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君の名前をもう一度。






璃心との一夜が明け、仕事に行くのを見送り、大輝はその足で梨心のいる病院へと向かっていた。
歩いていくのは大変だが、いつもタクシーを使うわけにも行かない。学生の身としてはお小遣いも貴重である。
大通りを渡り、駅を超えて何本か信号を渡る。そこに大病院はある。
朝早くに出てきたために受付時間はまだ始まっていない。大病院に行く途中にあるコンビニで適当にパンと飲み物を購入して、隣にある公園のベンチに腰を掛けてお腹を満たした。
ひとりの空間。駅から少し離れていることもあってここあたりの住宅街は静かだ。
時折吹く風に気持ちよさを感じながら少しだけ、物思いにふける。
最近のこと、璃心のこと、今後の自分のこと。
どれもこれも考えもしなかったことが次々に起こっては自分がなにか考える前に物事が動いてしまう。
それをただただ見ているだけで全然行動に起こせないのが歯がゆい。
璃心は必死にあがいているのに岩辺で手を伸ばして叫んでも荒波の音には勝てない、そんな感じだ。
これから自分は就職するつもりだ。何個か求人にも目処をつけてこれから履歴書を送って面接に行く。決まったことなのに本当にそれでいいのか自分に疑問を抱いてしまう。
心の中で自分は就職を選んだことを後悔してしまっているのだろうか。本当は友達と進学したかったのだろうか。璃心と生きていくことに不安を感じているのだろうか。
そんな疑問が出てきてしまう。
頭を振ってそんな考えをかき消す。
自分の信念だけは曲げてはいけない。両親にできたことなのだから自分にだってできるはず。それに今まで出会ってきた女性の中で璃心が1番に好きになった女性であり支えたいと思った女性だった。それは今でも変わらない。
ひとしきり考えて、ため息をついて立ち上がる。
食べ終わったゴミを袋の中に入れて小さく縛ってポケットに突っ込んだ。
携帯で時刻を確認する9:03。そろそろ病院へ向かおう。ずいぶん長いこと居たから飲み物もすっかり飲み干した。飲み終わったペットボトルを公園に備え付けのゴミ箱に捨てた。
そのまま公園を出て病院の方へ歩いていく。




『梨心はこれからどうすんだろ』



俺以外のクラスメイトや先生には梨心はすごく愛想が良い。と言うかあれが本来の梨心の姿なのだろう。
ただ俺に対しては意見が合わないからいがみ合っているだけ。
それは自分でも分かっているが俺にだって考えや意見はある。それが合わなければ反論したいし、間違いだと思えば指摘をする。ただそれだけだ。
梨心とは意見をぶつけてきたが、梨心については何も知らない。こんなにも言葉の暴力をぶつけ合ってきたのに。
璃心を見ていれば梨心が良い子で優しい子なんだとはわかる。
そんなことを今更考えながら病院の入口へ辿り着いた。
人が出入りしてるあたりもう受付は始まっているようだ。
入口の扉を開けて中へと入る。
まずは璃心の母親の様子を見るために説明をすると看護師は先生か木嶋から話を聞いていたのか快く受け入れてくれた。
前にも書いた受付シートに記入をして璃心の母親の病室の番号を聞いた。
ナースステーションからほど近い病室だった。
扉を開くともうベッドから起き上がって看護師と談笑している璃心の母親の姿があった。
とりあえずまた取り乱していないことに安堵しながら挨拶をすると母親もにっこりと笑って挨拶しかえした。まるで昨日の記憶がないように対応する姿に不気味ささえ感じる。
病院でゆっくりと過ごしたからか体の調子は良さそうだ。



「大輝くん、お迎えありがとうね、でも私ひとりでも大丈夫よ。家に帰って家事をしなきゃ。梨心の付き添いはお願いしても大丈夫かしら?」


『あ、はい。大丈夫です。あまりご無理なさらず家でもゆっくり休んでください』


「ご親切にありがとうね。それじゃあまた今度遊びに来てちょうだいね」




璃心の母を病院の入口まで見送ってあとは看護師に任せた。そのまま大輝は引き返して梨心のいる病室に向かった。
璃心の母親が取り乱したあとにケロッと笑っているのは精神的なものだから仕方ない、と璃心の心労を考えると腑に落ちないところがあるがぐっと堪えた。
エレベーターへ乗り込んで5階を押す。ゆっくりとエレベーターは上昇し始める。




『……あ、梨心へのお見舞いなんも持ってきてねぇや…』



病室の前に来てから自分が手ぶらのことに気づいた。
来てしまったものは仕方がない。病室の扉を開く。
変わらず眠っている梨心の姿があった。
近寄って様子を見てみる。顔のガーゼはほぼほぼ取れている。よく見ると腕の管も減った気がする。
梨心の腕を布団の中に入れて布団を整える。
椅子に腰掛けて静かな空間の中梨心を見る。




『梨心、早く璃心を安心させてくれよ。璃心が今にも壊れそうで俺はいつも怖いんだ』




話しかけてみる。
もちろん返事はなかった。規則正しく呼吸をしている。試しに頭を撫でてみる。璃心や看護師がやっていたように、優しく、優しく、優しく… 。
この声が届かないことが悔しい。
璃心の笑顔を見るたびに安心しながら不安になる自分がいる。
その笑顔を疑うこともある。
自分にも仮面の笑顔を見せていることがたまらなく辛い。何も我慢することも隠すこともなくなって欲しい。そうしたら心から安心してその笑顔を見て幸せになれるのに。



「…ぅ」


『…梨心?!』



俯きながら苦しみに堪えていると誰もいない静かな病室に大輝のものじゃない声がした。
ハッとして梨心の方を見ると眉間にしわが寄っている。
今度はさっと落ち着いてナースコールを押す。
梨心が目を開くのをただ待つ。
数回眉間に力が入って、うっすらと瞳が開いた。
身を乗り出して梨心の顔に近づく。
目が合う。



『……梨心?』


「………ぅ」



意識がないようにぼーっとこちらを見つめた梨心は顔を歪ませて唸った。
この反応は痛さか何かを感じているのだろうか。
大輝はこの間とまた違った反応に戸惑いながら先生が来てくれるのを待った。
少ししてからパタパタと足音が聞こえてくる。
先生が来たことに安堵しながら病室の扉の方を見る。
ガララ、と扉が開いて世良が入ってくる。後ろには木嶋も付いている。




『先生!梨心が痛がってます!』


「おや、それは意識が戻ってる可能性が高いね。しばらく僕と看護師で対応するから大輝くんは外で待っててくれるかい?」


『え…ぁ、はい、分かりました』



自分が付き添えないことに不安を感じながら木嶋に連れられ病室を出る。木嶋は「大丈夫だから安心して待ってて」と笑顔で言って扉がゆっくりと閉まった。
5階にある休憩所の椅子に腰掛けてしばらく待つ。
携帯には親からの連絡と友達グループの就活や模試の結果報告などが通知に入っていた。
自販機で適当に飲み物を買って、字幕が表示されている無音のテレビをぼうっと眺めた。
梨心が意識を戻すかもしれない。
待ちわびていたことだが実際にその時が来るとこんなにも落ち着きがなくなるものだ。
テレビの内容など一切頭に入らない。ただただ思考を埋めているのは梨心のこと、璃心のことだけだ。
休憩所に看護師の声が響いた。



「原田大輝様いらっしゃいますか」


『……あ、俺です』




返事をした大輝に看護師が気付いて看護師が梨心の病室の方へと歩き出した。その後を付いていく。
時間にして30分か1時間が経っていただろう。
病室の前に木嶋が立っていた。看護師が大輝を連れてきたことを確認すると看護師にお礼を言って看護師はそのまま立ち去っていった。
木嶋はそのまま大輝の方を向いて話し始めた。



「あなたなら、落ち着いて話を受け入れられるから単刀直入に言うけれど大丈夫ですか?その話をした上での相談もあるんです」


『え?……はい。大丈夫です』




最初は戸惑った大輝だが、少し悩んでから姿勢を正して返事をした。
その様子を見て頷いた木嶋は場所を変えるために近くの診察室へと大輝を案内した。
診察室へと入った大輝は初めての空間に緊張しながら勧められた椅子に腰掛けて木嶋を見た。
先生が書いたであろう診察結果の紙を見ながら少し眉を寄せる木嶋に大輝は生唾を飲んだ。




「あのね、大輝くん。梨心さんは一部分が記憶の欠落を起こしています。いわゆる記憶喪失ってものです」


『記憶喪失…?』


「意識を取り戻した梨心さんは喋り方が少し幼く感じたのをきっかけに色々と質問をしました。事故の記憶はもちろん、高校、中学と記憶が欠落していました。おそらく今の梨心さんの記憶は小学5年生ほどの記憶です」


『小学5年生…』


「私達のことも記憶がないです」


『ってことは梨心はまだ…』


「父親が亡くなったことも知らない状態です」



なんて言うことだ。
梨心がショックを受ける部分がまるごとごっそりと無くなっているなんて。記憶を無くした梨心にまたこの現実、事実を全て話さなくてはならないってことか。そんな酷いことを誰ができると言うんだろう。
動揺が隠せない。俯いてガタガタと身体を震わせる。





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