10万日の、その先に
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縁側から月を見上げながら、ふとあの日のことを思い出した。
110年前のあの日、夜一さんとボクの後ろに唐突に表れた香織サンは、目の前に広がる惨状に眉を顰めた。
そんな彼女を見て、ボク達は目を見開いたものだ。
ー・・・これ、どうしたんですか?ー
ーそれはこっちのセリフだ!
お前、どうしてここに来た!?ー
夜一サンの喰って掛かるような言葉に臆することもなく、彼女は困った顔で言ったのだ。
―勘、ですかね。
なんだか、呼ばれた気がして。―
ー誰が呼ぶか!!ー
夜一サンに怒鳴られ、少し首をすくめてから、彼女は笑って呟くように言った。
ーでも、よかった。ー
何が起こったのかも知らず、これからボク達が現世に逃げようとしていることも知らないで、なにが”よかった”なのだろうとその時は思った。
だが落ち着いて考えればすぐにわかる事だった。
ボク達に二度と会えなくなるということが、彼女は何よりも避けるべき事項だったのだ。
彼女は昔から、ボク達の後ろをくっついきた。
まるで雛が親鳥の後ろをついて回るように。
まだよちよち歩きの小さい頃、ボク達が帰るのを嫌がるから昼寝の間に帰ろうとしたのに、必ず帰る気配を察して起きてきてすがり付いて泣いた。
当時から彼女のボク達に対する勘も思いも、相当のものだと思う。
ボク達を追うように死神になり、二番隊に配属を希望し、そしてその希望が通り、ボク達の部下となった。
彼女の才能は、失礼な言い方にはなるが、平凡だ。
それでも幼いころから必死に、ボク達から離れないようにと努力をしていたことは知っている。
実力も頭脳も容姿も、なんでも全てが平凡な妹分だったけれど、一生懸命追いかけ続ける女の子は、幼いボク達の目にもひどく可愛く映ったし、必死になる彼女を眺め導くのが、いつしか日常になった。
自意識過剰と言われるかもしれないが、実際今でも、彼女はボクと夜一さんのことが誰よりも大好きだと思う。
盲目的に信頼しているといっても過言ではない。
だから、言いたくなかったのだ。
崩玉を開発してしまったことも、それがどれほど危険なものであるかということも、藍染サンが狙っているということも、ただ一つだけ、彼の手に渡らない方法を思いついているということも。
言ってしまえば、彼女が犠牲になると言うことは目に見えていた。
大好きなボクの為なら、己の体や命でさえ、簡単に差し出すだろうと確信していた。
それが例え、ボクが図らずも開発してしまった、この世に生み出すべきではないものの為であっても。
それでボクが助かるなら、喜んで差し出すだろうと。
そしてきっと、そう思っているボク達の気持ちにさえ、気付いていただろう。
彼女はそれほどまでに、ボク達のことが好きだった。
そんな彼女の、その思いを利用することが、ボクには耐えがたい苦痛だった。
だが他に選択肢はない。
必ず、誰かが犠牲にならねばならないのだ。
本来であれば我が身を差し出すべきところであるが、義骸のメンテナンスに加え、崩玉の魂魄への融合状況や霊力の消失状況等の分析をする必要があるため、自ら犠牲になることはできない。
夜一サンや鉄裁サンでは、霊圧が高すぎて義骸の性能をかなり高めなければ霊力を消失させることはできず、それには材料が不足している。
香織サンは条件に適合した唯一の人物であった。
(今日も幸せそうに笑っていた。)
そんな彼女の思い出す顔はいつも笑顔だ。
ボクの罪も全て許すと言っているような、笑顔。
穏やかで幸せに溢れた、年相応の可愛らしい笑顔。
だがボクがこの笑顔を脅かしているのだと、見るたびに罪意識が浮き彫りになる。
その度、その思いを気付かれないように、ボクも笑う。
ボクの心にある疼きに無理に蓋をしていることを気づかれないよう、細心の注意を払って。
気を付けなければ勘のいい彼女はボク達のことは何でも気付いてしまうのだ。
そんなところばかり常人離れしていて、呆れて笑ってしまう。
「喜助。」
庭の紫陽花の影がまるで動くように見えた。
その様子を見慣れたボクには決して珍しいことではない。
「何ッスか、夜一サン。」
きらりと光る金色の目。
美しい黒猫は、今夜人の姿で一緒に食事をとっていたその人だ。
「今日はご馳走だったな。
香織の機嫌もよかった。」
ぴょこんと縁側に飛び移って、夜一サンは静かにそう言った。
「10万日、だったか。
良く数えたな。」
「たまたま気付いた、っていうところです。
指折り数えていたわけじゃありません。」
「そうじゃろうが・・・。」
夜一さんは珍しくそこで言い淀んだ。
そして小さく頭を振ると、ボクの隣に座って同じく月を見上げた。
「あいつを見ていると何が正しいことなのか、分からなくなる。」
「そうですか?」
黒猫は一つ頷いた。
「儂らは、あいつの存在を違えることを選んだ。
そうすることで、尸魂界を惨事から守ろうとした。
あの日は一生後悔していくであろうと思ったものだ。
ただ条件が合ったからという理由で、香織を道具のように使う等。
赤の他人ならどれほど気が楽だったろうと、何度も思った。」
黒猫は溜息をついた。
「だがそれ以来、あ奴はひどく幸せそうだ。
・・・解せぬ。」
この人は、案外香織サンのことをわかっていないのだな、と思った。
彼女がどれほどボク達のことを思っているか、知らないのだ。
だがそれを知るのは、ある意味酷なことかもしれない。
知らぬなら、気付かぬのならそれでいいのではないか、とも思う。
それは、夜一サンの為だ。
だが、知るのが責務であるとも、また思うのだ。
これは、香織サンの為。
2人のおかれた立場と状況と、そして本人の思いを汲んだ上で、ボクは口を開く。
「ボク達の傍で、ボク達の役に立てるのが、嬉しいんですよ。
香織サンは、本当に、本当に、信じられないくらい好きなんです。
夜一サンのことも、それから・・・。」
”ボクのことも”と続けようとして、なぜか言葉にならなかった。
肺を握られるような感覚に、無意識に胸に手をやる。
そんなボクの様子を、隣の黒猫はじっと見つめ、それから俯いた。
「それを言うなら、儂も香織が好きじゃ。
本当にな。
お主もそうじゃろ、喜助。」
黒猫が静かにそう言う。
「彼女の為なら、辛苦も厭わん。
好きというのは、そういうことじゃ。
あ奴が傍にいることを望むように、儂らも傍にいることを望む。
役に立つかどうかなど、関係ない。」
はっきりと言い切る黒猫の言葉は、正しい。
「あ奴が儂らに罪意識を持たぬことを求めるなら、そう振舞うにすぎん。
現実から目を背け、まるで夢の中に生きるかのような日々を過ごす。
歩み寄る終末に皆で目を背け、気付かぬ振りをするだけだ。
・・・だが、果たしてそれも正しいことなのか。」
夜一サンの疑問は、ボクだって痛感していることだ。
「香織が求めることは、平凡なことだ。
兄姉と育ったものと、一緒に居たい。
ただそれだけだ。
儂らが罪意識を持たぬ”振り”をしたところで、おそらく彼女もまた、それに騙された”振り”をしているに違いない。
・・・それを見て儂らは安堵する。
儂らの心が、僅かに軽くなる。」
耳に痛い言葉で、心の奥が疼く。
結局、ボク達は、香織サンの好意を使って彼女の運命を捻じ曲げ、挙句に己の罪意識まで軽くしようとしている。
全ては、彼女が愚かにも、ボク達に無償の愛と信頼を向けてくれる故に。
「そうだ、ボクは彼女に甘えている。」
彼女は剣拳走鬼全て己より劣り、歳下であり、本来であれば庇護の対象であってもなんらおかしくない。
ところが人は、"心"という尺度を持つ。
それは測り比較できる能力よりもずっと複雑で、伸ばしにくく、個人の特性が顕著だ。
そして比較できない分、無意識のうちに、弱きは強きに依存する。
あの日、全て覚悟したつもりだった。
全てを背負う覚悟をしたはずだったのだ。
彼女の問いかけに、答えたあの、瞬間に。
ー私の霊圧が消えたら、もしその時、私が望んだら・・・ー
香織サンはその日初めて寂しそうな顔をした。
ー私を、殺してくれますか?ー
その言葉は想像の範疇であったのに、ひどく心を掻き乱す。
ボクは呼吸が苦しく感じ、無理に深呼吸をして、それから答えた。
ーその時、貴女がそれを望むなら。ー
その声は滑稽なほど掠れていた。