現在の連載では主人公同士が関わることはありませんが、今後関わりが出てくるため、各々の主人公で名前変換ができるようにしてあります。
示された道を歩めぬ私
名前変換
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連れて行かれたのは予想を上回る大きな病院だった。
(このころからこんな病院があったのか。)
考えてみれば何度も他国相手に戦争を行うのだ。
ある程度施設が整っていなければ無理だろう。
「これは鴎外様。
ご無沙汰しております。」
白衣に身を包んだ男性が森さんを見つけて声をかけてきた。
恰幅の良い彼は、その服装からみてこの病院の医者の一人だろう。
「こんにちは、鈴木さん。
父は自室だろうか?」
さらりと森さんが尋ねると、彼は笑顔でうなずいた。
「お久しぶりですから、院長も喜ばれるでしょう。
おや、そちらの方は。」
鈴木と呼ばれた男性は不思議そうな顔でこっちを見ている。
ショートカットが珍しいのだろう。
「僕の助手でね。
ちょっと病院を見せて勉強にと思ったのだよ。」
「それはそれは。
ごゆっくりなさってください。」
明るい笑顔を浮かべる男性達に背を向けて、歩き出した森さんを追う。
いい職場だ、と思った。
あたりを見てみても、看護婦も病人も、病院であるにもかかわらず明るい。
建物の建て方も光を取り入れる設計になっているためだろうか。
あまり病院らしい印象を受けない。
階段を上がってすぐのところに、院長室の札があった。
森さんはここだよ、と笑いかけてからドアをノックした。
「どうぞ。」
室内からしゃがれた声が返ってきて、ドアを開ける。
「お前か。
珍しいこともあるものだな。
どうしたのだ?」
立ち上がった男性はすらりとしており、目元はひどく森さんに似ていると思った。
髪はすっかり白くなっており、もともと赤かったのかどうかは分からない。
「ご無沙汰しております、父上。
私の教え子が病院の見学をしたいと言うもので。」
「ほう。」
やや細めの、煉瓦色とでも言うのか、やわらかい赤味がかった茶色い瞳が咲を見据えた。
この先生になら、自分の生死をゆだねられると、そう思わせる瞳だ。
「初めまして、空太刀咲と申します。」
私は森さんにに教えられことに注意を払って礼をした。
背中を伸ばし、お辞儀は深めに、そしてゆっくりと。
伸び始めた短い髪が耳元でさらりと揺れた。
「おや、可愛らしいお嬢さんではないか。
西洋で看護婦でもしていたのだろうか?」
ショートカットからそこまですぐに考えついてしまうところは、さすが森さんのお父さんだと思う。
「日本でも看護婦の一層の活躍が必要なのだと思いまして。」
質問には明確には答えず、いつもの笑顔を見せた。
「そうか。
好きなだけ見ていくといい。」
「ありがとうございます。」
森さんのアイコンタクトに従って、部屋から出る。
そこで正面から美しい臙脂色の髪の女性が歩いてくるのが見えた。
濃紺に藤色の縞模様の着物も、若草色の帯も非常に似あっている。
どこか見覚えがある面影に、思わず見入っていると、相手もこちらの視線に気づいたようで、笑顔で会釈された。
慌てて私も会釈を返す。
年はちょうど先ほどの院長くらいだろうか。
落ち着いた品のある様子には憧れてしまう。
女性の視線が私の後ろへと移り、そして笑みが深まる。
「まぁ、林太郎。」
その言葉に、目の前の女性が誰に似ているのか、咲は思い出す。
(森さんにそっくり!!)
「母上。
ご無沙汰しております。」
予想以上に近くから聞こえた声に私は驚いて振り返る。
森さんはずいぶん女性らしいきれいな顔立ちをしていると思っていたが、お母さん似だったのかと納得する。
ただ、目の雰囲気は違う。
森さんのお母さんは切れ長で濃紺の瞳で、非常に知的な印象を与えられる。
(もちろん、森さんの瞳もとても知的だけれど。)
「あら、由梨絵が言っていたのは、もしかしてそちらのお嬢さんのことかしら。」
にこりと笑いかけられ、曖昧に微笑む。
「おばさん、もうしゃべったのか・・・。」
森さんが小さく呟いた。
どうやら由梨絵さんというのはこの前森さんの家に来たおばさんのことらしい。
「ええ、まぁそんなところです。」
森さんはたじろぐことなく、平然とそう答えた。
「話を合わすのが大変だったのよ。
貴方が婚約者だなんて言ったっていうんですもの。
私が知らないわけにはいかないでしょう?」
「申し訳ありません。」
森さんは苦笑を浮かべた。
「いいのよ、あの子もちょっと心配がすぎるわよねぇ。
私たち夫婦がいいって言ってるんですから、放っておいてくれてもかまわないのに。」
一歩近づいて、お母さんは森さんの目を窺うように見つめる。
「あなたが道理を弁えていないはずがないのにね。」
森さんは笑顔を張り付けた。
「おっしゃる通りです。」
流れるように口から出た言葉。
彼はきっと、エリスの件の時も同じように言ったのだろうと思った。
多くの肩書きをもつ彼は最先端を行きながらも、感情を押し殺し、物の道理を弁える。
多くの人に尊敬されながらも、ただ一つの愛さえ貫くことは許されない。
彼はそれを充分に分かっている。
分かっているからこそ、僅かに許された時間を自由に過ごすため、仮面婚約だなんていう馬鹿げたことをするのだ。
(天才は不幸だな。)
母と分かれ、すたすたと歩いていく背中は凛々しく、振り返ることはない。
「今は参謀本部内にあるが、校舎が完成すれば移転予定なのだ。」
森さんのお父さんの病院のあとに連れてこられたのは森さんが働く陸軍学校だった。
大変立派な建物で、思わず目を見開く。
大きな銅像、手入れの行き届いた庭、洋風なのにどこか和を思わせるこの時代独特の建物。
そこに平然と入っていける森さんはやはり、才能も肩書もすべてを持っているのだろう。
「こっちが私の部屋だ。
とりあえず入りたまえ。
研究資料をみるかい。」
一室に通される。
室内には所狭しと書類や本が置かれている。
「この中からお前が探すのも手間だ。
見たい系列の資料を言ってくれたまえ。」
私はしばらく考える。
言ってしまえば、森さんは菱田さんの病名を知るだろう。
だが、そんなことを言っていられる状況だろうか。
(彼は、この病気で死ぬのだ。)
だが、それが歴史であり、それが事実。
(なのに私が彼を生かすために尽力したら?)
私がいる時点で何かが変わっているかもしれない。
もし菱田さんが私の昨日の行動せいで絵を描く気力を無くしたら?
森さんの創作活動の時間を、こんな予定外の行動によって削ってしまったら?
数々の名作が生まれなくなってしまう。
「・・・咲?」
訝しげに森さんが私の名を呼ぶ。
それでも私の唇は震えながら言葉を紡いだ。
「Dialysis。
それか・・・Artificial Kidney。
あとはそうですね・・・」
でも、何があっても、もう見殺しにするなんてできるはずはなかった。
森さんは首をかしげる。
「他に何か情報はないかい?」
「海外の論文です。
たしか・・・ドイツ。」
始めて人工透析での生存者は1940年代だったはずだ。
実際に活用され始めたのは第二次世界大戦時。
透析自体の研究は1850年代からあったような気がする。
この前のフミさんとの会話で、今が1889年だということは分かったから。
(研究論文が少しくらい出てくれば・・・。)
「・・・お前はその単語をどこで知ったのだ?」
1枚の資料を手に、森さんは尋ねる。
「昔、どこかでです。
詳しいことは分かりません。」
目の前に広げられた紙は、学会か何かのプログラムだろう。
「私は去年までドイツに留学していたのだ。
その時に参加した学会のプログラムがこれだ。」
その中に確かにDialysis、つまり透析という言葉が見える。
「・・・私にもそろそろ教えてはくれないか。
春草の病気を。」
煉瓦色の瞳が、1メートルにも満たない距離でじっとわたしを見る。
真剣な眼差しに引き込まれそうになる。
彼は薄々感づいているかもしれない。
それでも私に言わせる。
確証を得るためでもあるだろう。
私の正体を知るきっかけをつかむためでもあるだろう。
だが、言ってしまえば何かが変わりかねない。
この天才の男が尽力すれば、もしかしたら、透析の歴史も変わるかもしれない。
(・・・それでも。)
唇が、震えた