君の名前をもう一度。
『?!璃心?!大丈夫か?!』
学校が終わり、就活に向けての諸々の練習がようやく終わった。
そのことを報告しようと帰り道璃心に電話をかけたところ、電話越しの璃心の泣きじゃくりながら助けを求める声と、声とともにドタバタと何か揉めているような音が聞こえた。
何があったのかと必死に電話越しに聞こえる音で把握しようとするも、音だけでは何かわからない。
家に帰ったばかりだが制服のまま携帯と財布を持って飛び出した。大きな声で電話していたために母親が様子を見に来ていたが構わずに玄関から出た。
玄関を出たところで自転車に乗ろうとしたが電話も切りたくなく、悩んだ末に自分の足を信じて走り出した。
璃心の家までは全力で走ったら15分。
『璃心!!家に行くから!!!もう少しだけ耐えてくれ!!!!』
「大輝くん!!家まで来て!!!」
璃心には大輝の声は届いてないのか会話が噛み合っている気がしない。
どうしたんだ、と不安になりながら一心不乱に走り続ける。
走り続けている途中で携帯から璃心じゃない人の声が聞こえた。と、ほぼ同時にパシンッと何かを叩く音が聞こえた。小さな璃心の悲鳴。
璃心とは違うこの声には聞き覚えがある。すぐにその人とわからなかったのはその人の怒鳴り声を初めて聞いたからすぐには結びつかなかった。
この声は璃心の母親だ。
『璃心?!』
早まる鼓動を抑えて耳に集中する。
その後は璃心が母親を呼ぶ弱々しい声とバタバタと物音が聞こえた。
息を切らしながら走る。赤信号も待つのがもどかしくて車を確認して走って渡った。
璃心の家までもう少し。
璃心の家が見えてくる道を曲がったところで少し遠くに見覚えのある姿が見えた。
乱れた髪、細いながらも程よくついた肉、部屋着らしい服をまとった璃心の母。
酔っぱらいのようにふらふらと外壁や電信柱に手をついて小さい歩幅で歩いていた。よく見ると靴すらも履いていない。
やはり精神不安定が再発しているのか。
息を少し整えて早足で駆け寄る。
『……璃心のお母さん!』
おそるおそる呼びかけると前髪の隙間から少し顔を上げてこちらを見た。
その様子は初めて璃心の母と出会ったまだ精神を病んだ状態のあの姿のようだった。
最近見たあの笑顔と同じ人物とは思えなかった。
璃心の母は大輝と認識するなりすごい形相で腕を掴んだ。ゾクッッと背筋が凍りついた。
「私を警察へ連れていきなさい!!!あいつを、あいつを殺してやるんだ!!!」
そう言いながら爪を大輝の腕に食い込ませぎゅうと腕を更に力強く掴んだ。
あまりの気迫に怯んだ大輝は一歩後ろへとのけぞった。
この状態の母をずっと何年も璃心はなだめてあそこまで回復させたのか、とふと璃心の笑顔を思い出した。
黙っている大輝に璃心の母は更に迫るように怒鳴り、腕を離して横を通り過ぎてふらふらとまた歩きだしていた。
ハッとして母の腕を掴む。
『お、俺もついていきます』
「……」
まっすぐ目を見る大輝に、璃心の母は釣り上げた目を少し下げた。
また壁や電信柱に手をつきながら歩く璃心の母の歩行速度に合わせて歩く。この先は病院に行くときに通る大通りへの道だ。
璃心と電話をする前からおそらくこの状態だったからだろうか、どんどん璃心の母の息遣いが荒くなっている。体力が尽きてきているのだろう。
少し璃心の母の前へ出るとしゃがんだ。両手を後ろへ回しておんぶをする形を作る。
『あの先の大通りでタクシーを拾います。そこまでおぶるんで乗っかってください』
「………ありがとうございます」
か細い声で小さくお礼を言った璃心の母は大輝の背中に身を預けた。
本当におぶってるのかと思うくらいに璃心の母は軽かった。首に回している細い腕が見えるのがおぶっている証となっている。
学校終わりに全力で走った大輝も体力は残っていないが、璃心のために力を振り絞る。1歩ずつ足を踏みしめていき大通りへと出た。
息を切らしながら大通りへと出ると、ガードレールに近寄ってタクシーを待つ。
大通りのためどの時間帯でもタクシーは捕まるはず。
数分タクシーを待っていると、黒いタクシーが見えた。手を上げて少し振ると、大輝達の前でタクシーが止まった。
『乗ってください』
「………」
手を引いてタクシーに乗せる。
ゆっくりと乗り込んだ璃心の母は先程と打って変わって静かになり、ぼうっと一点を見ながら大人しく座った。
璃心の母が座ったことを確認して大輝もタクシーに乗り込む。
運転手に行き先を伝えるとタクシーの扉が閉まって走り出した。
『運転手さん、電話しても大丈夫ですか』
「ええ、どうぞ」
携帯を手にとって通話が繋がったままの璃心に呼びかける。
電話からは璃心のすすり泣く声しか聞こえない。
璃心がこんなにも泣いているのは初めてだった。胸が苦しくなって大輝も泣きそうになる。
その想いをぐっとこらえてもう一度璃心に呼びかける。
すると璃心の泣き声が少し収まって、鼻をすする音ともにゴソゴソと聞こえた。
どうやら璃心が携帯を手に取った音のようだ。
『……無理してこなくても大丈夫だよ、本当にしんどいときは1回落ち着いてゆっくり寝ていいんだよ』
疲弊しきった璃心の声にはもういつもの元気も無く、心が折れてしまったかのような声だった。
璃心の母は確実に快復していた。笑うようになった母に璃心は安心していた。母と梨心に付きっきりだった璃心にも余裕ができて大輝とのデートも実現できた。
そんな待ちに待った日常を璃心は心から喜んでいたからこそ母の病の再発は心への負担が一気にのしかかったのだろう。
だが、これまではひとりだった璃心にも大輝がいる。
今度は自分がその負担を背負おう。
絶対に璃心ひとりに背負わせないこの重荷。
電話を切った大輝は隣で背中を丸める璃心の母の背中を優しくさすった。
「到着しました」
『ありがとうございます』
お金を支払ってタクシーから降りる。病院には点々と明かりがついている。受付時間はとっくに過ぎているがどうしよう、と迷っていると璃心の母が歩きだしていた。
真っ直ぐに病院の入り口へ向かうとそのまま入り口の扉を開いた。
いとも簡単に扉は開いた。
ここは璃心の母に任せよう、と後ろを歩いていると入り口を開けた音が聞こえたのか奥から看護師が出てきた。
「すみません、もう受付時間は過ぎていまして…」
「世良…世良先生はいらっしゃいませんか…」
「え?加賀先生ですか…」
璃心の母が看護師ににじり寄る。
大輝が止めようと手を伸ばすと看護師が出てきたところからまた違う看護師が出てきた。
見覚えのある看護師、木嶋だった。
木嶋は璃心の母を見るなり最初に出てきた看護師を戻らせてナースステーションからこちらへ歩いてきた。
「戸叶さん。どうされました?」
『あ…えっと…』
大輝が説明しようとしたところで木嶋は大輝に向かって鼻と口に人差し指を付けて何も言わないように指示した。
口をつぐんだ大輝はただふたりを見つめてまた発狂しないことを祈った。
だが、予想とは裏腹に璃心の母は落ち着いていてぽつりぽつりと話し出す。
「………梨心を、轢いた犯人が、目を覚ましたらしいの…梨心は起きないのに…」
「そう…それは不安に思ったんですね…」
「犯人達が…謝罪に来たって…梨心は起きないのに…梨心…」
「うん…大丈夫ですよきっと…梨心さんは強い子ですよ…」
璃心の母の話を頷きながら聞く木嶋はゆっくりゆっくりと受付の椅子へ座らせてその隣に座った。
背中をさすって落ち着かせながら親身に璃心の母の話を聞く木嶋の姿を見て璃心と重ねてしまった。
こうやっていつも璃心は母と対峙してきたのだろうか。母が暴れるたびに、発狂するたびに、泣いてしまうたびにこうして寄り添ってたくさん話を聞いてたくさん慰めて、たくさんたくさん璃心も心の中で泣いてきたのだろう。
2年間付き合ってきたが、まだ璃心の心の奥に踏み込めていない自分が悔しかった。璃心の笑顔の奥にはたくさんの我慢や苦痛や辛さがあったんだと今更ながらに実感してしまった。
そんなたくさんの感情が入り混じった複雑な表情でふたりを眺めていたら木嶋がこちらを見た。
「えっと、大輝くんでしたよね。戸叶さんを落ち着かせている間、梨心さんの様子を見ていてもいいですよ。こちらで話を通しておきますので」
『え、あ、はい。ありがとうございます』
今この場では自分ができることはないと思った大輝は言われるがままにエレベーターで梨心の病室へと向かった。
日中とは違って誰もいない廊下には静けさが広がっていて少し不気味ささえ感じた。
その気持ちを振り払うように梨心の病室へと早足で向かった。
ノックもせずに扉を開くと中には梨心とは違う人物が居た。
「おや、君は…」
『え、あ…すいません。えっと…璃心…いや戸叶さんの母がまた不安定になってしまって…その…』
思わぬ先客にパニックになってうまく言葉が出てこない。
話を通すと言っていてもまだこの先生には話が通っていないはずだ。不審者だと思われたらどうしようと慌てふためく大輝を先生はははっと小さく笑った。
付けていた聴診器を首へと下げて白衣を正した。
「大体わかったよ。確か璃心さんとお見舞いに来ていたよね、改めて医師の世良です」
『原田大輝です』
「大輝くんか。梨心さんは少しずつ傷は塞がっているよ。足もこのままなら骨も戻るだろうし、奇跡的に神経も筋肉も致命的な損傷は無かったからリハビリをすれば歩けるようになるはず。頭部も治ってきてはいるけど目を覚ましてちゃんと検査をしないとまだ安心はできないかな…」
『あ、本当ですか』
梨心を見つめながら大体の説明をしてくれた先生に大輝も梨心の元へ歩み寄った。
以前と変わらずガーゼだらけの顔と身体だが、少しずつそれも小さくなっていき、身体も包帯が取れていた。
ガララ、と病室の扉が開いた。目を向けると看護師がバインダーを持って入ってきた。
大輝に気付くと不思議そうにしていたが小さく会釈をして梨心の経過観察をバインダーに挟んだ紙に記入しているようだった。
先生はその様子を見て看護師にひとつふたつ何かを頼んで大輝に挨拶をして出ていった。
看護師もそれに続いて記入し終わったようで出ていった。
ぽつんと病室に取り残された大輝は梨心の隣に座って変わらず管に繋がれた腕を見てその先の手に触れてみた。
いつもは布団が被されていて見えなかった手だが、今日は布団の上に乗せられていた。
『お前のせいで…お前のお母さんがまた病んじゃったぞ……』
ぽつりと呟いて自分の手よりも小さいその手をぎゅっと握ってみた。
璃心よりもなんとなく柔らかい気がする。
そんなことを考えながら梨心を見つめてみる。
長く反ったまつげ、日本人にしては少し高い鼻。今見える部分だけでもだいぶ恵まれた容姿をしているなって思う。璃心に似ているところはあまり気に食わない。
ガーゼの貼っていない部分の頬に触れてみる。
ふにふにと柔らかい。
『璃心に似すぎなんだよ腹立つな…』
返事の返ってこない悪態をつく。
するとぴくりとまぶたが動いた気がした。
それと同時に大輝の握っていた手がぴくりと動いた。
驚いて立ち上がる。
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