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「無理な動きはするな」
おれの呼吸はこんなに激しいのに、黒鋼さんの呼吸に乱れはない。
この人は強い。
もう一人の俺の瞳を見て知っていたけれど、こうして実際に剣でぶつかり合うことで感じられる。
本当に、強い。
その喜びはどこか歪んだものだという自覚はある。
彼を失ったからこそ、彼のいた位置におれが今いることができる。
そうしなければ、こうして感じることはできなかったのだ。
「さっき俺がやったようにかかってこい」
「はい!」
言われた通り、一瞬で間を詰め、刀をつきだす。
黒鋼さんには及ばないが、隙はないはずだ。
だが、おれは目を見開く。
黒鋼さんがおれの切っ先に刀をそわせ、わずかに軌道をずらしたのだ。
その一瞬に生まれた隙に、彼女は身をひるがえし、気づけば足をすくわれていて、首元に刃先が添えられている。
荒い呼吸がみっともないくらいだった。
なのにどうしようもなく、嬉しい。
こうしてこの人と戦える日を、待っていたのだ。
待ち続ける中で、この赤い瞳に憧れていた。
信頼関係を築いて、一緒に戦いたいと思っていた。
もう一人の小狼はコピーであり、彼も苦しいことに変わりはない。
それは充分分かっていた。
それでも、やはり寂しかった。
羨ましかった。
「今日はここまでだ」
黒鋼さんが刀をしまう。
おれはあわてて立ち上がって、武器をなおし、隣に並ぼうと駆け寄る。
「チェス、優勝できるでしょうか」
姫が突然言い始めたのだ。
この国の、チェスに参加したいと。
もう一人の小狼によって荒らされた国の復興に充てたいのだと。
そのために、彼女の駒として戦うべく、おれは鍛錬を積む。
今までの3試合は軽く勝ててきたから問題はないかもしれないが、トーナメントを勝ち進むほど強敵になることは間違いない。
「するしかないだろう」
わしゃわしゃと頭が掻き回される。
こうする時、黒鋼さんはとても男前で、頼りになる兄貴分に見えるのだから不思議だ。
本当は女性だと知っているから、尚更。
「うちのお姫様が言うことは絶対だ」
にやりと笑う顔に、おれも笑顔で頷く。
もう一人の小狼の目を通して見られなかった、感じられなかった世界が、今おれの前に広がっている。
新しい表情も、手のぬくもりも、剣戟も、全て。
「はい!」
だからあと少しだけ、この醜い優越感にも、どこか屈折した喜びにも、目を瞑ろう。
あと……あと、少しだけ。
部屋に戻ると男と姫はもう食事を済ませたようだった。
俺と男の狙いはそこだった。
小僧も姫も、互いに参っている。
なるべく別に行動させておくほうがいいだろう。
大切だからこそ、辛い。
大切だからこそ、苦しい。
そっくりの他人が目の前にいることは、もしかしたら会えないことよりも辛いのかもしれない。
時計を見ればもう夜9時を回っている。
「明日もある。
無理せず休め」
俺の言葉に男がうなずく。
「じゃあ、いこうか」
男が姫の部屋の扉を開けて待つ。
そちらに向かっていこうとした姫が、小狼の前でぐらりとバランスを崩した。
それを抱きとめる小狼。
しかし二人は一瞬目を合わせたきり、小さく謝って離れてしまう。
同じはずの姿の二人は、もう二度と戻れないのだ。
男がさっとやってきて姫を支えて部屋へと入って行った。
静かに閉じた扉が、小狼と姫の空間を区切った。
「飯にするぞ」
俺は小狼に声をかける。
「……ああ」
振り返った瞳はさみしさを感じさせない。
強い子だ、と思う。
辛いだろうに、苦しいだろうに。
男が作っておいてくれた麺料理を食べる。
トマト味のつるつるとしたそれは、なかなかうまい。
前にピッフル国にいた時も同じような物を作っていた。
何度も使ううちに、箸以外の食器で料理を食べれるようになった。
慣れとはすごい。
小狼は何かを考えているのか、もくもくと食べている。
どうせ要らないことを考えているだろうことは表情からわかる。
そんなところは、あの小僧とそっくりだ。
「確かにお前はあいつのもとになったかもしれないが、お前がやっていないことの責を感じることもないし、したいようにすればいい。
姫のこともな」
小狼は戸惑ったように顔をあげた。
「お前はあいつと違う」
彼は小僧の元となった。
しかし歩んできた道は違う。
根本は同じでも、気配も微かに違うのだ。
「それでも、さ……姫にとってあの肩を支えるのは俺じゃない」
俺は隣にある頭をかいぐる。
やわらかいけれど芯の通った髪は実に小狼らしい。
「あいつはもろい。
誰かが支えてやらなければいずれ折れる。
あの男は同じだから駄目だ」
扉の向こうをじっと見る小狼の視線を、俺も真似る。
あの向こうの二人は何かを隠している。
だがそれはまだ彼に言うべきではない。
「食べ終わったら先に風呂に入ってこい」
「だが」
洗わなければならない食器を気にしているのだろう。
しかし確実に稽古をつけられている彼のほうが俺よりも疲れている。
「弱い弟子のためだ」
そう笑ってやれば小狼は眉尻を下げた。
「貴方も疲れているだろうに、すまない」
俺は首を振る。
「お前は、他人のことはみんな“貴方”と呼ぶのか」
小狼はわずかに目を見開いた。
「お前はお前の好きなように呼べばいい」
小狼はしばらく考えて、それから少し顔を赤らめて、小さく言った。
「はい……黒鋼、さん」
しばらくしてリビングに戻ると食事は片づけられていて、誰もいなかった。
お風呂のほうから水音がする。
小狼君か黒鋼が入っているのだろう。
グラスとウォッカを棚から持ってきてテーブルに戻る。
この国のお酒もなかなかおいしい。
お店にはいろんな国のいろんなお酒が置いてあって見ているだけでもなかなか楽しいのだ。
しばらくすると長い髪を拭きながら黒鋼が出てきた。
ほんのりと桜色に染まる肌の艶めかしいこと。
ゆるっとしたシルエットの黒いスウェットが彼女の女性らしい体型を隠しつつ、なぜだかそれを際立たせていること。
一筋の黒い髪が首筋に張り付いていてコントラストがまぶしいこと。
そんなことに当の本人は気づいているはずがなかった。
「小狼君も寝た?」
だからオレも気づいていない振りをしてそう問う。
「ああ」
赤い瞳がオレをちらりと映す。
「何か飲む?」
続いてそう問いかければ、予想通りの答えが返ってきた。
「酒」
「仕方ないね」
オレがグラスを取りに立ち上がると、しばらくして声がかかった。
「お前も飲め」
その言葉とともに鼻につく、甘い香り。
「飲まないなら流れるだけだ」
振り返ったオレを、試すように赤い瞳が見つめる。
彼女の左腕から流れるのと同じ、赤い瞳が。
右手に光る果物ナイフが眩しい。
そこに残る、僅かな血痕さえ。
ごくりと、無意識に喉が鳴る。
乾いていたのだ、喉が。
それをごまかすために、酒を飲んだ。
それでも、飲みたい、飲みたい、飲みたいーー
体が彼女の血を欲する。
押さえていた欲求が、この匂いを嗅ぐとこらえきれなくなる。
真っ白の細い腕を、真赤な血が伝う。
床に滴り落ちるーーぽたり。
「飲め」
ゆっくりと繰り返される言葉に、唇を噛む。
口に広がる自分の血の味は、ただただ鉄臭くて不味い。
なぜ、彼女の血はこんなにも旨い匂いがするのだろうか。
彼女は果物ナイフを机に置き、一歩ずつ近づいてくる。
オレはそれに伴い、数歩後ずさり、そしてドンと壁にぶつかった。
「く、るな」
オレの抵抗も空しく、黒鋼が目の前にすらりと立つ。
血のにおいが濃い。
甘い香りに、眩暈がする。
欲求を抑えきれない。
息が荒い。
手が震える。
飲みたい、飲みたい、飲みたいーー
唇にふと指先が触れ、固く目を閉じていたことに気づく。
見開く先に、血の色の瞳。
唇から口内へとつるりと入る指は甘く、舌を執拗に絡めていたことに気づくまで時間がかかった。
それほどまでに夢中に舐めていた。
ごくり
喉が鳴った。
体に沁み渡る、彼女の血。
オレは無意識に彼女の腕に手を伸ばして引き寄せ、手首の傷を舐めた。
細い腕は、今にも折れてしまいそうだ。
オレと、彼女の体が震える。
彼女は痛みによるのだろうが、オレのほうは全く違う。
満たされた欲求に、ため息が出る。
ーー甘い、甘すぎる。
胸に、肩に、ふわりと重みを感じる。
血の香りの中に混じる、清潔感のあるシャンプーの香り。
「……好きなだけ……飲め」
耳元に囁かれた言葉に、オレは言葉を返すのも忘れて血を飲む。
右手で彼女の左手をつかみ、左手は逃げられないように彼女の腰を抱きこむ。
髪を拭いていたタオルが、床に落ちた。
視界の端で、まだ水分を含んだ黒髪が、白いうなじやスウェットに張り付いているのが見えた。
赤と白と黒。
眩しく、艶めかしく、妖しい。
腕の中で脈打つ存在が、たまらなく、たまらなくーー愛おしく思えた。
