君の名前をもう一度。
「考えていることはわかります。多分梨心さんに"は"今はまだ伝えるべきではないと思います。ただ…」
『……っ。璃心…ですか』
「はい。私達でもここまで動揺する現状です。璃心さんには更に酷なことでしょう。璃心さんの今の状態でお伝えしても大丈夫そうかの相談です」
『………』
「お母様には璃心さんに伝えられるタイミングでご一緒にお伝えしようと思っています。お母様のメンタルケアはこちらに任せてもらって大丈夫です。ただ…璃心さんは大輝さんにしかできないメンタルケアがあると考えています。一任してしまうのは申し訳ないですが………」
途中から木嶋の話が頭に入らなくなった。
話を終えた木嶋が立ち上がって大輝の隣に膝をついて背中を優しくさすった。看護師としての癖なのかわからないがこの手はいつも冷静さを与えてくれる。木嶋は辛そうに笑っている。
「頑張れ」なんて言わない。それが木嶋の優しさ。誰しも頑張りたくても辛いときはある。でも誰かが支えてくれる一緒にいてくれる。だから安心して、と背中に触れている温もりから伝わってくる気がする。
『璃心のことは……俺に任せてください…』
木嶋に今できる目一杯の笑顔を向けた。
引きつっているかもしれない、本当に笑えているかもわからない。
大輝の答えに木嶋は頭を下げてお礼を言った。
そして、診察室を出たふたりは改めて梨心の病室へと向かった。
木嶋が病室の扉をノックをして「木嶋です」と言うと中から先生の返事が聞こえた。
ゆっくりと扉が開く。中からは話し声が聞こえた。
中へと入っていく木嶋の後に続いて大輝も中へと入る。
病室にはいつもは眠っている梨心がベッドから起き上がって設置された机に何かを書いている。
隣に腰掛けている先生はそんな梨心に何か話しかけて微笑んでいる。
梨心が顔を上げて木嶋と大輝を見た。梨心からしたら知らない人が来たのだろうから先生の方を見て不安そうにしている。
「梨心さん、お姉さんの恋人の大輝くん。少し忙しいお姉さんの代わりにお見舞いにきてくれたんだよ」
「ねぇねのこいびと…?」
『こ、こんにちわ』
クラスメイトの喧嘩しかしてこなかった相手に改めて自己紹介するのは不思議な感覚だった。
でも梨心の中では歳上の人って感覚なのだろう。
腕時計を確認した先生は立ち上がって木嶋に話しかける。
大輝は梨心の元へ行くとこちらをじっと見ていた。そんな梨心と目を合わせるのが気まずくて手元にある紙を見た。
どうやら簡潔的なプロフィール表のようだ。今の梨心にどこまでの記憶があるのか確かめるためのものだろうか。
「こんにちわ!戸叶梨心って言います!よろしくお願いします!」
『え?あ、原田大輝です。よろしく、ね?』
元気に挨拶をする梨心はえへへと笑う。ほぼガーゼの取れた顔だが残った傷は白い肌に少し目立っていた。
顔を合わせるたびに嫌そうにしていたり睨んできたりしていた顔が今は無邪気に笑顔を向けている。
起きたら病院にいることも、自分の身体が傷だらけのことも、知らない男の人が姉の恋人だということも、色々なことがこの数十分で起きているのに、戸惑うことも怖がることもなく、笑顔でいるのは璃心と姉妹だからなのだろうか。
大輝は梨心への扱いがわからないまま梨心は大輝に話しかけてくる。
「お兄ちゃんは梨心のこと知ってるの?」
『……うん、知ってるよ。明るくて真面目で自分の意見がちゃんと言えて家族想いで……ってお姉さんから聞いたよ』
「えへへ、なんか照れちゃうね。ねぇねは今何してるの?学校?」
『……お姉さんは梨心のために頑張ってるんだよ』
「梨心が病院にいるのと関係があるの?梨心、なにか悪いことしたのかな」
小学生さながらの純粋さに嘘をつくのに抵抗が出てそれとなく隠すように話していたが、少し伏し目がちに悩む姿が妙に大人っぽく感じて大輝は柄にもなくドキッとした。
見た目は大人、中身は子供。そのギャップに振り回される男が1名。
先生は木嶋が話し終わったようで、ふたりに挨拶をして出ていった。
木嶋も梨心のもとにきて話に混ざる。
「こんにちわ、梨心さん。看護師の木嶋って言います。これから梨心さんが元気か毎日見に来るからよろしくね」
「はい!ありがとうございます!よろしくお願いします!」
「元気いっぱいだね、痛いところはない?大丈夫?」
「はい!起きたときは痛くて泣きそうだったけど、先生が治してくれました!」
「先生はすごいね、また痛いところがあったり気分が悪くなったらすぐに私に言うか、このボタンを押してね。先生と私が飛んでくるから」
「はい!わかりました!」
木嶋と梨心が微笑ましそうに話しているのを眺めて、大輝も今日初めて心が穏やかになる。
この調子なら璃心に伝えても梨心が癒やしてくれるはず。あとはどのタイミングで梨心に説明をするか、そこが悩むべきところだ。
今後のことを考えながらふたりを眺めていると不意に梨心がこっちをみた。
ドキッとして背筋が伸びた。
「お兄ちゃん、梨心の身体が治ったらお家に遊びに来てください!」
『…え?ぁあ、うん。俺も行きたいな』
「梨心のパパ、絵がすっごい上手なんです!いっつもねぇねと出かけてお花の絵や猫が丸くなって寝てる絵とか描いててね…」
梨心の口から出た父の話に大輝と木嶋は表情が凍った。梨心の中ではやはり父がまだ生きていた。
動揺して木嶋を見ると大輝を見ながら悲しそうに笑ってふるふると首を横に振った。
表情に出してはいけない、私達はまだ笑っていなければならない、と言っているようだった。
頭の中で想像しながら話しているのかふたりに気づかず楽しそうに梨心は話している。
ふふ、と小さく笑った梨心は大輝の様子を見て不思議そうにしていた。
「お兄ちゃん、どうしたの?梨心の話がわからなかったかな」
『ぁ、ううん。話を聞きながら俺も想像してただけ…すごいお父さんなんだね』
「そうなの!パパはね、病気らしいんだけどいつも笑顔で梨心たちと遊んでくれるんです!」
ひとしきり話したからか、梨心はふぅと一息ついた。
そのタイミングで木嶋は立ち上がって梨心の肩と背中に手を当てて横になるように促した。
談笑が終わってしまうと直感で感じた梨心は悲しそうに木嶋に抵抗するが、木嶋は「また明日があります」と笑顔で布団をかけた。
設置していた机を外して片付ける。
そんな木嶋を見ておとなしくなった梨心は大輝の方を見て口を開く。
『お兄ちゃん、また来てね。たくさん来てね』
「うん、また来るよ。次はお姉さんも一緒に来れるように言っておくね」
『わあ!ありがとう!ねぇねに梨心は大丈夫だよ!って伝えてください!』
璃心の話が出て梨心は満面の笑みでそう言った。
片付け終えた木嶋は大輝の方を見て「では行きましょうか」、と言う。大輝も返事をして梨心に手を振った。
部屋を出る、その時まで梨心は手を振り続ける。表情がそれに比例して寂しそうになっていった。
病室を出たら木嶋が目頭を抑えていた。
見ていてやはり辛いものが多い。無邪気に笑って亡くなったお父さんのことを話す梨心、幸せな時間しか知らない梨心。絶望、悲しみ、苦痛、虚しさ、寂しさ。それを今の梨心に与えることが辛いのは大輝にもわかっていた。でも黙っていてもいつかは知らないといけないことであり、後になればなるほど、もっとショックが大きくなるだろう。
木嶋に何も言えずにただ隣に立ちすくむことしかできなかった。
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