現在の連載では主人公同士が関わることはありませんが、今後関わりが出てくるため、各々の主人公で名前変換ができるようにしてあります。
示された道を歩めぬ私
名前変換
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「・・・分かった。
君の勘を信じよう。」
森さんは私の説明を聞くと、ただ一言そう言った。
焦るのは私だ。
「待ってください。
私は日常的な様子と、先日の触診の結果でしか判断していません。
もっときちんとした検査を受ける必要がある。」
大きな手が、私の両肩に乗った。
「僕は少し見当違いをしていたようだ。
・・・お前は看護婦じゃない。
医者だ。
間違いない。」
煉瓦色の瞳から目をそらしたいのに、そらすことは許されない。
真剣な瞳はきっと、あの人のこともこうして見つめて、そしてきっと愛を囁いた。
(エリス・・・。)
そうしてわき上がった小さな嫉妬によって、ようやく目をそらす。
なんて惨めなんだろう。
なのに大きな手が私の顎をとって、顔を無理に向かい合わせる。
目が緩く細められる。
きれいな人だと思う。
そして、ひどく残酷な人だと。
彼はエリスを思い続けながら、私が傍にいることを許す。
突き放してくれればいいものを。
「なぜ断言できるんです?
貴方に私の過去が分かるはず、ない。」
私の突き放したような声が、部屋に響いた。
森さんは少しためらった後、静かに目を閉じ、そして私の肩から手を離す。
名残惜しいと思ってはならないのに、いつまでも感じていたかったと思ってしまう。
「すまない。忘れてくれ。
話を戻そう。
Dialysisに関する研究の方だが、ドイツの知り合いに連絡してみることにしよう。」
ふわりと臙脂色の髪を揺らして、私に背中が向けられた。
ただそれだけなのに、距離が開いてしまったように感じる。
(先に距離を開けたのは、私なのに。)
「・・・お願いします。」
深く頭を下げる。
それがまた、私たちに距離を作った。
「悪いが僕はこの後ここで仕事があるのだ。
一人で帰れるね?」
突き放す背中に、私は肯定を返す。
「お忙しいところすみませんでした。
失礼します。」
私は森さんのわきをすり抜けて、部屋から出た。
振り返ることなくドアを閉める。
広い廊下に響くパタンという音が、心に重くのしかかる気がした。
結婚のことなど考えたくはなかった。
だから、迷子の娘を見つけた時は好都合だと思ったのだ。
自分はフィアンセとしてかくまうことで、由梨絵おばさまからのしつこい見合いの誘いを断ることができる。
仕事にも専念できる。
彼女にとっても悪い話ではない。
むしろなんたる幸運、といったところだ。
記憶喪失でそのまま放置されれば死んでしまうか、はたまた人攫いに遭って売り飛ばされていただろう。
それが私によって衣食住を与えられ、何不自由ない生活ができているのだから。
自分の容姿も、才能も、僕は十分に知っていた。
だからこそ、こうして娘をだますことも容易く、希望を叶えている。
それなのに。
(僕は何をしようとしていた・・・?)
彼女が触れていた書類に無意識に触れている自分に腹が立つ。
彼女の頤の感触を思い出す指先に腹が立つ。
細い肩を、揺れる瞳を、紅い唇を。
「彼女はエリスではないっ!」
百も承知だ。
同じはずがない。
エリスの肌は白く、やわらかなブロンズの長い髪に青い目をしていて、まるで人形のようだった。
笑えば鈴のようで、歌えば鳥のようだった。
・・・そう言葉では表現できるのに、彼女自身のイメージはやはりぽっかりと抜け落ちていて、思い出すことはできない。
化けの神になった彼女は、いつまでたっても戻ってきてはくれないのだ。
その心に空いた穴を、あの娘はちっとも埋めてくれやしない。
(同じ女の端くれであるくせに。
エリスの代わりになど、到底なれるはずがない。)
確かにあの娘は面白い。
飽きることはないが、
彼女は由梨絵おばさまが飽きるまでの、フィアンセの代役でしかない。
そうだ、僕はまだ、エリスを愛しているはずなのだ。
もう誰のことも愛さないと誓った。
追いかけてきた彼女のことも、そうして説得したはずなのに。
(なのに、僕はこの密室で何をしようとしていた・・・?)
一人取り残された部屋は、嫌に広く感じた。
いつも狭くてたまらないと思っていたはずなのに。
エリスが化けの神となってから、一度だけ彼女の夢を見た。
自室で、彼女は寝ている僕の枕元に立っていた。
ー貴方は今、彼女を見ているわ。ー
エリスは静かにそう言って、記憶喪失の娘のいる部屋の方を、やはり静かに見ていた。
ーそんなことはあるはずがないだろう。ー
鼻で笑ったのに、彼女は静かに首を振った。
僕がフェミニストなのはエリスも知っているはずなのだ。
ー焼いているのか?
僕の愛しい人、かわいい子だね。-
そう言って手を重ねても、彼女は悲し気に首を振るばかりだった。
そもそもあの娘はエリスを思い続けるための道具なのだ。
きちんと基礎教養を身につけさせたら、春草のフィアンセにしてやろうと思ってもいるくらいである。
自分の立場に縛られた僕は、思い通りの恋愛も結婚も許されない。
ならば、心だけはいつまでも愛おしいエリスにささげようと思っていた。
(そのはずだったのに・・・僕は・・・)
そらされた娘の目を、自分にどうしたら縫いとめられるかと思った。
無理に頤をつかんで、自分に向けさせるほど。
ー分かりません。ー
放たれた言葉は、僕を突き放しているように聞こえた。
距離をあけたいと求められているように感じた。
だから僕は距離をあけた。
普段ならば送っていくだろうはずが、仕事だなどと嘘をついて一人で帰らせた。
叩かれたから叩き返すような、そんな子供じみた対応だった。
彼女が来て2週間。
周囲からなかなか理解されない僕を、彼女はいともたやすく受け入れた。
不思議だったが、彼女の感覚もかなり現代を逸しているからかもしれないと思う。
自分で言うのもなんだが、僕は先進的な方だ。
だから馬が合うのかもしれない。
それを恋愛感情と取り違えるほど、もう若くはないはずなのだ。
(そうだ、これはそんな思いではない。)
僕が生涯ただ一人心を捧げるのは。
思わず祈るように手を組んだ。
エリス、君だけだ