現在の連載では主人公同士が関わることはありませんが、今後関わりが出てくるため、各々の主人公で名前変換ができるようにしてあります。
示された道を歩めぬ私
名前変換
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「童はみたり 野なかの薔薇
清らに咲ける その色愛でつ
飽かずながむ
紅におう 野なかの薔薇」
ドイツ語が本来なのだろうけれど、やはり聞いて育った日本語歌詞の方がしっくりくる気がしてしまうのは不思議だ。
森さんは無邪気に野の薔薇を愛で、手折る。
エリスのときがいい例だ。
彼女は今頃、ドイツでどうしているのだろう。
夜風が吹きこむ。
それと共に、微かな気配が入りこんできた。
「君か。」
黒猫だ。
餌付けをするまでもなく、居ついてくれるらしい。
フミさんがいい刺激を与えてくれるかも、と言っていた、画家を思うと、心は痛むけれど。
「おいでよ。」
そう言ってもふいっと顔をそむけて、黒猫は窓辺で静かに月を眺めている。
「いいなぁ、猫は。」
そう言えば猫はちらりとこちらを流し見た。
誰かに似ている、とぼんやり思う。
その、何か言いたげな視線とか。
「ご不満かい?
鰹節でも持ってこようか。」
そんなものはいらない、とでもいうかのように、猫はにゃーんと鳴いた。
窓辺によって、外を眺める。
菱田さんの部屋の前は明るくなっていて、やはり起きているのだと思う。
それはまた森さんの部屋の前も同じ。
「やっぱりミスった・・・よな。」
少し間をあけてから、猫は返事をするように鳴いた。
その間の開け方に、似ている誰かを思い出す。
「お前、似ているよ、あの部屋の人に。」
ちらりと視線を向けてそう言えば、猫はふいっと顔をそむける。
この世界にきて、訳の分からなかった自分を、拒まずに見守っていてくれた人達。
いつの間にか、その存在が欠けることなんて考えられなくなっていた。
小さな、平和な、日常が崩れるなんて。
「馬鹿だな。
こんなの、あの人たちにとって日常じゃないのに。」
自分はここに居るべきではないことは、充分分かっているはずだった。
なのに、居てもいいとはっきりと言うこともなく、ふわりと態度で示してくれるから。
「失いたくなくなってしまったんだ。」
手を握りしめる。
あれは医者がすることじゃない。
(でも、友達や家族なら、きっとするんだ。)
思いが、止められないから。
ずっとずっと一緒に居たいという思いが、先走ってしまうから。
そこで体が震える。
気づいてしまった。
気づいてしまったのだ。
(医者が、することじゃない・・・。)
震える唇で音を紡ぐ。
「・・・い、しゃ?」
目に映り込む星空がまばゆくて、めまいがする。
(そうだ、私は、言った。)
ーすみません、診察中ですので。
黙ってじっとしていてくださいね。ー
いつも通り、言ったのだ。
そう、“いつも通り”。
白い壁、
白い廊下、
白い天井・・・
カルテ、白衣、メス、そして赤い赤い・・・
「っ!!」
激しい頭痛に窓辺に倒れかかる。
(なんだ、これは。)
頭痛がひどかったのは一瞬で、徐々に波が引くように消えていく。
思いだしかけた何かも一緒に連れて。
「ねぅ」
足元で心配そうな声がした。
「大丈夫だよ・・・ありがとう。」
私の声は、かすれていた。
黒猫はすりすりと足に体をこすりつける。
くすぐったくて、温かい。
笑ってみせる。
無理にでも笑うと、心が明るくなるものだ。
そうだ、そう、習った。
心と体はひとつ。
心をだませ、と。
だが、そう言ったのは、誰だったろうか。
思い出そうとすればまた頭痛が来ると思うと怖くて、思い出せない。
ベットによろよろと歩み寄り、力なく腰を下ろす。
膝に肘をついて、手の上に頭を乗せると、猫が心配したように顔を覗き込む。
「ねう・・・」
それがなんだかおかしくて、金の瞳を見る。
「優しいな、お前は。」
小さな頭を撫でると、毛並みの良さが伝わってくる。
この猫を見たら、あの人も絵を描きたくなるんじゃないか、と思った。
この猫に触れたら、病気と闘って、もっと絵を描こうと思ってくれるのではないか、と。
そう思わせる美しさと、不思議な魅力。
(何と言えば良いだろう・・・。)
月明かりに怪しく光る、瞳。
(そうだ、妖しい美しさ。)
昔教科書で見た、彼の絵にピッタリな気がする。
「君にその気があるならでいいけど、ちょっと行って慰めてやって来てよ。」
声をかけると猫は窓辺に飛び乗って、私の顔と下階を見比べる。
話しが分かっているような素振りがおかしくて、思わず微笑んだ。
「頼んだよ。」
猫は小さくねう、と鳴いて、ふわりと窓辺から飛び降りた。
行き先は知らないが、菱田さんの部屋だったらいいな、と思う。
私はごろんとベットに倒れる。
「・・・頼んだよ。」
目の上に腕を乗せ、光を遮っても、まぶたの裏で星がちかちかと光り、めまいは止まることはなかった。
翌日、菱田さんは朝早く出かけて行ったそうだ。
彼はきっと寝ていない。
一晩中灯りがついていたのを知っているから。
朝食は森さんと私の2人で取る。
「・・・すみません。」
「どうして君が謝るのかな。」
森さんはいつもの笑顔を見せてくれる。
その気遣いが、心苦しい。
「・・・菱田さんを、追い詰めました。」
「君も同じように追い詰められたように見えるね。」
ふわりと長い指先が目の下に触れて、初めて彼が私の顔を見ていることに気づいた。
赤い髪が、ふわりと揺れる。
思慮深げな瞳が、ゆらりと心配そうに動く。
その動きは彼の指先の動きを追っているのだろう。
涙袋を優しく撫でた。
その指先の、温かいこと。
かかる吐息の、温かいこと。
それが彼が過去の偉人ではなく、今ここで呼吸をしている人だと伝えてくれる。
「君も、寝ていないのだろう。」
そう言う彼の眼の下にも、クマができている。
私は知っている。
彼もまた、寝ていないのだ。
気づけば森さんは食事に戻っていて、魚の身を綺麗にとって、口に運んでいた。
その平生さに、私は思わず言葉を吐き出す。
「・・・あんなことするべきじゃなかった。」
「うむ。
患者の意思を蔑ろにして診察を進めるのは褒められたことではない。
あくまで医者ならば、の話だが。」
その言葉になるべく動揺を見せないよう、私も魚を口に運ぶ。
森さんは味噌汁の入ったお椀を持ち、口をつけた。
「僕には分からないのだよ。
君が、一体春草の体の異変をどう診たのか。
あの診断で君が、何を知ったのか。
調べても分からなかった。」
言葉が喉につかえていて、無理にご飯で飲み込んだ。
森さんの結婚を邪魔して、菱田さんの病気を治したくて、私は何をしているんだろう。
私はこの歴史の中で、何をしようとしているんだろう。
未来から来た自分が思いのままに動くことで、未来がどう変わってしまうのかなんて考えても分からない。
ただ、自分がここにいる時点で、彼らの生活には何かしらの差異が生じてしまっていることは事実だろう。
細い指が、器用に動くのをぼんやりと眺める。
彼はきっとこの手で、患者を診るのだ。
「森さんって・・・お医者さんなんですよね。
病院で働いているんですか。」
「父は病院の院長なのだ。
昔は手伝っていた。
今は陸軍学校で医学を教えている。」
「病院にはどんな器具がありますか。」
ことりと、箸が置かれる音がした。
私は音につられて目を上げた。
そこには、真剣な表情の森さんがいた。
吸い込まれそうな思慮深い瞳に、私は縋りつく。
「・・・見に行くかい。」
小さな自覚