現在の連載では主人公同士が関わることはありませんが、今後関わりが出てくるため、各々の主人公で名前変換ができるようにしてあります。
示された道を歩めぬ私
名前変換
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「無理です、限界です、ダンスが選考に入っているなんて本当無理。」
森さんの手を引き剥がして、椅子に倒れこむ。
始めこそどきりとしたものの、ダンスの練習なんてするもんじゃない。
ヒールの足はもつれるし腰はいたいし、疲労困憊だ。
「何を言うんだい、子猫ちゃん。
君はこんなにも英語が堪能で、ドイツ語までできて、医療の知識もある。
これからの日本美人には欠かせない要素がたっぷり詰まっているではないか。
もう一息で優勝だ。
ひと休憩したらもう一度踊ろう。」
「他人と比べにくい外国語云々よりも明らかに劣っているダンスが問題でしょう。
でも元々運動神経が悪いんです、申し訳ないですが。
テーブルマナーも頭が痛い。
他人に見られながら食事だなんて、緊張しかありません。
そもそも感覚自体がずれている私ですから、無意識に失言する可能性が高くて恐ろしい。」
そう、彼の言うとおり、英語やドイツ語は不自由しない。
問題はダンスにテーブルマナーだ。
どちらも明らかに素人感丸出しである。
ダンスに至っては森さんだって、さんざん足を踏まれて痛いはずだ。
隣に座る森さんをちらりと見る。
優しい笑顔は、どこか陰りが見える。
気のせいだろうか。
「やるからには徹底的に、優勝する気でやらねばならないよ。
それに感覚はずれているというよりも先進的というべきだ。」
先見の明があると言うのか、彼はやはり天才だ。
天才すぎる。
「森さんの感覚も先進的すぎて私には理解できません。」
「ではお互いさまでちょうど良いではないか。」
「なにがですか?」
彼は私の問いかけに答えず立ちあがり、書棚から一冊の本を取り出した。
「では気分転換に、1編読み聞かせてくれないか。」
「・・・ゲーテですね。」
あまり外国の文学は得意ではなかった気がする。
どちらかというと日本の近代文学の方が好きだった。
ゲーテは森鴎外が訳したものくらいしか知らない。
咲は一つため息をつくと詩集を開く。
(あ、そういえばこれ・・・)
目次を眺めて、有名な詩のページ開いた。
そして、小さくうたう。
「Sah ein Knab' ein Roslein stehn,
Roslein auf der Heiden,」
森さんはそっと目を閉じたようだ。
私はそのまま小声で歌う。
懐かしいこれは、昔よくクリスマスに歌った。
何かを思い出すわけではないけれど、ここにはない、イルミネーションが光り、軽快な音楽の流れるクリスマスが、懐かしい。
「Roslein, Roslein, Roslein rot,
Roslein auf der Heiden.」
歌い終わった部屋は静まりかえった。
森さんが天井を見上げた。
「うむ。
完璧だ。」
寂しげな顔の、喰えない男。
「のばら」と呼ばれ、親しまれるこの曲は、ゲーテが若い頃に恋した少女とのことを描いているらしい。
ゲーテは無情にも、ゲーテとの結婚を望む彼女との恋愛を断ち切ってしまった。
理由は勉学に励むためでもあり、また結婚による束縛を嫌ったためでもあると言われている。
彼がそのことを知っているかは分からないが、この詩をあえて選んだ理由はそこだ。
純情な乙女を発狂させたと彼に描かせたその恋は、この曲とどこか重なる。
だが、だからこそこれを読むかは、迷った。
迷った挙句選んでしまったのは、私がこの世界の彼を知りたいと思ってしまったから。
それは純粋な興味だった。
「ロミオとジュリエットの朗読、くらいがいいだろうか。
比較的知られている。
ドイツ語を披露したいところだが、あまり知られていないから逆効果になりかねない。」
少しの沈黙の後、「のばら」はなかったかのように彼は口を開く。
でも、私は後戻りする気はなかった。
「・・・こんなことに時間を遣っていては本末転倒ではありませんか。」
森さんは不思議そうに私を見た。
「貴方は自由な時間がほしくて結婚を先延ばしにしようと、叔母さんをだましている。」
「だましているだなんて、人聞きの悪いことを言うものではないよ。」
そう言いながらぎしり、と音を立てて椅子から立ち上がり、ふらりと窓から外を見る。
すらりとした背中が、どこか寂しげに見えた。
まるで誰かを探しているかのような、そんな背中。
(・・・エリス・・・。)
思い当たる名前は口には出さない。
「口に出すか出さないかの違いで、やっていることに変わりはありませんから。
とにかく、この特訓につかう時間を、貴方の仕事や大切な文芸活動に当ててはいかがですか。」
それが今、森鴎外がすべきことだ。
名作舞姫を、世の中に送りだす、大きな仕事。
失ったものの代償のように。
他の人を想えぬ時を、埋めるように。
彼は立ち止まってはならないのだ。
それが天才の定め。
しかし、予想外の答えが返ってきた。
「それが、残念ながら、今は執筆ができないのだよ。」
ほう、とため息が聞こえる。
この人でもそんな思いため息をつくことがあるのか、と少しだけ驚く。
「・・・スランプですか?」
「少し違うかな。
大切な登場人物が物語から姿を消してしまってね。」
一体なんのことやら、首をかしげると、彼は少し笑顔を見せた。
「そうか、お前は忘れてしまっているんだったね。
僕のような素晴らしい作家になると、作品の中の登場人物が化けの神となって抜け出してしまうのだ。
困ったものだよ。
イメージの中で彼女だけがぽっかりと空いている。」
そっと胸に手を当てる彼の瞳はひどく切ない。
「どうせなら、僕の前に姿を見せてくれればいいのに。」
ああ、こんな顔をして、彼は彼女を恋うているのかと思うと、私の胸まで軋むようだった。
きっと彼の心には、いつも「のばら」が流れている。
痛々しいまでに。
そんな私に気づいてか、彼ははっとして、取り繕うようにウインクなんてして見せる。
おどけたつもりなのだろう。
それにしても。
(そんなことがあるのだろうか。)
いわゆる妖怪になって抜け出してしまうなど。
いくら過去とはいえ、明治時代にそんなこと。
(スランプなのを隠したいだけ、かも。)
そして、一つ気になる、言葉。
「彼女ということは・・・女性なんですか?」
知っているけれど、わざと尋ねてみる。
自分でも不思議だった。
彼がエリスを描くことは、これまでで充分分かっていたのに、何を知りたくてこんなことを聞いたのかと。
「そうだよ。」
彼はまた、私に背中を向けた。
まるでさっき見られてしまったようなあの顔を、見られたくないとでも言うように。
「ひどく美しい人なのだ。」
でもそれはその声にも表れている。
隠しきれない、恋慕、が。
「その女性に、恋をされているんですね。」
私が言うと、背中は小さく笑った。
「そうみえるかい。」
あまりに寂しげなその姿に、私は目を閉じた。
「お前はあの曲を知っているのだね。」
「・・・はい。」
「僕も一度、聞いたことがある。
ドイツに留学していた時だった。
ひどく美しい調べだったから、今でもよく覚えているよ。」
もしかしたら、彼女と聞いたのかもしれない。
彼女が歌ったのかもしれない。
そう思うと、自分がずいぶんとひどいことをしたような気がしてしまう。
彼は忘れられないのだ。
自分の罪を。
そして、エリスを。
(だからきっと、都合よく拾った私に・・・。)
「お約束はできませんが、コンテスト、尽力いたします。」
「うむ。
期待しているよ。」
ふわりと風が吹き込んで、目を開ければ、森さんが窓辺でこちらを振り返るところだった。
赤い髪を、春風が優しくなぞる。
長い睫毛が、月光に影を作る。
美しい、と思った。
自分を見てはいない彼が、ひどく、ひどく、美しいと思い、気づいてしまったこの思いを今止めなければ苦しむだろうと、そう思った。
賢くあれ