現在の連載では主人公同士が関わることはありませんが、今後関わりが出てくるため、各々の主人公で名前変換ができるようにしてあります。
示された道を歩めぬ私
名前変換
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「咲さん、こちらのお着物などいかがでしょうか?」
フミさんが箪笥からあれやこれやと着物を出してくれる。
どれも古典柄が美しく、物の分からぬ私にも質の良い物だということは分かる。
というのも、これは朝食の片付けを手伝い終わったところで、森さんが私の背中に声をかけた事から始まった。
「咲、そんな背広を四六時中着ていては肩が凝るし傷んでしまうだろう。
好きに着物は使っていいから、フミさんに手伝ってもらって着替えなさい。」
話を詳しく聞けば、当時のスーツはどうやら晴れ着らしい。
私が着ているものはウォッシャブルで強い素材かつストレッチも効くタイプなので着心地もいいのだが、説明するのも骨なので、
(現代では男の戦闘服なんだけどなぁ。)
なんて思いながらも、こうしてフミさんに着物を選んでもらう。
「あら、これなどいかがでしょう?」
フミさんの手にあるのは、若草色の着物。
彼女の笑顔に、私はその着物に決めた。
成人式なんかでも来たことはあるだろう着ものだが、着方はさっぱり分からず、またもやフミさんのお世話になる。
なんとか着つけてもらって、私が下に降りて行くと、のんびりと茶を飲んでいた森さんが嬉しそうな笑顔を見せた。
「ほう、なかなか似合うではないか。
今日はちょうど非番なのだ。
町を案内しよう。」
そんな森さんの誘いに、俥に乗った私。
現代では見ることのない店、人の姿、そして町の風景に身の不遇など忘れてしまう。
昼には見るからに高級な牛鍋という料理をごちそうすると言われ、必死に断ったが彼の巧みな話術に乗せられてしまった。
彼との時間は楽しくないと言えば嘘になる。
心配りに長け、たしなみ深い彼のエスコートは素晴らしい。
だが、どこの馬の骨とも分からぬ記憶喪失の怪しい娘に対する対応としてはあまりに素晴らしすぎて、やはり疑問が浮かびあがってくる。
森さんはどうしてここまで親切なのか。
なにか裏があるのではないか。
「かわいいお嬢さんに感謝してもらえるなんて、素敵なことではないか。」
彼はそう言って笑うから、返す言葉もない。
頭を巡らしても、私を騙したところで残念ながら何も出てこないという結論以外導き出すことはできない。
富と権力と名声の全てを手にいれた人にとっては、慈善事業の一環程度の事なのだろうかとまで思ってしまう。
帰り道、通りに面した大きな書店の前に、森さんは俥を止めた。
「自由に見ていなさい。」
彼はそういうと店の奥へと入っていった。
辺りを見回すと、おかれた本は新しいのにどれも古風で、現代では古本屋に面影が見える程度のものだ。
(・・・確か・・・)
辺りを物色し、手に取った一冊の本。
『国民之友』
坪内逍遥、山田美妙、二葉亭四迷、樋口一葉、幸田露伴などなど、有名人が多数作品を発表した月刊誌だったはずだ。
そして、この人、森鴎外も。
ぱらぱらとページをめくっていくと、心当たりのページを見つけ、私の手が止まる。
(これこれ、やっぱりこの森さんもこれを)
そこに掲載されていたのは1889年の夏期付録、森鷗外・落合直文・市村讚次郎・井上通泰・小金井喜美子共同による訳詩集『於母影』。
(これこれ!
実際に販売されている本で読めるなんて・・・!!!)
すっかりテンションが上がって文字を追いかける。
現代では読んだことはあったが、こうして実物の国民之友を手にとって読むのは殊更感慨深い。
ここに何故いるのかも誰と来たのかもすっかり忘れて読み耽ってしまった。
「お前、どうしてこれを・・・。」
背後からかけられた声に驚いて振り返る。
そこには目を見開いた森さん。
彼の問いかけに私自身も答えを持たず、愕然とする。
(・・・本当に、どうして知っているの?)
家も家族も自分の過去も忘れた自分が、なぜ彼の作品を覚えているのか。
「何か、思い出したのかい?」
森さんは何故か眉を潜めてに声をかけた。
まるで、困ったとでも言いたげな様子だ。
「い、いえ、すみません。
私もどうしてこの本を手に取ったのか、分からなくて。」
森さんは国民之友を私の手から取ると、しげしげとそれを眺め、それからにこりと笑った。
潜めた眉のことなど、忘れさせるかのように。
そして店の奥へと持っていき、帰ってきたときには買ってくれていた。
「あの、」
「お前の記憶に何かつながるのかもしれない。
それに僕の作品が載っているんだ、悪いことはなかろう。」
にこりと貼り付けられた笑顔が気にならないわけではない。
それでも、渡された紙袋を私はしっかり抱える。
(嬉しい。)
そう思った自分に、私はきっと彼の作品が大好きなのだろうと思う。
帰り際、森さんは何を思い立ったのか、薬局で足を止め、小さな皿に乗った何かを運んできてくれた。
「・・・アイス?」
「あいすくりんを知っているのか?」
森さんは驚いた顔をした。
それもそうだろう。
現代ではありふれたアイスクリームも、冷凍出来るだけの技術がなければ保つことはできない。
この電気が頼りない時代に冷蔵庫があったのか、私には分からないが、なかなかお目にかかれるものではなかろう。
薬局の前におかれたベンチに腰掛け、私はあいすくりんを突く。
現代の味とは違うものの、どこか懐かしい。
「私、本が好きだったのかもしれないなぁと思って。」
ぽつりとつぶやく。
「今日もありがとうございます。
おいしいものをごちそうになって、いろんな場所に連れて行っていただいて、本まで買っていただいて。
本当に森さんって、親切な方ですね。」
含みを持たせてそう言ってみるが、森さんはなにも答えず、ただ嬉しそうに笑った。
とろけそうな笑顔で