霧の国
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「で、ここは」
思わずモコナに声をかける。
家もない。
人の気配もない。
あるのは大きな湖と、深い森と、深い霧。
「モコナ、羽の気配は?」
「強い力感じる。
この中から」
モコナの指先は湖に向かっている。
「この広い湖に潜って探すっていうことかなぁ……」
流石に男も、今度ばかりは俺に振ることはしない。
そのくらい湖は広く、深かった。
だが誰か行かねば仕方がない。
マントを脱ごうと手をかけると姫が立ち上がる。
「まって!
私が行きま……す……」
そう言いながら倒れて眠ってしまい、慌てて抱きとめた。
こんな湖に彼女が潜れるとは到底思えないが、それをやろうとするのは恐らく記憶がないからだろう。
全ての経験の喪失は、正常な判断を損なう原因もなり、これから彼女を危険に晒すかもしれない。
今眠りに落ちたのは幸いだ。
「春香ちゃんのところでずっとがんばっていたから、限界が来たんだねぇ」
大きな木の根元に連れていく。
マントをかけた。
この国は冷える。
姫の傍で靴を脱ぎかける。
ここを基点として動くのが良いだろうと思ってだ。
「黒鋼さん、まさか潜るんですか?」
小僧の声に振り返る。
「お前たちは辺りの様子でも見てこい。
ついでに薪を頼む」
「えっ」
「黒様、怪我してるでしょ。
傷口開いたらどうするの?」
あきれたような男の物言いに苛立つ。
「このくらいかすり傷だ」
「嘘言わないー」
睨まれた所で痛くも痒くもない。
「黒りん、これ以上心配かけないでくれるかな」
「お前が心配だと、笑わせるな」
「オレじゃなくて。
黒たんがそんなだからサクラちゃんだってさっき無理してーー」
「あの、おれが行くんで!」
小僧が慌てて仲裁に入る。
ほら、とでも言いたげな男の視線を無視して小僧に向き合う。
「何があるかわからん上、水温も下がってくる。
お前の方が体も小さく影響を受けやすいだろう」
「大丈夫です。
おれ、これでも水中遺跡の発掘にも参加した事があるんです。
自分の限度も分かっています。
それに、ファイさんの言う通りですよ。
心配なのはファイさんだけじゃなくて、姫も、おれもです」
少し困ったように眉尻を下げて笑う。
その表情は姫に少し似ていて、彼らが過ごしてきた時間を感じさせた。
「俺は大人で、お前達は子どもだ。
守るのは当たり前。
……だがお前がそこまで言うのなら」
ひとつ頷いて彼らに背を向けた。
日が陰ってきている。
じきに夜が来るだろう。
薪の用意は急いだ方が良い。
小僧が潜るのに慣れているとしても、冷えるに違いない。
「黒むーは泳ぐの得意?」
先を歩く黒い背中に声をかける。
結局小狼くんに折れたけれど、あれはオレだけでは説得できなかっただろう。
優しい風を装っているつもりだったのに、黒様には心配さえしないようなやつだと見透かされていたことは少しショックだった。
彼女は人を懐に急に引き入れたかと思うと、また急に突き放すところがある。
まだ若いんだ、尖っていて当たり前だろうと自分に言い聞かせる。
彼女とは全てが違うのだと。
だからなんでもない風を装って、雑談を振るのだ。
「得意と言う程ではないが、必要ならば潜れる」
「そっか、忍者っていうのはなんでもできないとだめなんだねぇ」
「魔術師はどうなんだ?」
「うーん、別に必要ないかな。
泳がずに空気の膜を作って水に潜ることだってできるし」
「便利だな」
初めは本当に無口だったけれど、最近は少しずつ話してくれるようになった気がする。
「ね、どうして忍者になったの?」
黒たんは怪訝そうにこっちを見た。
しばらく間があいて、無視されたのかな、って思ったころに、返事があった。
「守りたかった」
「その……知世姫を?」
前に聞いた名前を尋ねる。
ひょっと顔をのぞけば、その顔はどこか苦しげで、息を飲む。
「……そうだな」
なんなんだろう、彼女の持っているものは。
あれ程のポーカーフェイスをしながら、時折見せる心の隙。
普段は鋒 の様に鋭いくせに、まるで隙間風の様に優しく心に入り込んでくる。
その緩急が、妙に癖になる。
穴があれば覗きたくなるもので、思わず深入りしたくなる。
「黒様、家族は?」
「両親だけで兄弟はいない」
「どんな人だったの?」
「母は、その国を守るための結界を張る巫女だった」
彼女は少しだけ困ったように眉を寄せながら言った。
だからこの前、春香ちゃんの家を守ることができたり、魔法の力に敏感だったりするのだろう。
「父は、その国を納める領主で、魔物から国を守っていた」
「黒様、お父様に似たんだね」
くすりと笑えば、彼女も淡く微笑んだ。
薄暗い霧の中で見る微笑みは、いつもからは想像できないほど儚げだった。
「ああ。
初めは巫女として教育されていたが、どうも外で暴れるほうが性に合っていたから、両親も巫女の道はあきらめて、剣を教えた」
幸せな、家庭だったんだ。
昔の自分なら起こったであろう羨望は、もう起こりはしない。
ただ、良かったね、と少し遠いところで心が思う。
「じゃあ黒むーはその国の領主になったの?」
彼女の眼は一瞬すっと遠くを見た。
「違う。
……諏訪は滅んだ。
もう昔の話だ」
国を守るために結界を張る母。
魔物から守るために戦う父。
滅んだ国。
それから導き出される答え。
「ごめん、変なこと聞いちゃったかな」
彼女は小さく首を横に振った。
「お前は?」
予測できないはずはなかった質問。
つまり、オレは彼女に己の過去を話さねばならない。
「オレは、父と、母と……双子の兄がいたよ」
彼女はこちらをちらりと見ると、しゃがみこんで木の枝を拾い始めた。
オレも近くに落ちる枝を拾い始める。
「みんな、死んだ。
父は病気、母は自害」
手が、一本の木に伸ばして、止まる。
「兄は……兄は、」
ーユゥイをだしてー
頭に鈍い痛みを感じた。
振り返れば、こぶしを握る黒様がいる。
困ったように少しうつむいて。
「……悪い」
それはとっさに殴ってしまったことに対してか、聞いたことに対してか。
俯き加減の赤い眼が、揺れていた。
彼女は、他人の心の痛みに弱い。
それは彼女が優しいから。
だから、こんなに細い手で刀を握る。
大切なものを失わないために、血を流す。
「……オレ達、正反対に見えて、案外そうでもないのかもね」
誰かにすがりたい気持ちとか、許されたい思いとか、許せない思いとか。
赤い瞳が悲しげに細められて、でもそれはどこか微笑んでいる様でもあった。
「……さぁどうだろうな」
くるりと背中を向けて、また薪を拾う。
不器用な優しさが、胸を締め付ける。
酷く苦しくて、温かくて、そしてほのかにーー甘い。
湖で急に光が見えたから、慌てて小僧と姫のところに戻る。
湖岸に倒れる姫に駆け寄った。
仰向けにして、確認するが、外傷はないようだ。
一度目を覚ましたと言う事だろうか。
「大丈夫、眠っているだけだよ」
モコナの言葉に、思わずため息をついた。
木の根元に再び運ぶ。
「さっきから湖がすごく光っていて、小狼は湖に飛び込んだの。
サクラはそれを止めようとしたの」
一生懸命話す白饅頭の頭をとんとんと指先で撫でて、姫を男に預ける。
「黒様、駄目だよ」
飛んでくるのは厳しい声。
聞く気はない。
「少年に何かあってからでは遅い」
「怪我。
傷口が開いたらサクラちゃんも小狼君も心配する」
「だからなんだ」
小僧はまだ弱い。
心の強さと、戦いの強さはある程度までは比例するが、それでも訓練していない人間なんて、している人間と比べたら天と地の差がある。
小僧自体、多少手ほどきは受けているようだが、甘かったようだ。
これは彼の力量を見誤った、俺の落ち度。
飛び込もうとすれば腕を掴まれる。
「行かせないよ」
鋭く睨む青い瞳。
その手を振り払おうとするのに、思いのほか力は強い。
「放せ」
「黒様」
こいつもこんな目をするのかと思うような、まっすぐとした目だった。
「大丈夫、黒鋼。
小狼は無事だよ?」
白饅頭がポンっと頭に飛び乗った。
「なぜ分かる」
「モコナ108の秘密技のひとつなの」
少しだけ考えて、俺は湖から離れた。
「ほんと、我儘でせっかちだから困るよねぇ」
男を睨むも、どこか楽しげに笑い返されて苛立つばかりだ。
その時、ざばっと音がして、小僧が顔を出す。
白饅頭の言う通りだった様だ。
「小狼!サクラが、サクラがぁー!!」
その小僧に駆け寄り大騒ぎする白饅頭。
何事かと思うのは小僧もで、慌てて駆けてくる。
「よく寝てるの」
語尾にご丁寧にハートまで付けてそう言う白饅頭に、流石の小僧もコケた。
「おどろいた?おどろいた?
これもモコナ108の秘密技のひとつ、超演技力なの!」
「本当にびっくりしたみたいだねぇ。」
そんな小僧に微笑みかける男。
穏やかな笑顔が、張り付けたようなものではない。
苛立ちを覚える事はなく、むしろ彼の素が出てくる事は好ましい。
小僧らに情が湧いてきている事も幸いだ。
「でもねぇ、きっとこれからも、こんなこと、
いっぱいあると思うよ。
どんなピンチが来ても、サクラちゃんの羽を探すんでしょう?」
彼がこんな声で話すとは知らなかった。
俺には真似できない様な、穏やかで慈しみの込められた声。
年も変わらなく見えるのに、ずっと歳上の、まるで母親に言い聞かされているかの様な錯覚にさえ陥るような、そんなひだまりな様な優しさ。
これはともすると、ただの手駒ではなくなるやもしれないと思わせる程の、懐の深さを感じさせる。
見方を改める必要があるかも知れない。
「だったらねぇ、もっと気楽にいこうよ。
辛いことは、いつも考えていなくていいんだよ。
忘れようとしたって忘れられないんだから。
君が笑ったり楽しんでも、誰も責めないよ。
喜ぶ人はいてもね」
情が移っただけとは言い難いだろう。
馴れ合わないように一定の距離を置いていたはずなのに、彼は今、小僧の心を動かそうとしたのだ。
助けるでも、守るでもない。
小僧自身の変化を促し、彼の成長を後押しする言葉をかけた。
それは何より人の心に残る。
距離を置きたい人間が、最も避けるべきことだ。
だが彼はそれを、した。
彼の眼は、空のように、そして海のように青い。
宝石のように。
髪は金色で、月の光を集めたようだと思う。
でも、今まではそれはただ美しいだけのものだった。
彼が俺たちから距離をとればとるほど、それはただ美しいだけのものだった。
距離は縮まった。
美しい宝石は、人の瞳となり、愛着を呼ぶ。
彼は情が移り、いつしか絆 された。
だがそれは一方通行ではない。
小僧もまた、同じ事。
今孤独と立ち向かっているのは、男だけではない。
小僧とて、自分を思ってくれる人に触れて、絆されぬはずがない。
「モコナ、小狼が笑ってると嬉しい!」
「もちろんオレも。
あ、黒ぴんもだよねー」
「俺にふるな」
どこかからか感じる視線。
つまり監視者がいる。
これは敵か、味方か、男と関係があるのか。
まだわからないが、まだ旅は始まったばかり。
争いを避けられない事もあるだろう。
その争いを生き残るには、生き残らせるには、どうするべきだろうか。
「ん……」
姫が目を覚ましたようだ。
「小狼君が湖に!」
がばっと起きて湖にかけていくのを、小僧が必死に引き止めた。
「ここにいます!!」
その小僧を見て、ほっとする姫。
男が二人に歩み寄る。
「あのね、サクラちゃん。
これからどんな旅になるか分かんないし、
まだ記憶があまりなくて不安だと思うけど、
楽しい旅になるといいよね。
せっかくこうやって出会えたんだしさ」
彼は孤独で弱く、折れやすい。
情に流されやすく、人の痛みに敏感だ。
だからーー2人の子どもに向ける瞳に、打算はないと見た。
「はい。
まだよくわからないことだらけで足手まといになってしまうけれど、
できることは一生けん命がんばります。
よろしくお願いします」
「そういえば湖の中どうだった?」
「街があったんです。
さっきの光は大きな魚が出していて、その魚が、街の人にとっての太陽みたいです」
「無駄足になっちゃったのかぁ」
「ちょっとざんねーん」
「でも小狼君、とても楽しそう」
「まだ知らなかった不思議なものがこの目で見られましたから」
穏やかな会話。
こんな日が来るとは思わなかった。
男に自覚はまだ無いだろう。
自覚の無いうちに、彼をしっかりと逃げられない程に取り込んでしまう必要がある。
その為に、俺は決して踏み込みすぎてはいけない。
客観的に彼らを観察し、適切な選択をするよう促していかなければならない。
この偶然にも絡まり合った不恰好な絆を、ただの不幸で終わらせないために。
あんな言葉が出てくるのだ。
彼の幸せを願った誰かも、きっといたに違いないのだから。
思わずモコナに声をかける。
家もない。
人の気配もない。
あるのは大きな湖と、深い森と、深い霧。
「モコナ、羽の気配は?」
「強い力感じる。
この中から」
モコナの指先は湖に向かっている。
「この広い湖に潜って探すっていうことかなぁ……」
流石に男も、今度ばかりは俺に振ることはしない。
そのくらい湖は広く、深かった。
だが誰か行かねば仕方がない。
マントを脱ごうと手をかけると姫が立ち上がる。
「まって!
私が行きま……す……」
そう言いながら倒れて眠ってしまい、慌てて抱きとめた。
こんな湖に彼女が潜れるとは到底思えないが、それをやろうとするのは恐らく記憶がないからだろう。
全ての経験の喪失は、正常な判断を損なう原因もなり、これから彼女を危険に晒すかもしれない。
今眠りに落ちたのは幸いだ。
「春香ちゃんのところでずっとがんばっていたから、限界が来たんだねぇ」
大きな木の根元に連れていく。
マントをかけた。
この国は冷える。
姫の傍で靴を脱ぎかける。
ここを基点として動くのが良いだろうと思ってだ。
「黒鋼さん、まさか潜るんですか?」
小僧の声に振り返る。
「お前たちは辺りの様子でも見てこい。
ついでに薪を頼む」
「えっ」
「黒様、怪我してるでしょ。
傷口開いたらどうするの?」
あきれたような男の物言いに苛立つ。
「このくらいかすり傷だ」
「嘘言わないー」
睨まれた所で痛くも痒くもない。
「黒りん、これ以上心配かけないでくれるかな」
「お前が心配だと、笑わせるな」
「オレじゃなくて。
黒たんがそんなだからサクラちゃんだってさっき無理してーー」
「あの、おれが行くんで!」
小僧が慌てて仲裁に入る。
ほら、とでも言いたげな男の視線を無視して小僧に向き合う。
「何があるかわからん上、水温も下がってくる。
お前の方が体も小さく影響を受けやすいだろう」
「大丈夫です。
おれ、これでも水中遺跡の発掘にも参加した事があるんです。
自分の限度も分かっています。
それに、ファイさんの言う通りですよ。
心配なのはファイさんだけじゃなくて、姫も、おれもです」
少し困ったように眉尻を下げて笑う。
その表情は姫に少し似ていて、彼らが過ごしてきた時間を感じさせた。
「俺は大人で、お前達は子どもだ。
守るのは当たり前。
……だがお前がそこまで言うのなら」
ひとつ頷いて彼らに背を向けた。
日が陰ってきている。
じきに夜が来るだろう。
薪の用意は急いだ方が良い。
小僧が潜るのに慣れているとしても、冷えるに違いない。
「黒むーは泳ぐの得意?」
先を歩く黒い背中に声をかける。
結局小狼くんに折れたけれど、あれはオレだけでは説得できなかっただろう。
優しい風を装っているつもりだったのに、黒様には心配さえしないようなやつだと見透かされていたことは少しショックだった。
彼女は人を懐に急に引き入れたかと思うと、また急に突き放すところがある。
まだ若いんだ、尖っていて当たり前だろうと自分に言い聞かせる。
彼女とは全てが違うのだと。
だからなんでもない風を装って、雑談を振るのだ。
「得意と言う程ではないが、必要ならば潜れる」
「そっか、忍者っていうのはなんでもできないとだめなんだねぇ」
「魔術師はどうなんだ?」
「うーん、別に必要ないかな。
泳がずに空気の膜を作って水に潜ることだってできるし」
「便利だな」
初めは本当に無口だったけれど、最近は少しずつ話してくれるようになった気がする。
「ね、どうして忍者になったの?」
黒たんは怪訝そうにこっちを見た。
しばらく間があいて、無視されたのかな、って思ったころに、返事があった。
「守りたかった」
「その……知世姫を?」
前に聞いた名前を尋ねる。
ひょっと顔をのぞけば、その顔はどこか苦しげで、息を飲む。
「……そうだな」
なんなんだろう、彼女の持っているものは。
あれ程のポーカーフェイスをしながら、時折見せる心の隙。
普段は
その緩急が、妙に癖になる。
穴があれば覗きたくなるもので、思わず深入りしたくなる。
「黒様、家族は?」
「両親だけで兄弟はいない」
「どんな人だったの?」
「母は、その国を守るための結界を張る巫女だった」
彼女は少しだけ困ったように眉を寄せながら言った。
だからこの前、春香ちゃんの家を守ることができたり、魔法の力に敏感だったりするのだろう。
「父は、その国を納める領主で、魔物から国を守っていた」
「黒様、お父様に似たんだね」
くすりと笑えば、彼女も淡く微笑んだ。
薄暗い霧の中で見る微笑みは、いつもからは想像できないほど儚げだった。
「ああ。
初めは巫女として教育されていたが、どうも外で暴れるほうが性に合っていたから、両親も巫女の道はあきらめて、剣を教えた」
幸せな、家庭だったんだ。
昔の自分なら起こったであろう羨望は、もう起こりはしない。
ただ、良かったね、と少し遠いところで心が思う。
「じゃあ黒むーはその国の領主になったの?」
彼女の眼は一瞬すっと遠くを見た。
「違う。
……諏訪は滅んだ。
もう昔の話だ」
国を守るために結界を張る母。
魔物から守るために戦う父。
滅んだ国。
それから導き出される答え。
「ごめん、変なこと聞いちゃったかな」
彼女は小さく首を横に振った。
「お前は?」
予測できないはずはなかった質問。
つまり、オレは彼女に己の過去を話さねばならない。
「オレは、父と、母と……双子の兄がいたよ」
彼女はこちらをちらりと見ると、しゃがみこんで木の枝を拾い始めた。
オレも近くに落ちる枝を拾い始める。
「みんな、死んだ。
父は病気、母は自害」
手が、一本の木に伸ばして、止まる。
「兄は……兄は、」
ーユゥイをだしてー
頭に鈍い痛みを感じた。
振り返れば、こぶしを握る黒様がいる。
困ったように少しうつむいて。
「……悪い」
それはとっさに殴ってしまったことに対してか、聞いたことに対してか。
俯き加減の赤い眼が、揺れていた。
彼女は、他人の心の痛みに弱い。
それは彼女が優しいから。
だから、こんなに細い手で刀を握る。
大切なものを失わないために、血を流す。
「……オレ達、正反対に見えて、案外そうでもないのかもね」
誰かにすがりたい気持ちとか、許されたい思いとか、許せない思いとか。
赤い瞳が悲しげに細められて、でもそれはどこか微笑んでいる様でもあった。
「……さぁどうだろうな」
くるりと背中を向けて、また薪を拾う。
不器用な優しさが、胸を締め付ける。
酷く苦しくて、温かくて、そしてほのかにーー甘い。
湖で急に光が見えたから、慌てて小僧と姫のところに戻る。
湖岸に倒れる姫に駆け寄った。
仰向けにして、確認するが、外傷はないようだ。
一度目を覚ましたと言う事だろうか。
「大丈夫、眠っているだけだよ」
モコナの言葉に、思わずため息をついた。
木の根元に再び運ぶ。
「さっきから湖がすごく光っていて、小狼は湖に飛び込んだの。
サクラはそれを止めようとしたの」
一生懸命話す白饅頭の頭をとんとんと指先で撫でて、姫を男に預ける。
「黒様、駄目だよ」
飛んでくるのは厳しい声。
聞く気はない。
「少年に何かあってからでは遅い」
「怪我。
傷口が開いたらサクラちゃんも小狼君も心配する」
「だからなんだ」
小僧はまだ弱い。
心の強さと、戦いの強さはある程度までは比例するが、それでも訓練していない人間なんて、している人間と比べたら天と地の差がある。
小僧自体、多少手ほどきは受けているようだが、甘かったようだ。
これは彼の力量を見誤った、俺の落ち度。
飛び込もうとすれば腕を掴まれる。
「行かせないよ」
鋭く睨む青い瞳。
その手を振り払おうとするのに、思いのほか力は強い。
「放せ」
「黒様」
こいつもこんな目をするのかと思うような、まっすぐとした目だった。
「大丈夫、黒鋼。
小狼は無事だよ?」
白饅頭がポンっと頭に飛び乗った。
「なぜ分かる」
「モコナ108の秘密技のひとつなの」
少しだけ考えて、俺は湖から離れた。
「ほんと、我儘でせっかちだから困るよねぇ」
男を睨むも、どこか楽しげに笑い返されて苛立つばかりだ。
その時、ざばっと音がして、小僧が顔を出す。
白饅頭の言う通りだった様だ。
「小狼!サクラが、サクラがぁー!!」
その小僧に駆け寄り大騒ぎする白饅頭。
何事かと思うのは小僧もで、慌てて駆けてくる。
「よく寝てるの」
語尾にご丁寧にハートまで付けてそう言う白饅頭に、流石の小僧もコケた。
「おどろいた?おどろいた?
これもモコナ108の秘密技のひとつ、超演技力なの!」
「本当にびっくりしたみたいだねぇ。」
そんな小僧に微笑みかける男。
穏やかな笑顔が、張り付けたようなものではない。
苛立ちを覚える事はなく、むしろ彼の素が出てくる事は好ましい。
小僧らに情が湧いてきている事も幸いだ。
「でもねぇ、きっとこれからも、こんなこと、
いっぱいあると思うよ。
どんなピンチが来ても、サクラちゃんの羽を探すんでしょう?」
彼がこんな声で話すとは知らなかった。
俺には真似できない様な、穏やかで慈しみの込められた声。
年も変わらなく見えるのに、ずっと歳上の、まるで母親に言い聞かされているかの様な錯覚にさえ陥るような、そんなひだまりな様な優しさ。
これはともすると、ただの手駒ではなくなるやもしれないと思わせる程の、懐の深さを感じさせる。
見方を改める必要があるかも知れない。
「だったらねぇ、もっと気楽にいこうよ。
辛いことは、いつも考えていなくていいんだよ。
忘れようとしたって忘れられないんだから。
君が笑ったり楽しんでも、誰も責めないよ。
喜ぶ人はいてもね」
情が移っただけとは言い難いだろう。
馴れ合わないように一定の距離を置いていたはずなのに、彼は今、小僧の心を動かそうとしたのだ。
助けるでも、守るでもない。
小僧自身の変化を促し、彼の成長を後押しする言葉をかけた。
それは何より人の心に残る。
距離を置きたい人間が、最も避けるべきことだ。
だが彼はそれを、した。
彼の眼は、空のように、そして海のように青い。
宝石のように。
髪は金色で、月の光を集めたようだと思う。
でも、今まではそれはただ美しいだけのものだった。
彼が俺たちから距離をとればとるほど、それはただ美しいだけのものだった。
距離は縮まった。
美しい宝石は、人の瞳となり、愛着を呼ぶ。
彼は情が移り、いつしか
だがそれは一方通行ではない。
小僧もまた、同じ事。
今孤独と立ち向かっているのは、男だけではない。
小僧とて、自分を思ってくれる人に触れて、絆されぬはずがない。
「モコナ、小狼が笑ってると嬉しい!」
「もちろんオレも。
あ、黒ぴんもだよねー」
「俺にふるな」
どこかからか感じる視線。
つまり監視者がいる。
これは敵か、味方か、男と関係があるのか。
まだわからないが、まだ旅は始まったばかり。
争いを避けられない事もあるだろう。
その争いを生き残るには、生き残らせるには、どうするべきだろうか。
「ん……」
姫が目を覚ましたようだ。
「小狼君が湖に!」
がばっと起きて湖にかけていくのを、小僧が必死に引き止めた。
「ここにいます!!」
その小僧を見て、ほっとする姫。
男が二人に歩み寄る。
「あのね、サクラちゃん。
これからどんな旅になるか分かんないし、
まだ記憶があまりなくて不安だと思うけど、
楽しい旅になるといいよね。
せっかくこうやって出会えたんだしさ」
彼は孤独で弱く、折れやすい。
情に流されやすく、人の痛みに敏感だ。
だからーー2人の子どもに向ける瞳に、打算はないと見た。
「はい。
まだよくわからないことだらけで足手まといになってしまうけれど、
できることは一生けん命がんばります。
よろしくお願いします」
「そういえば湖の中どうだった?」
「街があったんです。
さっきの光は大きな魚が出していて、その魚が、街の人にとっての太陽みたいです」
「無駄足になっちゃったのかぁ」
「ちょっとざんねーん」
「でも小狼君、とても楽しそう」
「まだ知らなかった不思議なものがこの目で見られましたから」
穏やかな会話。
こんな日が来るとは思わなかった。
男に自覚はまだ無いだろう。
自覚の無いうちに、彼をしっかりと逃げられない程に取り込んでしまう必要がある。
その為に、俺は決して踏み込みすぎてはいけない。
客観的に彼らを観察し、適切な選択をするよう促していかなければならない。
この偶然にも絡まり合った不恰好な絆を、ただの不幸で終わらせないために。
あんな言葉が出てくるのだ。
彼の幸せを願った誰かも、きっといたに違いないのだから。