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君の名前をもう一度。





「璃心さん、お疲れ様もう上がってくれて大丈夫よ」


『はい!わかりました、ではお先に失礼します』



とある会社のオフィス。私、「戸叶璃心(とかの るこ)」の職場である。
高校を卒業後、ここの会社員として就職をした。
基本的には事務作業をしたり、上司や同僚にお茶を入れたり、作業が落ち着いたら資料整理をしたりと忙しなく毎日業務をこなしている。
上司にはよく気が利く子だ、と印象を良く持たれ家庭の事情を話したところ融通をきかせてくれて定時で上がれることを約束してくれた。残業が必要な場合には事前に伝えてくれて梨心とも連絡が取りやすい。
だがそんな上司にも言えないことがある。




『おはようございます、店長』


「おお、璃心ちゃん。お仕事お疲れ様。何か食べてからにするかい?」


会社からは少し離れた居酒屋。璃心はそこで副業としてアルバイトをしている。
副業を禁止されている会社だが、璃心が家計を支えているからには会社だけでの給料では母も梨心も安心して暮らせない。
そのために会社からほど近い母の知り合いである居酒屋の店長に無理を言ってアルバイトをさせてもらっている。
家の事情も母のことも知っている店長は無理をしないよう璃心に言っているが責任感が強い璃心は家族の為と言って仕事をこなしている。


『あ、じゃあご飯といつものつまんでいいですか?』


「はは、そういうと思って少し多めに仕込んであるよ。はいチキン南蛮」


『ありがとう店長!いただきます!』



道中で着替えたであろうスーツのシャツの上からパーカーだけを着ている姿を見て店長は璃心が不憫でならなかった。
まだ20歳の女の子が朝から日付が変わるまで一心不乱に働いて家族を養っているこの光景が辛くてたまらない。
だがここで「そんなに頑張らなくていい」「もっと自分を大切にしなさい」なんて言えないほどの事情だからこの子を支えられるように応援することしかできなかった。
自分の料理を満面の笑みで頬張る姿は本当に子供の頃から変わらないのに、重荷だけは背丈が大きくなるに比例して大きくなっている。そんな華奢な身体と確実に削れていく心がいつか壊れないことを祈るばかり。



『ごちそうさまでした店長!着替えてきますね!』


綺麗にたいらげたお皿を返却口に返して更衣室へと向かう璃心。
居酒屋へ来る途中のコンビニのトイレで着替えたパーカーとシャツを脱いで制服を身に纏う。脱いだシャツに消臭スプレーを吹きかけてロッカーへしまい扉を閉め鍵をかけた。
会社の仕事用に綺麗に結った髪をほどいて手ぐしで簡単に束ねて縛り、壁にかけてある鏡と向かい合って薄めに塗っている化粧を整える。
軽く伸びをして体をほぐしてから更衣室を出た。



『今日も一日よろしくお願いします!』





居酒屋の仕事を終えた璃心はあらかた片付けを終え、残りは店長に任せて、まかないを持って帰路へついた。
日付はまだ変わっていないが夜も更け日中の暑さが嘘かのように肌寒い風が少しだけ吹いていた。
腕まくりをしていたパーカーを元に直して昼間の仕事用のカバンやスーツを詰め込んだ大きなカバンを肩にかけ直す。
この静かな帰宅途中、物思いにふける。
私はいつまでこんな生活を続けるんだろう、と何度も思ったことはある。けれど答えはいつもひとつ。


『家族が幸せであり続けるために続けなきゃな』


ぽつりとつぶやいて赤信号を止まる。
歩みを止めた時、パーカーのポケットに入れていた携帯が震えた。取り出してディスプレイを確認すると、恋人である大輝からトークが来ていた。



『あ…今日全然返せてなかった…』


申し訳無さにトークを開くと、学校が終わったであろう時間から数件のトークが並んでいた。
ーお疲れ様!長かった授業がやっと終わった!璃心も会社終わった? 16:34
ーもしかして今日居酒屋入ってた?あーあ、俺も璃心の職場行きたいなー 17:56
ー何度もごめんな!進路のこともあるし今度時間があったら璃心の家行きたい! 22:44
ー俺も璃心と一緒で就職にしようかなー 23:23
大輝らしいメッセージが並んでいて少しだけ頬が緩まる。スッスッと指を動かして返信を送る。
ー大学に行ける余裕があるなら絶対そっちのほうが自分のためにもなるよ?
送ったあとに自分の返信を見返して少し素っ気なかっただろうか、と思い言葉を付け足そうと指を動かしている途中に既読が付いた。
焦って指を動かすが誤字に繋がってしまい、モタモタしているとぽんと大輝からのトークが飛んできた。
ーそうだろうけど、璃心が大学行ってる間も心身すり減らして働き続けてるの見るの俺が辛いかもしんない。俺にもその大変さを分けてほしい。
思っても見なかった大輝からの返信に心の奥から何かがこみ上げてきた。けれどこれを決壊させるわけにも行かず、深呼吸をして落ち着かせた。
そのついでに信号を確認すると、ちょうど青信号へと変わった。
車通りはそんなに多くはないが確認してからゆっくりと横断歩道を渡る。その間に大輝からの返信を思い返す。
大輝から見える私はそんな感じだったのか、と思う反面、私を助けるために進路を考えてくれてることが嬉しかった。
父が亡くなってからというもの、私達家族に手を貸そうという人たちはいないわけではなかった。だが、深くまでは突っ込まず、あくまで上辺でどこか一線を引いてそこまでなら助けれる、といったようなものが多かった。
世間体的に手を貸さないといけない、でも他人の家族を助ける余裕はないから深い関わりあいはやめてほしい、といった感情が見受けられた。
普通の近所付き合い程度の助け合いならまだ良かったかもしれない。
ただ、当時の璃心達家族は父を失ったショックで母は精神的に不安定になり、中学3年生だった璃心は高校進学のための受験シーズン。そして妹の梨心は中学1年生だった。
仕事もまともにできなくなった母の代わりに生活のやりくりは全て璃心が行い、まだまだわがままな梨心の世話をし、母の看病も、病院には連れて行けずわからないながらにがむしゃらに頑張った。
そんな家族をただただ周りは憐れむことしかしなかった。
だが恨んだり憎んではいない。そんなことをしていたって家族は幸せになれなかったから。璃心の中の中心はいつだって家族だった。
だから、璃心に純粋に助けの手を差し伸べてくれた大輝のことを璃心は家族と同じくらいに大好きになったのだ。
歳下でまだ学生の彼。けれど、若いながらに芯は通っていて真っ直ぐに自分のことを好きになってくれた大輝に恋愛沙汰に無頓着であった璃心も心を打たれた。
心の支えに家族と他に大輝ができたのであった。
そんな過去のことを振り返って、大輝への返信を考えながらあともう少しの帰路を歩く。


「おねーちゃん!!おかえり!!」


家が見えてきて鞄から鍵を取り出しているときに頭上から聞き慣れた声が聞こえた。
2階の自室の窓から顔を出している最愛の妹。軽く手を降って玄関の鍵を開ける。
扉を開けるとき奥からぱたぱたと走る音が聞こえた。
家の中へと入ると廊下で梨心が出迎えてくれる。犬のように尻尾があればぶんぶんと振っていただろう。



『ただいま、梨心。学校へは行った?』


「うん!ちゃんと就職について先生にも相談してきた」


『山ちゃん先生(担任)なら安心して相談できたでしょ』


「本当に良い先生だよ〜真剣に就職先探しちゃったよ」


『ふふ、最初から真剣に考えなさい』



そんなやり取りをしながらリビングへと向かい、荷物の中からスーツを取りだす。ハンガーラックに引っ掛けて消臭スプレーを数回全体的に吹きかけて、コロコロをかける。
居酒屋の制服は洗濯機へと放り込み、新しい制服を棚から取り出して鞄の中へ押し込んだ。
その間も梨心は璃心の周りをついて回り、今日あった出来事をいろんな表情をしながら話している。



「大輝ったら酷いのよ!私に突っかかってくるから先生に怒られて進路相談室から追い出されちゃったんだよ!」


『また懲りずに言い合いしてるの?本当に飽きないねぇ』



大輝の話をしているときに、トークで大輝に返信をしていないことを思い出した。
まかないをテーブルの上に広げてつまみながらトークを開く。
梨心は気にせずにむしろまかないを一緒につまみながら話し続けている。
ーありがとう。そんなこと考えてくれてたなんて知れて嬉しい。私も大輝くんと支え合っていけたらもっと頑張れるよ 23:50
送り終えてからまかないを食べ終わるまで梨心の話を聞いていた。
正直、梨心には大学か専門学校に通ってもらいたかった。それが梨心の将来のためになると思っていたから。けれど過去にその話をしたときに、璃心の想いとは裏腹に梨心はケラケラと笑って璃心の手をぎゅっと握って優しくこう言った。


「お姉ちゃん、今まで本当にありがとう。私達のためにずっとずっと苦しい想いもしてきたし大変だったと思う。だからね、今度は私がお姉ちゃんのためにたくさんたくさん働くから。だから私が高校を卒業したらね、お姉ちゃんはお姉ちゃんのために生きてくれて大丈夫だよ」


嘘偽りなく、きっと純粋にそう考えてくれていたのだろう。言い終わったあと恥ずかしそうに頬を赤らめて緩んだ口元を手で隠した。
そんな梨心に璃心はポロポロと涙をこぼしてぎゅっと力強く手を握り返した。『ごめんね』とは言えず無言でただただ手を握りしめることしかできなかった。
申し訳無さも確かにあった。気を遣わせてしまっているかもしれない。
初めて自分の前で涙を流す姉の姿を見た梨心は、驚きを隠せずに姉に呼びかけるが手を握り返す姿に自分の言葉で傷つけてしまったのではないかと心配した。




「ありがとう…ありがとうね、梨心」



そう言った璃心は涙でぐちゃぐちゃになった顔で梨心によく似た笑顔を見せていた。





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