現在の連載では主人公同士が関わることはありませんが、今後関わりが出てくるため、各々の主人公で名前変換ができるようにしてあります。
示された道を歩めぬ私
名前変換
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国民之友を読んでから、私は思い出したように本の虫になっていた。
もとから好きだったのかもしれないが、本を見つけると読みたい衝動に駆られる。
だからそれも、そんな衝動の一つだった。
「・・・解剖学、ですか。」
サンルームに座る森さんの手にある本のタイトルをぽつりと私がつぶやくと、森さんは目を見開いた。
「まさかおまえ、ドイツ語が読めるのかい?」
言われてから気づいた。
本当だ、ドイツ語だ。
「読めるみたいですね。
・・・でもあまり得意じゃなかった気がします。
読んでも?」
確認すれば森さんは何度も首を縦に振って私に手渡す。
ずっしりと重たいそれは、専門書のようだ。
ぱらぱらと開く。
若干分かりにくいところもあるが、読むには全く問題はない。
「ドイツ語ができるとは・・・。
そうだ、ここのページ、説明してみてくれないか。」
森さんは私のとなりにやって来て本を覗き込み、左ページの中程を指す。
ふわりと彼の髪が私の頬に掛かる。
思わず隣を見ると、サンルームの大きな窓から差し込む陽の光を受けた瞳が本をじっと見つめていて、その真剣さに一瞬どきりとした。
慌てて長く節張った指先を追う。
そこにはどことなく見覚えのある図が乗っている。
いくらか読めばそれは基本的な内容であることはすぐに理解できて、私は森さんに図を見せながら内容を話して見せた。
森さんはふんふん、とその説明を聞く。
「・・・素晴らしい、理解も完璧だ。
うちの学生よりも出来が良いくらいだよ。
少しここで待っていなさい。」
あっというまにサンルームから飛び出して行き、返ってきたときには様々な本を手にしていた。
「これはどうだ?」
「シェイクスピアですね。
こっちはAlice's Adventures in Wonderland・・・懐かしい、不思議の国のアリスじゃないですか。」
ぱらぱらとページを捲る。
確か中学校の英語の教科書に載っているのだ。
「流石森さん、良い物を持っていらっしゃる。
まだ外国の本なんて、それほど簡単に手に入らないのでは?」
「では、お前はどこで読んできたのだ?」
私はふと手を止める。
「何が懐かしいのだ?」
真っ直ぐに、森さんが私を見つめる。
「Alice's Adventures in Wonderland。
お前はこのタイトルをためらうことなく読み、そして訳して見せた。
英国では有名な作品だが、日本ではまだ受け入れられたものとはいい難い。」
私としたことが、懐かしいのが嬉しくて思わずいろいろ口に出して話してしまったらしい。
しかしそれは確かに記憶につながるもので。
「昔、英語を勉強していた時に読んだんです。
それ以外は・・・思い出せないのですが・・・。」
流石に未来の中学校の教科書に載っているとは言えない。
記憶喪失だけでも充分に怪しいのに、未来から来ただなんて。
(しかも私の知る森鴎外はこんな見た目の人じゃなかったなんて。)
とにかく、この件については黙っているに越したことはないだろう。
森さんはしばらく考えてから、口を開いた。
「・・・おまえ、看護婦だったのではないか?」
「看護婦?」
突然出てきた言葉に私は首をかしげるが、その言葉はどこか懐かしい。
「それに西洋の看護婦は衛生のためにも髪を短くしていたと聞く。
お前、西洋で看護婦として働いていたのではないか?」
確かに近い言葉を並べられている気がした。
「なにか・・・近い気がします。
あと一歩、何かが・・・。」
何かが足りない。
看護婦、ヨーロッパ・・・。
英語やドイツ語を学んでいたのもそれなら頷ける。
しかしどこかしっくりこない。
「まぁ、焦る必要はない。」
森さんがぽんと私の肩を叩いた。
「ところでお前にひとつ頼みがあるのだ。
なに、大したことではない。」
困ったような笑顔を浮かべている。
何でもかなえられそうな森さんなのに、少し意外だ。
お世話になっている森さんの願いなら出来るだけかなえたいが、これこそが今まで彼が私に親切にしてきた理由なのかと思うとひどく心が塞ぐ。
そんな思いには蓋をして、私は笑顔を向ける。
「なんでしょう、私などで役に立つのでしょうか。」
彼はひどくうれしそうに笑って頷いた。
「お前でなければならないのだよ。」
どんな人にもやはり裏があるのかと思うと、当たり前だと思う反面、何故か苦しくなる。
でも私も笑顔を貼り付けて見せた。
いつも森さんがしているように。
張り付けられた笑顔