紗羅ノ国
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軍事会議を終えた俺は渡り廊下から月の城を見上げる。
この国に来て早半年。
戦いは未だ続いている。
果てのない戦、日常的な殺し合いは民を疲弊させる。
こうしてこの国は遥か昔から、国土とは隔絶された場所で生死と隣り合わせで生きてきた。
暗い空に浮かぶ大きな月と、それに映し出される月の城は、一体いつ誰がどうしてこんな戦を始めたのかと思うほど不気味で、それでいて人を惹きつけてやまない。
後ろから呼び止められ、振り返る。
そこには最近入隊した若い兵が3名ほど連れ立っていた。
「司令!
鍛錬をお願いしたいのですが」
「司令は昼食もまだだ、改めろ」
俺の代わりに答えたのは副司令の草薙だ。
桜都国で見たときは年上だったが、この国では1つ年下らしく、その若さが可愛らしくも見える。
戦争に力を取られていた為、彼の剣の才能を伸ばしきれていなかったが、改めて指導してやればあっという間に頭角を表し、今や副司令だ。
とか言う俺も夜叉の右腕として、最高司令官の地位についている。
俺の右に出る実力者がいないので然りではあるが、そこまで武力を失った夜叉国の為にも早く俺の後継を育てる必要がある。
この、草薙のような、そして目の前にいる勢いのある若者のようなーー
「構わん、鍛錬場に行こう」
「駄目です!
最近鍛錬に明け暮れすぎです!」
「……とのことだ、すまんな」
「いえ、とんでもございません!」
勢いよく頭を下げると3人で走っていく。
鍛錬場に行くのだろう。
この国は弱い。
戦う気力を削がれないためにも、一人一人の兵が少しでも強くあらねばならない。
幸い、その芽は伸びつつある。
「ここの戦は時間が決まっているから、そんなに気を使うほどではないぞ。
この国も今は月の城の戦だけだが、近隣諸国と武力衝突でもあればひとたまりもない」
「だから慎重な外交をという話はもう耳にタコができるくらい聞いていますよ。
そんな脅す暇があるなら早く食べてきてください」
軽く手を上げて返事をして食堂に向かう。
あの日から、夜叉の気配は変わった。
迷いが消えたのだろうか。
運命を受け入れたのだろうか。
ひとつ確実に言えるのは、彼が人ではなくなったということだろう。
彼の瞳は、人で会ったころと変わらずに、いつも敵軍の王を見つめていた。
否、見守ると言った方が正しいかもしれない。
そしてその大将である阿修羅は、逆に何かを迷っているように見える。
剣先がぶれているのだ。
殊に、夜叉に向ける剣が。
彼女は知っているのだろう。
彼が、もはや人ではないということを。
(後は阿修羅王の決意次第と言ったところか)
食堂に足早に向かう。
確かに草薙の言う通りだ、平生こそ、体調に気遣うべきだ。
全くもってお人好しの仕事人間はこれだからダメだ。
少しの間お世話になるだけの国のために命をかけて、軍事改革なんかも手がけてしまうのだから。
草薙くんと別れたのを確認してオレは黒りんのところへ向かおうと2階の窓から離れようとして、視線を感じて動きを止める。
視線の相手はすぐに分かった。
草薙くんだ。
睨むようにオレを見上げる。
実直な彼はオレのことが面白くないらしい。
彼は黒りんが女だとは知らないから、本当にただ、尊敬する上司にくっつくオレが嫌なんだろう。
言葉も話せない異国生まれの、夜叉軍に在籍するとはいえ大した忠誠も見せないくせに、司令補佐という肩書きを与えられたオレが鼻持ちならないに違いない。
だからつい揶揄いたくなってしまう。
ニヤリと笑って手を振れば、むっとしてから何処かに行ってしまった。
オレは階段を降りて食堂へ続く廊下に顔を出す。
ちょうど黒りんの後ろ姿が見えて、隣へ並ぶ。
「先に食べとけと言っただろう」
確かにいつも会議は長引きがちで、先に食べておくよういわれていた。
でも彼女といる方が楽だ。
口がきけない設定の今、草薙くんのような人に絡まれるのもごめんだし、色目を使ってくる女性も面倒だ。
こんなに長くこの国にいるなら、話せない設定なんかにしなければよかった。
「黒鋼様!
遅かったのですね」
「お疲れ様です司令!」
食堂に顔を出すとすぐに注目される黒りん。
ピークを過ぎた為人は疎だが、誰もが嬉しそうな顔で黒りんを見る。
この国の人たちにしたら、傾きかけたこの国の軍事を立て直した救世主なのだから当然だろう。
向けられる憧れの眼差しに妙に慣れているので、黒たんに以前理由を聞いたことがある。
どうやら日本国でも同じような扱いを受けていたから慣れているらしい。
彼女は忍ぶ者であるはずなのに独特のオーラがある。
それは言うなれば、人を統べる者のような、そんなオーラが。
それに人は惹き寄せられるのかもしれない。
親子丼を食べる彼女の隣でうどんを啜る。
いつの間にか箸も自由に使えるようになった。
口がきけないことになっているので、部屋以外では基本会話はない。
ふぅふぅと口の先を尖らせ、湯が立つ米を冷まし、その赤い唇の中に入れ込む。
口の端についた卵をペロリと舌が舐めた。
そんな黙々と食べる彼女の様子を見るのは、嫌いではない。
黒い目が食べないのかとでも言いたげな視線を向けてくるので、笑顔を返してから食べ始める。
オレは司令補佐としてどんな時でも彼女の隣にいる権利を持っている。
だがそれは誰にもオレの行動に口を出させない自由を与えるための肩書きでもある。
だから軍事会議に今日のように欠席して街にサクラちゃん達のことを探しに行く事もできる。
収穫は今回も無かった。
もう半年もこんな生活をつづけているのに、噂の一つも入ってこない。
ーーこのままではうっかりありえない偶然に期待してしまいそうだ。
食事を終え部屋に帰る。
司令となった黒りんはもともと寝起きしていた客間から個室を与えられるようになり、それに伴いオレも一応司令補佐として彼の隣室を与えられた。
中では扉一つで繋がっているので何かと便利だ。
一応ノックしてから扉を開ける。
「どうだった?」
「収穫なし。
これだけ探せば噂の一つくらい聞こえてきそうなものなのに、サクラちゃん達のことはぜーんぜん聞こえてこない」
「そうか」
ベッドにごろんと横になる。
サクラちゃんと小狼くんがいないと張り合いもなく、オレもあまり取り繕う事も減った。
黒たん相手にテンションをわざわざあげるなんてエネルギーの無駄だと思うようになった。
彼女が壁際に向かって髪を結び直しているのを見て体を起こした。
「それどうしたの?」
彼女は器用に長い髪を纏めていく。
細い白い指と艶やかな黒髪のコントラストが眩しい。
更には現れたうなじも。
あれよあれよと言う間にアップにして簪で留めてしまった。
振り返ると微かに目を緩ませる。
「もらったんだ、どうだ?」
こちらに見せようと軽く頭を振る。
その度にガラス細工が窓から差し込む午後の日差しを反射させ、それが黒髪に色を投げかけた。
質の良いものだということは、一目で分かった。
この国の男性は髪が長いことも多く、簪を使うことも多いから風習としては問題ないだろうが、彼女の性別を知るオレとしては、その姿は女のもの以外何ものでもない。
「……誰に?」
彼女はよく贈り物をもらう。
司令に取り入ろうとするなんで言う不純なものではなく、性別すら関係なく、単純に彼女に好意を寄せる者が多いのだ。
アクセサリー類から武具から、置物、文具など、挙げ始めたらきりがない。
その上彼女はいずれもセンスよく使った。
それがまた贈り主たちを喜ばせ、程よく着飾る彼女に集まる憧れの視線も増えた。
いつしか彼女の周りは、活気が溢れるようになったーーおそらく戦に疲れたこの国の為に、彼女がそう振る舞ったのだろう。
今までの旅では対人的なことはオレが引き受けて、彼女は戦い専門なところがあったが、この国ではオレが話せない分彼女が全てを取り仕切る。
彼女がこんなにも人心掌握に長けているとは思わなかった。
それがどうも面白くない。
口がきける設定にしていたら、こんな苛立ちなどなかっただろうと何度かやんでも致し方ない。
しかもこの簪の贈り主には既に確信があった。
「夜叉王だ」
あっさりと、微かに口の端を上げて答えるだけにタチが悪い。
どうせそんな嬉しそうな顔で彼に礼を言ったのだろう。
鏡を見て満足そうにしている。
夕食の時につけていくつもりなのだろうか。
そんなのなおのこと面白くないが、オレの気など彼女は知りもしない。
無防備にポーカーフェイスを崩した彼女を見られる関係性を手に入れたオレの気など。
「どうした?」
無邪気に尋ねる彼女が腹立たしい。
ならばいっそのこと、オレが何か贈り物をすればーーその考えが何度頭を掠めたかしらない。
もっと軽い関係の時ならば、贈り物も何も考えずにしていただろう。
だが今となってはオレが彼女に贈り物など、頭も心も体もこんがらがって、渡せるはずもなかった。
「さぁ?」
彼女の嫌いな笑顔を貼り付けて見せると、彼女は眉間に皺を寄せた。
さっきの嬉しそうな顔よりも、今の方がずっといい。
旅をすればその世界の人との付き合いは一定の距離が保たれる代わりに、旅の仲間の距離は縮まる。
逆にその世界にいる時間が長くなれば、今のようにこの世界の人との関わりも深くなる。
あの必然の旅に引き戻されることから逃げたい一方で、黒さまにこの世界の住人の距離を取らせたいと妬む。
それを自覚する度に思うのだ。
やはりオレはバカだ、と。
この国に来て早半年。
戦いは未だ続いている。
果てのない戦、日常的な殺し合いは民を疲弊させる。
こうしてこの国は遥か昔から、国土とは隔絶された場所で生死と隣り合わせで生きてきた。
暗い空に浮かぶ大きな月と、それに映し出される月の城は、一体いつ誰がどうしてこんな戦を始めたのかと思うほど不気味で、それでいて人を惹きつけてやまない。
後ろから呼び止められ、振り返る。
そこには最近入隊した若い兵が3名ほど連れ立っていた。
「司令!
鍛錬をお願いしたいのですが」
「司令は昼食もまだだ、改めろ」
俺の代わりに答えたのは副司令の草薙だ。
桜都国で見たときは年上だったが、この国では1つ年下らしく、その若さが可愛らしくも見える。
戦争に力を取られていた為、彼の剣の才能を伸ばしきれていなかったが、改めて指導してやればあっという間に頭角を表し、今や副司令だ。
とか言う俺も夜叉の右腕として、最高司令官の地位についている。
俺の右に出る実力者がいないので然りではあるが、そこまで武力を失った夜叉国の為にも早く俺の後継を育てる必要がある。
この、草薙のような、そして目の前にいる勢いのある若者のようなーー
「構わん、鍛錬場に行こう」
「駄目です!
最近鍛錬に明け暮れすぎです!」
「……とのことだ、すまんな」
「いえ、とんでもございません!」
勢いよく頭を下げると3人で走っていく。
鍛錬場に行くのだろう。
この国は弱い。
戦う気力を削がれないためにも、一人一人の兵が少しでも強くあらねばならない。
幸い、その芽は伸びつつある。
「ここの戦は時間が決まっているから、そんなに気を使うほどではないぞ。
この国も今は月の城の戦だけだが、近隣諸国と武力衝突でもあればひとたまりもない」
「だから慎重な外交をという話はもう耳にタコができるくらい聞いていますよ。
そんな脅す暇があるなら早く食べてきてください」
軽く手を上げて返事をして食堂に向かう。
あの日から、夜叉の気配は変わった。
迷いが消えたのだろうか。
運命を受け入れたのだろうか。
ひとつ確実に言えるのは、彼が人ではなくなったということだろう。
彼の瞳は、人で会ったころと変わらずに、いつも敵軍の王を見つめていた。
否、見守ると言った方が正しいかもしれない。
そしてその大将である阿修羅は、逆に何かを迷っているように見える。
剣先がぶれているのだ。
殊に、夜叉に向ける剣が。
彼女は知っているのだろう。
彼が、もはや人ではないということを。
(後は阿修羅王の決意次第と言ったところか)
食堂に足早に向かう。
確かに草薙の言う通りだ、平生こそ、体調に気遣うべきだ。
全くもってお人好しの仕事人間はこれだからダメだ。
少しの間お世話になるだけの国のために命をかけて、軍事改革なんかも手がけてしまうのだから。
草薙くんと別れたのを確認してオレは黒りんのところへ向かおうと2階の窓から離れようとして、視線を感じて動きを止める。
視線の相手はすぐに分かった。
草薙くんだ。
睨むようにオレを見上げる。
実直な彼はオレのことが面白くないらしい。
彼は黒りんが女だとは知らないから、本当にただ、尊敬する上司にくっつくオレが嫌なんだろう。
言葉も話せない異国生まれの、夜叉軍に在籍するとはいえ大した忠誠も見せないくせに、司令補佐という肩書きを与えられたオレが鼻持ちならないに違いない。
だからつい揶揄いたくなってしまう。
ニヤリと笑って手を振れば、むっとしてから何処かに行ってしまった。
オレは階段を降りて食堂へ続く廊下に顔を出す。
ちょうど黒りんの後ろ姿が見えて、隣へ並ぶ。
「先に食べとけと言っただろう」
確かにいつも会議は長引きがちで、先に食べておくよういわれていた。
でも彼女といる方が楽だ。
口がきけない設定の今、草薙くんのような人に絡まれるのもごめんだし、色目を使ってくる女性も面倒だ。
こんなに長くこの国にいるなら、話せない設定なんかにしなければよかった。
「黒鋼様!
遅かったのですね」
「お疲れ様です司令!」
食堂に顔を出すとすぐに注目される黒りん。
ピークを過ぎた為人は疎だが、誰もが嬉しそうな顔で黒りんを見る。
この国の人たちにしたら、傾きかけたこの国の軍事を立て直した救世主なのだから当然だろう。
向けられる憧れの眼差しに妙に慣れているので、黒たんに以前理由を聞いたことがある。
どうやら日本国でも同じような扱いを受けていたから慣れているらしい。
彼女は忍ぶ者であるはずなのに独特のオーラがある。
それは言うなれば、人を統べる者のような、そんなオーラが。
それに人は惹き寄せられるのかもしれない。
親子丼を食べる彼女の隣でうどんを啜る。
いつの間にか箸も自由に使えるようになった。
口がきけないことになっているので、部屋以外では基本会話はない。
ふぅふぅと口の先を尖らせ、湯が立つ米を冷まし、その赤い唇の中に入れ込む。
口の端についた卵をペロリと舌が舐めた。
そんな黙々と食べる彼女の様子を見るのは、嫌いではない。
黒い目が食べないのかとでも言いたげな視線を向けてくるので、笑顔を返してから食べ始める。
オレは司令補佐としてどんな時でも彼女の隣にいる権利を持っている。
だがそれは誰にもオレの行動に口を出させない自由を与えるための肩書きでもある。
だから軍事会議に今日のように欠席して街にサクラちゃん達のことを探しに行く事もできる。
収穫は今回も無かった。
もう半年もこんな生活をつづけているのに、噂の一つも入ってこない。
ーーこのままではうっかりありえない偶然に期待してしまいそうだ。
食事を終え部屋に帰る。
司令となった黒りんはもともと寝起きしていた客間から個室を与えられるようになり、それに伴いオレも一応司令補佐として彼の隣室を与えられた。
中では扉一つで繋がっているので何かと便利だ。
一応ノックしてから扉を開ける。
「どうだった?」
「収穫なし。
これだけ探せば噂の一つくらい聞こえてきそうなものなのに、サクラちゃん達のことはぜーんぜん聞こえてこない」
「そうか」
ベッドにごろんと横になる。
サクラちゃんと小狼くんがいないと張り合いもなく、オレもあまり取り繕う事も減った。
黒たん相手にテンションをわざわざあげるなんてエネルギーの無駄だと思うようになった。
彼女が壁際に向かって髪を結び直しているのを見て体を起こした。
「それどうしたの?」
彼女は器用に長い髪を纏めていく。
細い白い指と艶やかな黒髪のコントラストが眩しい。
更には現れたうなじも。
あれよあれよと言う間にアップにして簪で留めてしまった。
振り返ると微かに目を緩ませる。
「もらったんだ、どうだ?」
こちらに見せようと軽く頭を振る。
その度にガラス細工が窓から差し込む午後の日差しを反射させ、それが黒髪に色を投げかけた。
質の良いものだということは、一目で分かった。
この国の男性は髪が長いことも多く、簪を使うことも多いから風習としては問題ないだろうが、彼女の性別を知るオレとしては、その姿は女のもの以外何ものでもない。
「……誰に?」
彼女はよく贈り物をもらう。
司令に取り入ろうとするなんで言う不純なものではなく、性別すら関係なく、単純に彼女に好意を寄せる者が多いのだ。
アクセサリー類から武具から、置物、文具など、挙げ始めたらきりがない。
その上彼女はいずれもセンスよく使った。
それがまた贈り主たちを喜ばせ、程よく着飾る彼女に集まる憧れの視線も増えた。
いつしか彼女の周りは、活気が溢れるようになったーーおそらく戦に疲れたこの国の為に、彼女がそう振る舞ったのだろう。
今までの旅では対人的なことはオレが引き受けて、彼女は戦い専門なところがあったが、この国ではオレが話せない分彼女が全てを取り仕切る。
彼女がこんなにも人心掌握に長けているとは思わなかった。
それがどうも面白くない。
口がきける設定にしていたら、こんな苛立ちなどなかっただろうと何度かやんでも致し方ない。
しかもこの簪の贈り主には既に確信があった。
「夜叉王だ」
あっさりと、微かに口の端を上げて答えるだけにタチが悪い。
どうせそんな嬉しそうな顔で彼に礼を言ったのだろう。
鏡を見て満足そうにしている。
夕食の時につけていくつもりなのだろうか。
そんなのなおのこと面白くないが、オレの気など彼女は知りもしない。
無防備にポーカーフェイスを崩した彼女を見られる関係性を手に入れたオレの気など。
「どうした?」
無邪気に尋ねる彼女が腹立たしい。
ならばいっそのこと、オレが何か贈り物をすればーーその考えが何度頭を掠めたかしらない。
もっと軽い関係の時ならば、贈り物も何も考えずにしていただろう。
だが今となってはオレが彼女に贈り物など、頭も心も体もこんがらがって、渡せるはずもなかった。
「さぁ?」
彼女の嫌いな笑顔を貼り付けて見せると、彼女は眉間に皺を寄せた。
さっきの嬉しそうな顔よりも、今の方がずっといい。
旅をすればその世界の人との付き合いは一定の距離が保たれる代わりに、旅の仲間の距離は縮まる。
逆にその世界にいる時間が長くなれば、今のようにこの世界の人との関わりも深くなる。
あの必然の旅に引き戻されることから逃げたい一方で、黒さまにこの世界の住人の距離を取らせたいと妬む。
それを自覚する度に思うのだ。
やはりオレはバカだ、と。
