本編 ーsecondー
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「失礼します」
小さな声をかけ会議室の中に入る。
中には堂上しかおらず、予想外であった。
その彼も、悩ましげに渋く眉を寄せている。
「すまんな」
「いいえ」
「その、なんだ……とりあえず座れ」
言われた通り、とりあえず堂上の斜め前に座った。
この日が来ることは覚悟していた。
レストランで顔を合わせた日から、もう10日以上経つ。
もっと早く呼び出されると覚悟していたが、堂上も忙しかったのだろう。
それから、彼がかなり気を遣って呼び出したこともわかっている。
あの小牧にさえ気づかれぬよう、偶然2人になった時を狙って声をかけた。
咲が彼らを裏切ったような格好になり、慧が笠原を傷つけたというのにーーこの優しさは毒だ。
「あの日……なんであそこにいたんだ」
どうやって聞き出すか、彼はこの間にどれほど迷ったのだろう。
それを感じさせる程、重い溜息混じりの声だった。
一方で咲は、全てを話す覚悟はできていた。
堂上は特別な存在だった。
初めて図書館に訪れた自分に図書カードを作ってくれた人。
図書館利用者として、何度か顔を合わせたこともある。
入隊試験の面接官。
今では上司で、先輩の想い人。
数少ない、自分が守りたいと思う、優しい人。
だから、なんと聞かれようとも、答える内容は決まっていた。
これ以上、彼に隠し事はできなかった。
指を組んでじっとその指先を見つめ、乾いた唇を舐めて湿らしてから、口を開いた。
「私、慧さんとは長い仲なんです。
高校の頃からの読書友達で。
本屋で出会ったんです、あれは偶然で……っ」
言ってから、本当に偶然だったのかという疑問が浮かぶ。
彼ならば、慧ならば、日野の悪夢の生き残りである咲を狙っていたのかもしれない。
彼女の揺らぎを敏感に感じ取った堂上は痛ましげに目を細めた。
「……それから付き合いが続いていました。
彼があの未来企画の手塚慧である事を知ったのは出会ってしばらくしてからです。
ずっと、互いに立場を知っていながら、見て見ぬ振りをしていました。
本当に、ただの、ただの読書友達だったんです。
仕事の話は一切していません、本当です」
そこまで一気に話して、咲は俯いた。
「信じられないと思います。
でも、そうじゃなきゃ私達は一緒にいられなかったんです。
2人とも本が好きだし、本や図書館のために命を賭けているのに、その方法があまりに違い過ぎる。
勿論、慧さんに比べれば私にできることなんてたかが知れているし、重ねてきた努力も、思いの丈も違うだろうけれど……それでも、私だって稲嶺さんの為に死ぬと決めたくらいなのに……」
最後の一言は思わず溢れたのだろう。
彼女は生きるための覚悟をすると決めたが、今まで生きてきた中で培われた決意はそう簡単には変えられない。
白くなる程手を握りしめた姿はあまりに痛ましい。
そして彼女がそれほどまでに手塚慧の図書館への思いを汲んでいることに、堂上は少しばかり驚いた。
手塚慧のそれは堂上にとって今までにない観点であったのだ。
「黙っていれば、私達の仲は続いたでしょう。
でも、もう私が耐えられなくなりました。
慧さんのやり方は、我慢できない。
私のすぐそばにある大切なものをこんなに傷つけるなんて……それが例え本を守る為でも、許せません。
あの人は、自分の目的の為なら平気で人を切り捨てられるんです。
自分の感情とは別に、それがしなければならないことだからと……だから、だから私は、慧さんのように強くなれない私はーー」
もらったカミツレのペンダントは、あの日レストランの机に置いて、飛び出した。
笠原をこれ以上苦しめるなとは言えなかった。
慧の進む道を遮る権利も、力も、何もかも持ち合わせていなかったからだ。
伝えられたられたのは、さよならの一言だけだった。
読書友達に過ぎない自分達の関係は、吹けば飛ぶようなささやかなもので、それでいて心の奥底の本に向けるひたむきさだけが一致していた。
だが手段はかけ離れ、互いを傷付けるまでに進んでいた。
それに、耐えきれなかった。
「もういい」
堂上が目を逸らして静かに遮った。
ぱたぱた、と音がして、俯くと雫がこぼれた跡があった。
「もういい、分かった。
問い詰めるつもりも、追い詰めるつもりもなかったんだ。
お前が手塚慧に情報を流していなかった事は信じている。
お前の決意の固さは、分かっているつもりだ」
慌てた宥めるような声色に、自分が泣いていることに気付く。
急に恥ずかしくなって後ろを向いて、濃いクマができている目元を拭く。
今日までの間、堂上も悩んだが、咲も相当悩んだのだ。
「……いえ……私……笠原一士があんな目にあっているのに」
「確かに笠原は傷ついた。
だがお前も……お前もだろう?
俺にすれば笠原もお前も、同じ部下だ」
咲は驚いたように動きを止めるが、堂上を振り返ることはない。
もし振り返ったなら、彼の年長者らしい温かな視線に気付いただろう。
その視線の中にある愛情や、慈しみ、成長を見守り導いてやらねばならないと言う使命感は、彼女には眩しいものだったに違いない。
その真摯な瞳を彼女の背中に向けて、堂上は続ける。
「確かにもし逆の立場なら、あの熱血バカのことだ手塚慧にやめろと言っただろう。
俺も気が長い方ではないから言ったかも知れん。
だがお前はおそらくあの男の努力も思いも知っていて、それだから言えなかったんだろう?」
咲は少しして小さく頷いた。
だからあの男はきっと彼女に好意を抱いたのだ、と堂上は思った。
物分かりがよく、相手の過去や努力を推察し、思いやるその優しさが、孤独な男の身に染みたに違いない。
それにしても手塚慧は狡い。
弱い彼女と対等なふりをするくせに、自分との差を打ち消す言葉もかけず、相談できる雰囲気でさえないとは。
だが両者の立場を考えれば職務のことに立ち入った話は別れしか呼ばないのは明らかだ。
そう考えると手塚慧も哀れだった。
始まりは使える手駒という認識だったかもしれないが、恋に溺れたのは男の方かもしれない。
あの帰り際見上げたガラス越しに見えた男は、ただの未練のある馬鹿な男だった。
「人によって意見は違うだろうが、俺は今のお前にはどうしようもなかったことだと思う」
「ですが」
意外な言葉に振り返る。
予想と違った、困り顔の堂上がいた。
「でも、はなしだ。
お前はお前で、笠原でも俺でもないだろう?
俺はお前が深く図書館を思っているのを知っているし、驚くほどの努力をしているのも知っている。
だからこそ手塚慧と惹かれあったんだろう。
それは罪じゃない」
純粋な涙を拭ってやりたい衝動に駆られたが、それは自分の役回りではないと理解する堂上は、表情を精一杯和らげた。
「お前を責めたくて呼んだんじゃない。
その……お前には辛い思いをさせた。
俺達と一緒にいなければ、また違った形もあっただだろう」
その言葉に想像してみる。
特殊部隊にいない自分。
笠原や堂上と無縁の自分。
砂川達と未来企画に所属し手塚慧と、隠し立てせず全てを分かち合う自分ーー咲は静かに首を振った。
「私は稲嶺さんについていくと決め、図書館の為にここに居ます。
だから、もしもなんて存在しません」
小さな早口で告げた言葉だが、しっかりときこえていた。
生まれた時から、きっと進む道は違えていたのだ。
「……そうか」
堂上は静かに頷き、彼女の入隊試験を思い出した。
ーこんな特殊部隊なんて、無くして見せる。
誰かを傷つけなくていい未来を、一刻も早くー
そう言って、まだ幼い高校の制服に身を包んだ彼女は、手を握りしめながら若々しい刃を突きつけたのだ。
その特殊部隊に、彼女はいる。
まるで運命のようだ。
椅子から立ち上がり、同じ視線の高さになる。
「悪かったな、休み時間に呼び出して」
思ったよりも明るい声が出た。
「こちらこそ……本当に申し訳ありませんでした」
「1人で抱えて苦しかっただろう。
相談できる環境を作るべきだった」
「いえ、そんな……全ては私が招いた事です」
「たとえ偶然が重なりお前がそういう役回りになったとしても、それを相談できてよかったはずだ。
俺でも、小牧でもーーずっとずっと、1人で抱えていたんだろう」
咲は俯いて答えない。
「お前はなんでも1人で抱えがちだが、一緒なら解決できることもあるはずだ。
これに懲りたらもう少し周りを頼るんだな」
苦笑とともに言われた小言。
休憩も終わりだと、堂上は扉に向かう。
「……あの男にそんな一面があったのは意外だったが、手塚も慕う兄貴だからな」
その言葉は優しく、咲は淡く微笑んで頷くと、兄のような上司の背中を追った。