現在の連載では主人公同士が関わることはありませんが、今後関わりが出てくるため、各々の主人公で名前変換ができるようにしてあります。
示された道を歩めぬ私
名前変換
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晩酌をしていた。
そうでもしないと、やっていられなかった。
エリスは帰ってこない。
咲とも距離を置くことにしたのだから、そろそろ帰ってきてくれてもいいのに、と思う。
物語は全く進まない。
物語の中だけは、彼女に会える場所だったのに。
エリスにも会えないうえ、生意気な咲は、僕を避けるようになった。
だからこっちも避けてやった。
いらだちは募るばかりだ。
辛そうな彼女が僕の視界から隠れる度、胸がむかつく。
(あんな小娘など。)
空になったグラスにワインを注いだ。
「Halten Sie zu Hause.Ellis.
(帰っておいで。エリス。)」
グラスの中のワインを見つめる。
そこに何かが映った気がして、慌てて振り返った。
しかしそこには誰もいない。
いるはずがない。
しかし、僕にはわかるのだ。
「Ellis!!」
彼女は帰ってきた。
ようやく。
「Ich wartete.
(待っていたよ。)」
彼女の姿が目に浮かぶ。
物語の構成も、じきに固まってくるだろう。
僕は書きかけの原稿を片手に目を閉じる。
さぁ、あの後エリスは・・・
ー貴方は分かっているはず。ー
エリスは勝手に話しだした。
ー心に開いた、穴を。ー
(そんなものは)
ーあるわ。
馬鹿にしないで。ー
エリスはさみしげに微笑んだ。
ーあの子は、もうこの家にいないのよ。ー
ガタン
僕は勢いよく立ちあがった。
ワイングラスが絨毯に落ちて、赤い染みが広がった。
それがひどく、嫌な予感に思えて。
慌てて部屋を出る。
「フミさん。」
食器を片付けていた彼女に声をかけた。
「いかがなさいましたか?」
「咲を見なかったかい?」
「咲さんですか?
お部屋では・・・?」
「確認してもらえないだろうか。」
「承知いたしました。」
フミさんについて階段を上がる。
「咲さん、いらっしゃいますか?」
部屋をノックしても返事が聞こえない。
「もうお休みかしら・・・?」
「待ってくれ。」
急いでスペアキーを取りに走り、フミさんに渡す。
彼女も何か感じたのだろう。
がちゃりとドアを開けると、開いた窓から風が吹きこんでいた。
ベッドももぬけの殻だ。
「咲さんっ!?」
フミさんと窓に駆け寄ると、ロープが垂れている。
どこで手に入れたのだろうか。
ああ見えて小賢しい。
「鴎外様、これを!」
フミさんがベッドのサイドテーブルから封筒を取り上げた。
それを受け取り読む僕は、どんなにひどい顔をしていただろう。
そこには何枚にもわたって、彼女が言っていた春草の病気に関する手記が残っていた。
思い出せる分を書き起こしたのだろう。
それと、短すぎる感謝と謝罪。
ーどれほどの言葉を連ねても、伝えきれないでしょう。
ありがとうございました。
それから、申し訳ございませんでした。
お世話になったにも関わらず、このような不躾な別れ方をどうぞお許しください。
さようなら。ー
「どうしたんですか?」
部屋にひょっこり春草が顔をだした。
「咲がいなくなった。」
「・・・え?」
ぼんやりと突っ立つ僕達二人の間で、フミさんがパチンと手を叩いた。
「探しましょう!」
彼女の目は、怒りに燃えていた。
「探すんですよ!
違いますか?」
僕と春草は戸惑いながらも一つうなずいて、部屋から走り出た。
「おかえりなさいませ、鴎外様。」
フミさんが静かに迎えてくれる。
「咲さんは先ほどお帰りになりました。
足をひどく捻っていらして、お部屋で冷やされているうちにお休みになったようです。」
「春草は?」
「咲さんのお部屋で看病してくださっています。」
「そうか。」
仲違いしていた二人は、いつの間にか戻ったらしい。
(いいじゃないか、それで。)
溜息が洩れた。
いいはずなのに、胸は苦しくなるばかりだった。
「・・・それは・・・」
僕の手にある本に、フミさんは目を見開く。
「・・・そうだ、国民之友だよ。」
彼女に買い与えた本。
大切に大切に何度も読んでいたことが分かる。
しかも開き癖のついたページは、僕の作品のページだった。
そしてこれは、彼女が僕たちのもとから去っても、ただひとつ持っていたもの。
彼女は僕たちのことを嫌いになったりはしていない。
ただ、逃げ出したのだ。
僕たちがあまりに冷たいから。
この本を買い与えたとき、彼女が実に嬉しそうに笑って、胸に抱えたのを思い出した。
自分が作品を書いてよかったと実感したのは、あれが初めてかもしれない。
償いのために小説を書いている僕にとって、彼女の姿は正に驚くべきもの。
それだけでこの本がぬくもりを持っているように感じた。
心に空いた穴は