫁さんて…』
急な単語が超高速ど真ん中ストレートに飛んできて大輝は受けとめきれなかった。
その刹那頭の中にウェディングドレスに包まれた璃心が想像されて顔が火照る。
赤くなった顔を母親から反らして姿見鏡で身だしなみを整える。先日買ったばかりのジャケットは思ったよりも厚くなく着やすかった。
「自分の息子が変態に育つと母親としてなんか辛いわね」
『誰が変態だ!』
休む暇もなく振り回されて疲れがドッとくる。
不安を抱えつつも先を歩く母親の後について家を出た。
璃心の家までの道のりは歩いていくことにした。
自転車を使おうとしたとき、母親が璃心はどうするのかと聞かれたが二人乗りを提案したら却下された。
母親と隣同士歩くのはいつぶりだろうか。
母親も身長は低い方ではないがいつの間にかその背を越えていて、今では見下ろしていたことに気付いた。
子供の頃はヒールを履いていた母親もいつしかスニーカーに変わっており、おしゃれに結っていた髪も大人っぽくシュシュで横結びにおろしている。
普段では全然気付かなかったことがこうして近くで見るとわかってくるんだな、と見ていると母親がこちらに気付いた。
「前見て歩かないと危ないわよ」
『わかってるっつの』
「…はぁ、小さい時は本当に可愛い子だったのに。いつの間にかこんなに反抗するようになって…」
母親も同じように感じていたのかそんなことを言い出した。それを聞いた大輝はなぜか憎まれ口のはずなのに全然嫌な気分にならない。
同じように昔と比べていることが少し嬉しかったのかもしれない。
さっきまで振り回されていたが新たな発見を得て少しは心が軽くなった。
自転車で行くことを前提に考えていたため歩いていたら璃心がいつも帰ってきている時間帯に家に着いた。
母親は少し後ろで待機してもらい、チャイムを鳴らす。
前回と同じように璃心の母親が出てきたらと少し不安に思う。不安定な状態で病院にてカウンセリングを受けているとなると前回のように笑顔を迎えてくれるだろうか。
チャイムを押してから少し経った。誰も出てこない。
『あれ……璃心残業かな』
繁忙期となれば残業はあるだろう。
トークでもたまに残業していることは書かれていた。
体を壊さないように伝えていたが、大丈夫だろうか。
もう一度チャイムを鳴らす。ピンポーンと中で響いているのがわかる。
するとチャイムのあとに少しだけ中から物音が聞こえた気がする。
扉に耳を向けて集中したら今度はハッキリと物音が聞こえた。
1歩引いて待機する。
ガチャ、と扉が開いた。
『こ、こんばんわ…璃心さんいますか………って璃心?!』
「ごほっ……え、大輝くん…?」
出てきたのは璃心だった。パジャマの上からブランケットを羽織るようにかけて冷えピタをおでこにつけている。その顔は火照ってしんどそうに息をしている。
扉を支えて璃心を抱き寄せていると、後ろにいた母親も駆け寄ってふたりを家の中へ押し込んだ。
「お邪魔するわね、璃心さん」
「……へ?え?ごほっごほっ…」
『あー…悪い落ち着いてから説明するな』
璃心をお姫様抱っこで持ち上げると璃心の部屋へ移動する。母親は大輝にキッチンの場所を聞くとパタパタと向かっていった。
ベットへ寝かせると璃心に触れていた手が璃心の熱の高さを現していた。
咳き込んで苦しそうにしている。璃心の身体を起こして背中をさする。璃心がぽて、と身体を寄っかからせふぅと息をついた。
おでこの冷えピタが落ちる。それを拾うと本当に冷えピタなのか疑うくらいに温まっていた。使い方を間違えているわけではないだろうから冷えピタで冷えないくらいに璃心の熱は高かった。
『璃心…元気だって言ってたじゃん…』
「え、へへ…ただの咳だったんだけど…」
だいぶ落ち着いた璃心をもう一度ベットへ寝かせる。
少しだけ寄りかからせただけなのに暑さで大輝も少し汗をかいてしまった。
横になった璃心は程なくして寝息をたて始めた。
それを確認してリビングへと向かう。母親が何をしているのか気になったからだ。
リビングへの扉を開く。
ふわっと鼻をくすぐる匂い。そして懐かしさも感じるこの匂いは、昔よく風邪を引いたときに作ってくれたお粥の匂いだった。
キッチンの方へ目をやると母親が他所様の調理器具やらを使ってお粥を作っている。
『よく勝手に人の家で…』
「看病するのに必要なものを探していたらキッチンへ来てね、そしたらキッチンが綺麗だったしゴミも溜まってなかったわ。あの子多分ここ数日何も食べてないんじゃないかしら」
『…え?』
「お母様の方はどうしているのかわからないけれど……娘さんがこんな状態でもなにもできなかったのかしら」
『…俺が璃心に持っていくよ』
そそくさと母親のところへ行き、おぼんにタオルを敷いてその上に小さな土鍋を置いた。近くで見るとお腹が空いてくるくらいに美味しそうに出来上がっている。
母親に引き止められて取り分ける小皿と木製のスプーンとお水を一緒におぼんへおいた。
急ぎ足で璃心の部屋へとなだれ込む。
ベットの隣にある小さなテーブルにお盆を置いて璃心を小さく揺する。起きなかったら土鍋の蓋を母親に持ってきてもらってそのまま寝かせるつもりだが、璃心の身体が心配で早くご飯を食べて薬を飲んでほしかった。
揺すられた璃心は薄く目を開いてこちらを見た。意識が朦朧としているのかぼーっとして小さく咳をした。
『璃心…?ご飯できたよ。少しでもいいから食べれる?』
「…………梨心…?ご飯…食べたいなぁ…」
璃心には何が見えているのか。梨心の名前を出して小さく微笑んだ。
大輝は少し不安に感じたがとりあえず食べれそうなので璃心の身体を起こして肩に持たれかけさせ、土鍋から少しだけ取皿によそって渡した。
だが、璃心は息を荒くして視界がよく見えていないのか取皿を受け取ることができなかった。
うーん、と悩んでからスプーンで小さくすくってフーフーと冷ます。
『ほら…璃心、口開いて』
璃心を抱きかかえるように体勢を変えてスプーンを璃心の口元に近づける。
僅かに開いた口の中にスプーンを優しく突っ込む。
もそもそと口が動いてスプーンを引き抜くとお粥が無くなっていた。
一口食べたことで一安心した。そのまま璃心が飲み込むタイミングを見極めて冷ましながらスプーンを口元へ運ぶと璃心はゆっくりとお粥を食べすすめた。
途中で咳き込んだりしたときには慌てて背中をさすって水を飲ませた。
そんなことを繰り返しながらある程度食べたところで璃心がふう、と息を吐いた。これ以上は食べれないようで水を飲ませて、取皿達をテーブルへなおしてしばらく璃心を寄りかからせていた。
「大輝、入るわよ」
『あ、ちょうどいい。食べ終わったから片してほしいんだけど』
「……片付けるのは大輝がなさい。これから璃心さんの身体を拭いたり着替えさせたりするから」
『…なっ?!俺がする!』
「バカ言いなさい、あんたに任せられるわけ無いでしょう」
璃心の部屋から締め出されて渋々洗い物をし始めた。
その間は大輝が璃心の体を拭くことを妄想して耐えた。
全部洗い終えて手を拭いていたところで隣接している部屋から物音が聞こえた。
そういえば璃心のことで忘れていたが璃心の母親は家にいるのかわからなかった。
だが、物音がしたということはこの部屋に璃心の母親がいるのだろうか、と扉に手をかけた。ほんの少しだけ開くと、そこは和室のようで畳の匂いが少しだけした。
『……璃心のお母さん?』
「……どちら様…?」
少しだけ開けた扉を大きく開きながら問いかけると暗い部屋から聞き覚えのある声が聞こえた。
なぜ電気をつけていないのかはわからなかったが、開いた扉から漏れた光で大体部屋の中が照らされた。
『大輝です。勝手にお邪魔してすみません』
「…あぁ、大輝くん。久しぶりね…ゆっくりしていって」
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