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君の名前をもう一度。











『…けほっ』




9月から10月に入り、もう夏服では寒さを感じるときもある。
いつも通り職場でデスクワークに勤しんでいる璃心だが喉の奥から何か出そうな感覚にむせる。
口につけているマスクを抑えながら人のいない方へと顔を背けて数回咳をする。
喉が痛くて咳が止まらないこの感覚はよく知っている。





「璃心さん、風邪こじらせてるわね」



『…けほっ、部長…すみません…体調管理が甘く…』



「仕方ないわ、季節の変わり目でもあるし、誰しもひくときはひくわ。ただ熱とかは大丈夫?」



『はい。げほっ…朝計って平熱でした。薬も持ち歩いてるのでけほっ、咳だけです』




咳をしてる璃心に歩み寄ってきた部長と話している間も咳が止まらない。
できる限り部長の方を見て話そうとするも、咳をするため顔をそらしてばかりでまともに顔を見て話せない。
昨日の夜から少し体調に異変が見られていた。
母親が急変しないよう常に様子を見に行ったり、母親が寝たことを確認してから自分も寝床につく習慣ができたりと常に気を遣っていることで負担が来ていたのかもしれない。





『うつさないように善処します…すみません…けほっ』


「本当なら療養してほしいけれど…今の時期は猫の手も借りたいからね…残業はさせないようにするからもう少し頑張ってちょうだい」


『はい…!ありがとうございます』



ヒラヒラと手を振りながら璃心のもとを去る部長を見送ってパソコンへと向き直る。
今の璃心が同僚や先輩に飲み物を持っていくと風邪をうつす可能性があるため断りを入れてデスクワークに専念している。
分厚く積み重ねられた資料を一枚一枚確認して打ち込む。
最近は朝から終業までずっとこれを続けていることが増えた。
こういう作業は他のことを考える余裕もないから今の璃心には心身を休める口実にもなるが、風邪がそれを打ち消すどころか身体にしんどさがのしかかっていた。
集中したくても咳き込むとその集中も途切れてしまう。




『……(1度休憩をはさもう…)』




そう思い立って隣の人に伝えてから席を立った。
給湯室へ来ると浄水をケトルへ注いで沸かす。白湯が出来ると火傷をしないように少しずつ喉へ通す。気休めくらいだが喉が潤うと咳が止まる気がする。
ついでに出勤前に飲んでからだいぶ時間が経っているので持ち歩いてる薬を喉に流し込んだ。
ふう、と一息をついて体の節々を軽く伸ばした。長時間の座り仕事は体が固くなる。
残り時間はできる限り集中をして少しでも資料の打ち込みを消化するように専念した。





「璃心さん、ありがとう。助かったわ。もう時間だからあがってちょうだい」


『はい、わかりましたお疲れ様です』




ようやく仕事に終わりの目処がついた頃、部長に上がるよう許可がおりたため部長に頭を下げて周りの同僚や先輩にも順次頭を下げる。
自分のデスクへ戻ってデスクの上に広げていた私物を鞄にしまっているとパタパタと誰かが駆け寄ってきた。
顔をあげて確認をすると、相手の方から声をかけてきた。



「璃心さん!お疲れ様です」


『けほっ…あ、船越さん、お疲れ様です』


「風邪、大丈夫ですか?」


『ご迷惑おかけしてすみません…けほっ、すぐ治ると思うので…』


「あまりご無理なさらず…その、しんどかったら俺も手伝うんで気軽に言ってください!」



いつも熱心な彼。前回食事のお誘いを断ってもこうやって気さくに話しかけてくれる船越とはたまに話す仲に進展していた。
わからないところはお互い聞きあったり相談をしたり、たまに世間話もする。船越からしたら自分に自信がつくくらいの大きな一歩となり、いつかまたご飯に誘えないか探っていたところだ。




『ふふ、心強いです。ありがとうございます。風邪が治ったらぜひご飯でも』



璃心の何気ない一言。
思ってもみなかったその言葉に心打たれ船越はしあわせに満ちていた。
最近感じなかった幸せをしばらく噛み締めていると、鞄を肩にかけた璃心が挨拶をして風のように職場を後にしていた。




「船越、璃心さんはみんなのものだ。やめとけ」


「というかあれは最初から相手にされてないね。うん」


「あれー?璃心さんて彼氏いなかったっけ?」


「え?!そーなのか?!あーまぁあんないい子にいない方がおかしいかぁ」


「先輩!!いじめないでください!」




ボロクソに背中から飛んでくる先輩達の言葉をかき消すように喚く船越。
周りはどっと笑いそのあと部長に怒られもう少しで終わる仕事を慌てて終わらせ始めた。









『大輝くんに、会いたいなぁ…』



職場からの帰り道、ふと思い出す彼氏の笑顔を思い浮かべながらぽつりとつぶやく。
就活を早く終わらせる、と言って連絡の頻度も減り会うことも無くなってしまった。
いつも元気をくれる彼からの連絡が減ってしまったことにこんなにも寂しさを感じるとは思わなかった。
いつも会いに来てくれているし、自分から行こうとも考えてみたが大輝の両親に会うことに少し気が引けて行けていない。
一言『会いたい』と連絡したら会ってくれるだろうか。だがいざ口にして大輝に断らせるのも申し訳ないし断られた自分も辛くなってしまうだろう、と結局心に留めたままだ。




『就活が終わったら…どこか旅行にでも行きたいなぁ…』




現実問題、高校生を連れて旅行へ行くなど大輝の両親も許さないだろうなあ、と言葉と心が矛盾なことを考えながらとぼとぼと帰路へつく。
携帯を手に取る。
トークアプリの友達のタイムラインを眺めていると充実した大学生活や、彼氏とのツーショットをあげているキラキラしたものが並んでいた。
今の璃心にはすこしみているのがつらい。
友達の中に紛れている梨心の名前を見つけてプロフィールを開く。あの事故の日からタイムラインも何も更新されていない。
過去を遡ると璃心とツーショットを撮ってはあげたり、料理が上手にできたら撮ってあげて、日常の何気ないこともこまめに更新している。それをパラパラ見返していると、大輝からトークが届いた通知が来た。



ー璃心、しばらく連絡取れなくてごめん。就活の方は近々面接に行くと思う。璃心も無理してないか?夜の外出許可が出たらまた会いに行くね 19:59





『大輝くん………』



文面だけでも大輝が喋っているように聞こえるくらいに大輝に会いたくてたまらなかった。
今までこんなにも耐えきれない欲求はなかったけれど、風邪をひいてることで寂しさでも相まってるのか、大輝にそばにいて欲しくてたまらなかった。
きゅう、と胸が締め付けられて涙がこみ上げてくる。
今まで家族が中心でそのために生きてきたのに、最近は大輝が中心に揺らぎつつある気がする。
不安がよぎる。



『だめ……お母さんも梨心も……私がいなきゃ…』



寒気に身体を震わせる。
頭を降って思考をかき消す。携帯の画面を見て大輝にトークを送り返した。


ー大輝くん。就活頑張ってるんだね、最近会えなくて少し寂しいな。私は少し風邪を引いちゃっ


途中まで打って、文を消す。
何回も、何回も、自分の欲望があふれ出してしまう文を打ち直す。涙で視界が滲んで袖で拭う。化粧がついてしまっても気にならなかった。
1度落ち着いて呼吸をしてからもう一度打ち直す。


ー大輝くん就活頑張ってね!私も仕事頑張ってるよ、お互い落ち着いたらまたどこか行こうね。



送信ボタンを押してすぐに携帯をしまった。
早く家に帰りたくて早足でそのまま帰った。
自分の心が自分でもよく分からなくなってきている気がして怖かった。
このままでは母親と梨心を支えていけない、と自分の欲望を押さえつけようとすればするほど心がおかしくなる。
ぁあ大輝くんとどこか遠くへ逃げ出したい。





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