学院編Ⅰ
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「待てそこは……」
斬術の練習中、浮竹が激しくむせこんだ。
「浮竹様!」
竹刀を投げ捨て、崩れ落ちる身体を慌てて支え、ゆっくりと座らせる。
触れる身体が、いつもよりも熱い気がした。
日直で学級日誌を提出なら行かなければならない京楽が、職員室に向かう前に浮竹に無理をしないよう釘を刺していたことを思い出す。
風邪でも引いたのだろうか、と背中をさすっていたが、激しい咳がなかなか治らない。
普通、こんなに咳が続くことなどあるだろうかと咲は不安になる。
(このまま、止まらなかったら……?)
呼吸さえままならなくなってきた様子に、だんだん怖くなって、背をさする手が震えた。
「さ……佐々木先生……呼んできます!!」
立ち上がろうとすれば、その腕を浮竹がつかんだ。
苦しそうな涙目で何かを言いかけるが、それは言葉になる前に咳となって掻き消えてしまった。
咲はまた怖くなった。
どうしたら楽になれるのか分からなくて、ただその身体を抱き寄せて自分にもたれさせる。
少し落ち着けば、言いかけたことを言えるかもしれないと、震える手でなんとか背中をさする。
(……もし……このまま息ができなかったら……)
一度思えば、その不安は大きくなっていくばかりで、ただただ浮竹を止めたくて抱きつきたくなるけれど、そんなことすればもっと苦しくなってしまう。
その時、聞こえるはずがない水音が耳に入った。
胸から腹にかけて、妙な温もりを感た。
それは温かいはずなのに何故か、咲から体温を奪うような錯覚に陥る。
「……す、まん」
急に重くなる身体に、咲は青ざめた。
顔をのぞきこめば青い顔をして、気を失っている。
「……う、そだ……浮竹……様」
口から流れる真っ赤な血。
そして咲の手にもいつの間にか血が付いていた。
「いや……い、や……」
震える体。
その咲の身体を滑るように、浮竹の身体が床に倒れた。
「いやぁぁぁぁぁぁ!!!」
頭を抱えてうずくまる。
「空太刀!?」
京楽が練習場に駆けこみ、その場の状況に眉を顰めた。
「すぐに佐々木先生を呼んでくるから、空太刀は浮竹を横向きに寝かせて!」
震える咲にはその声は聞こえない。
身体を抱えて震えているばかり。
京楽はその咲に駆け寄る。
さっと浮竹を気を失っているだけなのを確認し、横に向ける。
「空太刀、空太刀!」
その震える肩を揺さぶる。
そこで初めて咲はその存在に気づいたようだ。
「京……楽…様」
「君はここで待っているんだ。いいね?
ボクは佐々木先生を呼んでくるから」
咲はかろうじて頷く。
「きっと大丈夫、時々あることなんだ」
そう言い残して、京楽は駆けだした。
ただ一人残された咲は、震えながらも浮竹を見る。
微かに動く胸が、彼が生きていることを教えてくれる。
恐る恐る這いよった。
そっとその大きな手を握る。
その手は、自分とは違って大きくて節ばっていた。
白い白い肌。
まるで死人のような。
「浮竹様……死なないで」
その手に額をこすりつけて、ただただ祈った。
初めてだった。
誰かの生を祈ったのは。
「こんなところにいたんだね」
かけられる声に木の下を見る。
「……京楽様」
月明りに浮かぶアーモンド色の瞳は、ひどく優しかった。
柔らかくて、泣きついたら抱きしめてくれそうなほど。
初めてであったときの卯ノ花の優しい瞳を思い出した。
「隣、いいかい?」
囁くような、低く落ち着いた声に、咲は耐えきれずに頷いた。
その木は医務室のすぐわきに生える木。
咲の座る枝からはちょうど浮竹の顔が見えた。
「眠れないの?」
しばらく考えて、小さくうなずいた。
「浮竹、大丈夫だって。
しばらくは休むだろうけど、命に別条はないそうだ」
「私……」
そのまま何か言いかけて口をつぐんでしまう。
「君に彼の病気のことを言っておかなかったボク達にも落ち度はある。
気に病むことはないさ」
医務室に運ばれた浮竹。
意識が戻るのを待つ間に、彼の病気の話は京楽から聞いた。
いつも明るく朗らかで元気に見える浮竹が大病を抱えているとは露知らず、今まで激しい稽古もお願いしていた自分が恥ずかしくなったが、浮竹も特別扱いされないことを望んでいるのだと京楽に説明された。
ーー 懐にいつも薬を入れていて、発作が起こりかけた時は飲むんだけどなぁ ーー
続いた呟きに、咳き込みながらその薬の事を訴えようとしていたのだと分かり、何の助けにもならなかった自分の不甲斐なさに胸が苦しくなった。
空気を介して伝わってくる彼の体温が、まるで彼の心のように感じた。
これ程短い付き合いなのに、どうしてこれほど温かいのだろう。
「明日、一緒に見舞いに行こう?」
静かな誘いにしばらく考えて、口を開きかけて、また閉じた。
心にもたげたのは、一つの疑問。
(これほどのぬくもりを持つ人の傍に、
私のような獣がいてもいいの……?)
その疑問の答えなど、すでに出ている。
(いいわけない)
枝を揺らさぬよう、隣の彼に触れてしまわぬよう、静かに立ち上がる。
木の上で動くことには慣れていた。
尸魂界に生を受けてから、ずっと獣のように過ごしており、寝るときはいつも木の上だったから。
(私は、やはり彼らとは違う)
夜風が京楽のぬくもりを持ち去ってしまって、それが妙に寂しくて、寂しく思う自分が嫌で、拳を握りしめた。
欲してしまえばもっと欲しくなる。
痛いほど知っていたことなのに、手を出してしまった自分が虚しい。
「申し訳ありません……」
咲は頭を下げて、木から飛び降りると寮の方へ帰っていった。
「彼女に心配かけたくないって言ったのは君じゃないか……浮竹ぇ」
京楽の呟きは、月の光に照らされた青白い顔には届かない。
「やぁ、具合はどうだい?」
布団にくるまっている親友に声をかける。
もそもそとその布団が動いて、青白い顔が出てきた。
「なんだ、京楽か」
開口一番のその言葉に、京楽はうなだれる。
「見舞いに来た友達に向かってそんなこと言うのォ?」
近くに添えられた椅子に腰かけ、ひとつため息をつく。
「君が誰を期待しているのか、知っているけどさ」
浮竹は天井を眺めそれから額に腕を乗せた。
「やはり嫌われてしまったか。
そりゃそうだよな、女子の服に血を吐くなど最低だ。
ましてや病気のことを知られたくなくて薬を飲むのを躊躇った結果だなんて」
「浮竹ぇ、仕方のないことじゃないか。
それにあの子はそんなことで怒るような子じゃないだろう?」
浮竹からはため息という返事しかこない。
「早く治って、謝るのが一番だ。
ほら、いつまでうじうじしているんだ、君らしくない。
病は気から、っていうだろう?」
京楽の言葉には反応せず、しばらくの沈黙が流れた。
「会ったのか?」
沈黙を先に破ったのは浮竹。
「ああ、昨夜ね」
その言葉に、額からばっと腕を外して京楽の顔を凝視する。
「おいおい、変な勘違いしないでおくれよ。
そこの木から人の気配がするから寄ってみたら、彼女がいたんだ」
目線で窓の外の木を指す。
「心配していた。
彼女が倒れてしまうんじゃないかっていうくらいね」
浮竹は目を見開く。
「言っただろう、嫌われるはずがないって。
あんなに信頼を寄せてくれているんだ。
心配はするけど、嫌いにはならないよ。
ただそんな空太刀が心配になったけどね」
眉をへの字にして京楽は頭を掻いた。
「具合でも悪そうだったのか?」
「そうだねぇ、具合というよりも、心労って感じかな。
かなり責任感じちゃってるみたいだったよ」
「そんな、あいつには何の落ち度もない!」
「ってボクも言ったんだけどさぁ……」
困った様に眉尻を下げて頭を掻く友に、浮竹も溜息をついた。
貴族に対して偏見を持ちがちな彼女のことだ。
またいらぬ心配もしている事だろうと思ったのだ。
「ま、君が言ってあげるのが一番じゃないかな。
きっと」
飄々とした友がこれだけ言うのだ、かなり気に病んでいることだろう。
布団の中でぐっと胸を掴む。
自分の病とは付き合っていかなければならないと知り、人一倍の鍛錬を重ねながらも、やはりうまくいかない歯がゆさが、着物に皺を作った。
浮竹と京楽の名前は、彼らに関わって初めて意識して聞くことになった。
2人の実力がずば抜けていて、同時に容姿や性格も魅力的であるため、
男女ともにかなりの人気があるらしい。
だからだろうか。
浮竹が倒れたという話は、すぐに1年生の教室にも広がっていた。
咲は授業が終わると逃げるように図書館に駆け込んだ。
(やはり私などが関わっていい人じゃなかった)
心に重くのしかかるその思い。
(私が弱いから、あんなに練習に付き合ってくださったんだ。
具合が悪いのをおして)
本棚に額をこつんとぶつけて目を閉じる。
(気付けなかったんだ、私)
悔しかった。
消えてしまいたいほど、悔しかった。
その思いに気づき、ハッとする。
(悔しい?……どうして?)
わけのわからぬ胸の苦しみ。
(申し訳ないと思うべきなのに)
それが大切な友の水臭さを感じているからであるとか、逆に大切にされていながら気づかなかった自分への苛立ちであるということは、友人付き合いの浅い咲にはまだ解らぬことであった。
(そうだ、悔しいなんて思う暇があるなら、すぐに謝りに行かなければ。
とにかく、とにかく謝らなければ。
お二人の前に決して姿を見せないように努めるのはその後だ)
手に取りかけた本を棚に返し、咲は図書館から出た。
