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君の名前をもう一度。






『……っ』



過去を振り返りながらふと、現実に戻ってきた。
時間にしてはそんなに経っていないと思うが、ささっと髪と身体を洗ってお風呂から出た。
用意していたパジャマを着て髪をガシガシと拭いた。
早足に自室へ戻ると机に置いていた携帯を手に取り少し悩みながらも電話帳から電話をかけた。
プルルルル…と数回呼び出し音が鳴る。忙しいのだろうか、と電話を切ろうと耳から離したときに呼び出し音が止んだ。
通話時間が表示されたことに慌てて耳へ携帯を当てる。



「もしもし?どうしたの璃心さん」


『お、お疲れ様です部長、数日間急に休んでしまって申し訳ありません』


「いや、身内の方に何かあったならしょうがないわ、その後どう?」


『はい……まだ意識は戻らないんですが容態は安定してます。なので母親に付き添いを頼んで明日にでも出勤をしたいのですが…』


「璃心さんは大丈夫なの?お母様って…」


『はい…。でも病院の方も母の状態を知っているのでリハビリも兼ねて様子を見たいとのことです』


「そう…でも時間が時間だし、明日は急すぎるわ。明後日にしてちょうだい。今の仕事内容の説明も明日また電話で知らせるわ」


『ありがとうございます』



その後体調など心配されながらも電話を切り、部屋から出るとリビングへ向かった。
真っ暗なリビングから隣の和室の光が漏れている。
母がまだ起きているのは珍しい、それか電気の消し忘れだろうか、とふすまをゆっくりと開く。
開けた先に見えた光景は意外なものだった。



「あら…璃心どうしたの?」


『え?ぁあ、特に何もないけど…』



母が縫い物をしていた。璃心と梨心が幼い頃から身の回りのものは母が縫ってくれたものが多く、ぬいぐるみや巾着、学校で使う雑巾やハンカチ、手提げかばんなどの縫い物、刺繍を手作りしてくれていた。
だがあの日、父が亡くなってからそれを一切しなくなり、学校で必要な場合は璃心が不慣れながらに学校で学んだことを活かしてなんとかしていた。
そんな母が目の前でまた縫い物を始めているのだ。
璃心からはこれを精神的に良いことだと捉えるのか過去から抜け出せていない悪いことなのか判断が難しかった。そんな中璃心はこれからもっと母に精神的にショックを与えかねない話をするつもりだ。



『お母さん、あのね』


「璃心…梨心になにかあったの?」


『…えっ?』


璃心が勇気をだして口を開くが、母からの言葉に驚きで身体が震える。
縫い物から一切目をそらさない母は針を刺しては引っ張り、針を刺しては引っ張りを繰り返している。その冷静さに不気味ささえ感じてしまう。
璃心は襖から母の前に座って母を見た。
ハンカチに刺繍をしているであろう母が璃心が座ったことを確認してか、縫い物を机の上においてメガネを外した。
心の準備が動揺で乱された璃心は沈黙のまま言葉を出せずにいる。



「私のためでしょう?隠そうとしていたのは」


『お母さん…』


「大丈夫よ、少しは前を向けているわ」



メガネを外した母はハンカチでレンズを吹き上げてからケースへと直した。
淡々と話す母にやはり戸惑いが隠せないままだったが、意を決してありのままに話始めた。
怖くて手が震える。その震えが全身に伝わる。歯がガチガチとなるのが分かる。



『梨心がね、友達の家に行く途中に、事故に巻き込まれて……。頭と足の損傷が激しくて…意識がまだ戻ってないの…………』


ぽつり、ぽつりとゆっくり言葉を繋ぐ。
話しながら梨心の姿を思い出すと、また胸が締め付けられた。母の姿は見れなかった。また暴れだしたり梨心の姿を探して家を飛び出すかもしれない。
覚悟はあった、心の準備も乱されたけど話しながら落ち着かせた。
家族を支えるのが璃心の役割だったから。
何を伝えたら母に安心感を与えられるだろう。何を言ったら母が悲しまないだろう。何がこの空気を変えてしまうのだろう。



「………」



『梨心のことは…大輝くんが見てくれることになったの…。私は仕事しなくちゃいけないし…でも私も仕事が終わったら必ず梨心のお見舞いしにいくし、毎日梨心の様子を伝えるね』


無言の母。
璃心はうつむかせていた顔をバッと顔を上げてひきつった笑顔で母に訴えかけるように話した。必死さが顔ににじみ出ているようだ。
大丈夫だと自分に言い聞かせて、言葉を紡ぐ。
頭の中で、病室にいた梨心がゆっくり目を開いて微笑む姿を思い浮かべながら。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。



『大丈夫だよ』


「璃心…」


『………ん?』


「今まで苦労かけたね。もうそんな自分を追い込まないでくれ、と私が言えた立場じゃないけど、自分が大丈夫じゃないときにそんな顔して大丈夫だなんて言わなくていいのよ」


『…お母さん…』


「私が母親として初めて璃心を育てることになったのだけどね、あなたは本当に手のかからない子で、私よりもずっとずっとしっかりしてて…」


『………』



「それなのに…私は夫が亡くなったことがほんとに辛くて…こんなにも早い別れが来るなんて思わなかったの…」



話しながら母の瞳からポロポロと涙がこぼれた。
今までとは違う泣き方に、目を奪われていた。



「璃心…。今まで辛かったと思う。大変だったと思う。私が璃心に背負わせたものは大きかったよね…そのせいで自分を追い込むことが普通になってしまったのかしら…でもそれは間違っているの…」


『お母さんのためでもあったから…私は全然大丈夫たよ…』


「ごめんね…母親らしい母親になれなくて…」


『私にとってお母さんはお母さんだけだもの』



璃心は母の隣に寄り添って母をやさしく抱きしめた。
その日、母はそれ以上話さなかった。
父のこと、梨心のこと、璃心のこと、自分のこと、母は過去を乗り越えられたのだろうか。現実を受け止めて、それを受け入れられたのだろうか。
疑問や不安はある。でも、母は変わった。なんとなく父がなくなる前の明るい母のような面影が垣間見えていた。
少しだけ、璃心の背負っていた重荷がなくなった気がする。もうこの重荷はここに置いてしまおう。





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