君の名前をもう一度。
『え…梨心…?!』
驚きのけ反った大輝は梨心をしばらく凝視する。
まぶたにきゅっと力が入り、指先はピクピクと痙攣している。
大輝にはこれが目が覚めることなのか容態の急変なのかわからなかった。パニックになった大輝は周りを見渡して目に入ったナースコールに飛びついた。何回もカチカチと鳴らして梨心を見る。
すると、梨心の目がうっすらと開いた。
ぼんやりとその瞳は天井を見つめている。意識はあるのだろうか。ドキドキしながら大輝は梨心を見つめる。
廊下の方からパタパタと複数人の走る音が聞こえる。
「戸叶さん!どうしましたか!!」
先生が扉を開けながら少し大きめな声でこちらを見た。
困惑している大輝の姿と変わらず寝ている梨心の姿で異常がないことを確認すると少しホッとした顔をして大輝のもとへ近寄った。
『先生…!梨心が…!』
大輝のものへ来たときに梨心の目が開いていることに気がついた。
だがその瞳はどこを捉えるわけでもなくぼんやりと天井を見ている。梨心の視界にひらひらと手のひらを動かす。瞳孔は少しだけ動いた。
「ふむ…おそらく意識を取り戻したと言うより意識が混濁してますね。目が覚めるのと眠っている中間地点と言いましょうか」
『よ、容態の急変とかではないんですよね…?!』
「はい。命に別状はありません。むしろ意識を戻す兆しが見えたと思ってもいいかもしれません」
『り、梨心……』
力が抜けて椅子に腰掛けた大輝は大きく息をついた。
もし梨心に何かあったらもう璃心とその母を止められる者はいないだろう。
ひとりを残して他の看護師は病室を出ていった。
残った看護師は梨心の布団を綺麗にかけ直した。
点滴の器具の調節をしているとき、梨心の口元が小さく動いた。
「…ぱぱ…」
小さな声で2文字だけ発した梨心。
病室にいるものが梨心を見た。もそ、と梨心の右腕あたりが動いた。
先生がすかさず梨心の布団を少しだけめくって腕が見えるようにした。
大輝もおろした腰をふたたび上げて梨心の様子を見逃さないように集中した。
「ぱぱ…?」
顔がかすかに動く。梨心の顔が大輝の方を見ると布団がめくられ自由になった腕が震えながら手を伸ばされた。
大輝は先生を見る。先生は頷いた。
梨心の震える手を大輝はおそるおそる握った。優しく壊れないように手を包み込むと、かすかにきゅっと梨心の手に握り返された。
大輝を見て「ぱぱ」と呼ぶ梨心。梨心には大輝が父に見えているのだろうか。意識が混濁しているからこそ夢と現実が混じっているのかもしれない。
でも何度も呼びかける梨心の声には寂しさが感じられた。
「………」
『梨心…?梨心…!』
「…また意識が無くなりましたね…このまま夜、看護師が交代で付き添うので今日は璃心さんの母親と家に帰りましょう」
『あ……ぃゃ、璃心の母親は今日、病院に泊めてはもらえないでしょうか。璃心が…精神的にやられてて…多分、母親と少し距離を開けたほうが良いと思うんです。無理言ってるのはわかるんですが…朝には俺が迎えに来るので…』
「………それはしょうがないですね、こちらで手続きさせていただきます。璃心さんも心配ですし…」
『あ、あの、すみません、ありがとうございます』
大輝の真摯さに先生が折れた。
こんなに必死にお願いをされては無下にできない。璃心の母親はちゃんとしたカウンセリングを受けてないからこれを機にカウンセリングをしようと言う体で手続きをしようと頭で考えた。
ナースステーションへ降りた大輝と先生は今まで璃心の母親の付き添いをしていた木嶋と合流をした。
璃心の母親は疲れきったようで椅子に腰掛けて寝息を立てていた。
とんとん、と先生が肩を叩いて璃心の母親を起こすと璃心の母親を病室に案内をした。
木嶋は一息ついて腰をとんとんと叩いた。
『あの、ありがとうございました』
「私にできることをやっただけですよ。梨心さんの様子はどうでしたか?」
『あ…さっき意識の混濁?が起きて少しだけ起きた感じでした』
「まぁ!早く目を覚ますと良いですね。私も梨心さんと早くお話をしたいです」
そう言って木嶋はナース帽を取って髪を縛っていたヘアゴムを取った。髪が肩を超えて胸元までおりた。
柔らかく微笑んで木嶋は口を開いた。
「さて、高校生をひとりで帰すわけにもいかないし送っていきますね」
『え!いや、悪いです』
「遠慮しないで、何かあったら大変だもの」
「支度してくる」と言った木嶋は受付に大輝だけを残して奥へと消えていってしまった。
取り残された大輝は勝手に帰るわけにもいかずキョロキョロと周りを見渡した。電話可能スペースに気付き頭の中に璃心がよぎる。
携帯を取り出すと電池残量が10%を切っている表示が出ていた。
学校帰りからここまで通話を繋ぎっぱなしだったから仕方がない。璃心に電話しようとも思ったがトークだけ残すことにした。
トーク画面を開くと璃心からのメッセージが来ていることに気付いた。慌ててメッセージを開くと一言だけそこには表示されていた。
ー大輝くん、ごめんね 19:56
メッセージはつい数分前に送られている。電話を切ってからなんの音沙汰もなく母も帰ってこないとなれば心配していることだろう。
大輝もメッセージを打ち込む。すべてを打ち明けたらまた璃心が不安に思ってしまうのでまずは璃心が安心をするように。
ー連絡が遅れてごめん。今は病院だけど、今日は璃心のお母さんは病院に泊めてもらうことにしたよ。俺もこれから璃心の家に行くから。
メッセージを送り終えてふぅと息をつく。一応両親にも連絡を入れよう、と思ってメッセージを送る。
『母さん、めっちゃ怒るだろうなぁ…』
苦笑いをしつつ携帯をしまうと木嶋が廊下から歩いてきた。璃心とはまた違った大人の女性らしい綺麗な服装。少し目のやり場に困りつつ頭を下げる。
ぐいーっと伸びをした木嶋は病院の出入り口から出ると裏手側に案内した。
「ふふ、あなたを送るって言ったら先生からそのまま直帰許可下りたから珍しく少し早帰りができました、こちらがお礼言わなきゃ」
『え、そうなんですか、わざわざすみませんすぐ帰れたものを』
「看護師がこんなこと言うのもあれかもしれないですけど、久しぶりに晩酌ができそうなのです」
そう言って大輝を見て微笑む木嶋からは言葉とは違う表情が読み取れた。
木嶋なりの励まし方なのだろうか。
大輝が木嶋を見ながら小さく笑うと木嶋もつられて笑った。
裏手側歩いているとまたひとつ駐車場が見えてきた。こちら側が従業員用の駐車場なのだろう。
角が丸いタイプの水色の車に駆け寄って木嶋が鍵を開ける。木嶋が乗り込んだタイミングで大輝も扉をあけて助手席に座った。
車の中は少し甘い香りがした。綺麗に手入れされた車内を見ているとなんとなく木嶋の性格が見えてくるような気がする。
エンジンをかけた木嶋に家の住所を聞かれたので、大輝は慌てて璃心の家を携帯のマップで探すとそれを木嶋に教えた。
車のナビにその住所を打ち込むとナビは案内を始めた。それに合わせて木嶋はアクセルを踏み込むと車はゆっくりと動き出した。
「今更ですけどお名前お伺いしても良いかな」
『あ、すみません名乗ってなかったですよね…原田大輝です。高校3年生です』
「こんな時間に高校生といて私、犯罪にならないですよね」
『ははっ、大丈夫だと思いますよ。こちらも助かってますので』
「そっかぁ、3年生ってことはもう受験勉強とかしてるんですか?」
『いや、僕は就職しようと思ってるので、就職活動中です』
「そーなんだ、頑張って働くんだよー若者よ」
そんな雑談を続けていると、車は大輝がわかる道へと出てきた。そこからはナビと共に大輝も細かく道を教えていく。
住宅街をゆっくりと走り、近くに璃心の家が見えてきた。大輝は璃心の家を指差す。
木嶋が車を家の前で止めると大輝は車から降りてもう一度丁寧に木嶋にお礼を言った。笑顔で手を振る木嶋はそのまま車を走らせていった。
『ふぅ………よし。』
息を整えて、玄関の前に立つ。
家の明かりが全然付いていないことが少し気になっていた。璃心は大丈夫だろうか、とインターホンを鳴らす。
しばらく待つが璃心が出てくる気配が見られなかった。パタパタと走る音もなければ玄関に明かりがつく様子もなかった。
不思議に思いながらもう一度インターホンを押す。
ぴんぽーんと軽快な音が聞こえるものの璃心は出てこなかった。
試しにドアノブに手をかける。
ガチャとノブは下へと降りた。
え、と困惑しながらドアを引く。ドアは何も抵抗せずに開いた。ノブを握ったまま固まる大輝。
『璃心ー…?』
息を呑みながらゆっくりと中へと足を踏み入れた。
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