現在の連載では主人公同士が関わることはありませんが、今後関わりが出てくるため、各々の主人公で名前変換ができるようにしてあります。
示された道を歩めぬ私
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
夜、窓辺で本を読む。
昔からそうしていた気がする。
こうして窓辺で本をあけて、美しい言葉と、美しい物語に思いを馳せていた。
開けた窓から心地よいよ風が私の短い髪を揺らす。
不意に目を向けると、窓の向こう側に黒い猫がいて、じっとこっちを見ていた。
(おや、お客さん。)
「ずいぶん美人さんだね。」
そう言えば、ねう、とないて部屋に入ってきてしまった。
「おや。」
そしてテーブルに飛び乗るとぐーんと伸びをしてまるくなった。
「ご自由にどうぞ。」
森さんが猫嫌いだとは思わないし、菱田さんもきっと嫌いではないだろう。
猫は尻尾をゆらゆらと振って、心地よさそうにしている。
今日の夜風は好きだ。
優しく温かいだけではなく、綺麗なお客さんも連れてきてくれた。
私は再び森さんが買ってくれた国民之友を開いた。
もう3度目になるけれど、なんだか嬉しくて、覚えるまで読んでしまう。
めづる人なき山里は
うばらからたち生ひあるゝ
籬のもとに捨てられて
雨にうつろひ風にちり
世をわびげなる梅の花
あひみるにこそ悲しけれ
これが海外の詩の訳だというのだから、驚いてしまう。
森さんは漢文だって書けてしまうのだ。
(今度教えてもらおうかな・・・って、忙しいか。)
遅くまで部屋に灯りがついている。
あれだけの肩書を持つのだ。
それだけ仕事も多いことだろう。
それなのに美人コンテストの練習をするなんてと思ってしまうが、忙しさゆえの現実逃避なのだろうか。
(そう言えば、この森さんも留学はされたのだろうか。)
森鴎外の有名な逸話の一つと言えば、やはり留学中の恋物語だろう。
後に舞姫という作品を残すことになる彼にとって、まさに運命的な出会いだったに違いない。
今手にしている「於母影」が掲載されている「国民之友」の出版年月日からも、今年は1889年ということで間違いはないだろう。
もし咲の知る森鴎外と同じ運命を辿っているのならば、すでに留学から帰ってきたということになる。
(今度フミさんに聞いてみようかな。)
細い月が窓から見えた。
そろそろ良い時間なのに、森さんも菱田さんもまだ寝ていないようだ。
(天才は大変だ。)
私はぐーんと伸びをすると、ベットに入る。
黒ネコもそれに気づいたのか、私の方をじっと見ている。
「君も、ほどほどで飼い主のところに帰りなよ。」
ねう、と鳴くと、黒ネコはまた丸くなった。
(気楽なものだ。
・・・それは私もか。)
猫を真似して布団の中でまるくなった。
翌日は森さんは仕事、菱田さんは学校だ。
私は一人お留守番で、フミさんの手伝いをしながら、明治文化を学ぶ。
「そう言えば昨夜、部屋に黒い猫がやってきたんです。」
洗濯を手伝いながら、フミさんに話す。
「あら、子猫ですか?」
「いいえ、わりと大きいけど、スタイルよくて、毛並みもとてもきれいでした。
飼い猫でしょうか。」
フミさんは少し考えている。
「この辺りで黒い猫を飼っているお宅は聞いたことはありませんが・・・
最近飼い始めた家から逃げてきたのでしょうか。」
それは気の毒だ。
「首輪は付いていましたか?」
「いいえ。」
「猫なんて気ままなものですから、一応首輪くらいは付けておくものですのに。
野良猫だったのでしょうか。」
フミさんは小さく笑った。
「このお家には、絵を描く方も、物語を書かれる方もいらっしゃいますから、居ついていただけると何かいい刺激になるかもしれませんね。」
なるほど、と私も頷く。
「餌付けでもしてみましょうか。」
「野良猫なら問題はないでしょうし、飼い猫だとしても首輪をつけていないくらいです。
きっと少しくらいならいいでしょう。
鰹節が棚の3段目にありますから、もし必要でしたらどうぞ。」
「ありがとうございます。
・・・あ、そう言えば・・・。」
ひとつ昨夜の疑問を訪ねてみる。
「森さんって、海外に行ったことあるんですか?」
「ええ。
昨年までドイツに留学されていましたよ。
よく気づきましたねぇ。」
フミさんに驚かれてしまい、私はええっと、と理由を考える。
渡航がメジャーではないこの時代に、今の質問は不味かったかもしれない。
「いえ、英語も堪能な方ですし、ドイツ語も読まれるようでしたので。」
フミさんはそうですね、と頷いた。
「本当に、鴎外様は多才でおられます。
その上容姿端麗。
叔母様が将来をご心配されるのももっともです。」
確かにその通りだ。
現代ならばおひとり様、で済ませられるだろうが、この時代はそうはいかない。
確か、森鴎外は確か2度結婚しているはずだ。
(1度目は確か帰国の翌年・・・って今年?)
確か子供は後妻の子も合わせて4人で、外国に行っても通用するような名前をつけられていた。
(・・・のは、あの広い額に髭の生えた口もとが特徴の、あの白黒写真の森鴎外、か。
だがどこまで同じなんだ?)
頭が痛くなってきた。
二人は同じ名前で、たぶん同じ人生を歩み、同じ作品を書いている。
肩書も業績も同じ。
だがあまりに容姿が異なっている。
(では、あの恋・・・エリスの件も?)
1884年から1888年の留学期間に彼は生涯忘れられない恋をしたといわれている。
帰国した年には女性が彼を追いかけてきていたとか。
この世界の彼と金髪の美しい踊り子であれば、きっとお似合いだろう。
(流石にこれは聞けないし、来年の出版まで待つかな・・・っていうことは今執筆中かも。)
もし恋をしていないとして、舞姫を執筆することはできたのだろうか、という疑問は残るが、確かめようはない。
エリスの件があるかは置いておいても、自分の家庭を築いてくれることが、きっと叔母さんの望みなのだろう。
そしてきっと、この時代では彼の幸せにつながるに違いない。
「私、叔母様に悪いことしたかもしれませんね。」
「咲さんのせいではありませんよ。」
フミさんが否定してくれても、私自身がこの時代のものではないことは明白だし、彼の人生に余計なことをするべきじゃないということも分かっている。
(ミスだな・・・これは。)
この世界の森鴎外は、一体どうなってしまうのだろう。
私は余所者