現在の連載では主人公同士が関わることはありませんが、今後関わりが出てくるため、各々の主人公で名前変換ができるようにしてあります。
示された道を歩めぬ私
名前変換
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いくの?
そんな声が聞こえてそうな顔をして、黒猫が私を見上げた。
その艶やかな毛並みを優しくなでる。
「・・・今までありがとう。」
机の上に一通の置手紙。
中身は、感謝と謝罪。
世話になりっぱなしで、何もできなかった。
これ以上いればいるだけ、迷惑になるだろうから。
こっそりと窓から忍び出る。
どうしても手放す決心がつかなかった国民之友だけもらっていく。
着物が洗えなかったのは申し訳ないが、一応綺麗に畳んで置いてきた。
故に今はスーツ姿だ。
振り仰ぐと、森さんの部屋も菱田さんの部屋も、灯りがついていた。
二人とも、作品づくりに忙しいのだろう。
ふっと隣に気配を感じて、視線をそちらに向け、目を見開いた。
美しい人が、そこにいた。
金髪の髪が夜風に揺れ、月光を反射する。
蒼い瞳がいっぱいに涙をためて、寂しげに森さんの部屋の窓を見つめている。
白いワンピースが、闇に妖しく、儚く舞う。
ー聲を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。
被りし巾を洩れたる髮の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。
・・・・
この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目まみの、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。ー
「・・・エリス!」
思わず名前を呼んでしまい、口に手を当てる。
彼女が追いかけきた、という例の事件はもうとうに終わっていたものだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
そうなると私がここにいるのは非常にまずい。
どうしようと考えているうちに、彼女はさみしそうに振り返った。
その儚い美しさに、思わず目を見張った。
ー彼は涙ぐみて身をふるはせたり。
その見上げたる目には、人に否とはいはせぬ媚態あり。
この目の働きは知りてするにや、又自らは知らぬにや。ー
彼女は、正に森さんが記した通りの乙女だった。
彼女をこれほどまでに的確に文章に起こすなんて、それほどまでに森さんは彼女を愛していたのだろう。
彼女を超える女性はいないだろうし、彼女以上に彼に愛されるべき人もきっといないと思ってしまう。
じっと見つめてくるエリス。
何も言わないのも不躾だろうとは思うが、名前を呼んでしまっただけに、言葉に迷う。
「あの、こんばんは・・・。」
恐る恐る小声で挨拶をし、それからあっと思いだして少し考えてから、もう一度口を開いた。
「guten Abend.
(こんばんは)」
ドイツ語ならば分かるらしい彼女は、淡く微笑んだ。
「guten Abend.
(こんばんは)」
愛らしい声だ。
泣いていたせいで上ずったその覚束ない声は、女の私でも助けたくなる愛おしさを持つ。
「Warum sind Sie hier?
(なぜここにいるのですか?)」
思いきって尋ねてみた。
必要とあらば案内だってするつもりだ。
どこの馬の骨とも分からない私をかくまって美人コンテストに出すというなら、エリスを出せばいい。
それだけの話だ。
私なんて、いらない。
そもそもいらないのだ。
彼女さえいれば。
ところが返された言葉に私はしばらくフリーズすることになる。
「Es kam Fluchten aus seiner Geschichte.
(彼の物語から抜け出てきたのです。)」
言っている意味がよくわからない。
ふと、森さんが言っていた話を思い出した
ー僕のような素晴らしい作家になると、作品の中の登場人物が化けの神となって抜け出してしまうのだ。
困ったものだよ。
イメージの中で彼女だけがぽっかりと空いている。ー
(あれは、スランプの言い訳じゃ、ない・・・?
そんな馬鹿な。)
彼はあのとき、こう続けた。
こちらまで胸が痛むような表情をして。
ーどうせなら、僕の前に姿を見せてくれればいいのに。ー
あれが嘘だとは思えない。
いずれにせよ、森さんのために私が今言えることは一つだ。
「Mori wartet auf die Dame.
(森さんは貴女を待っています。)」
彼女はゆるゆると首を振った。
「Er wartet auf jemand anderen.
(彼は違う人を待っています。)」
私はその答えに目を見開いた。
「Auf keinen Fall.Keine einzige Dame zu ihm.
(そんなはずはありません。彼には貴女しかいない。)」
エリスはなぜか、ひどく哀しそうに微笑む。
頬にころころと雫が転がった。
なんて美しいんだろう。
森さんだけではない。
何度舞姫を読んで、エリスのような美しさに憧れた人も多いはず。
何度この目で見てみたいと思ったことか。
でも、今はただ彼女の前にいるのがひどく辛くて、頭を下げた。
「Bitte gehen Sie zuruck. Danke.
(戻ってください。お願いします。)」
そして、振り返ることなく、森邸を後にした。
胸が締め付けられるように苦しい。
でもそんな私よりもずっとずっとエリスと森さんの方が辛い。
私の思いは一方通行だけど、二人は愛し合っていたのに引き裂かれてしまったのだから。
裏切られて発狂してしまうエリスと、ずっと愛しながら罪を背負い続ける森さん。
(私なんかのほうが、ずっとずっと・・・。)
貴方の悲しみに触れられない