原作過去編ー伊勢家
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
約束の場所に着いたのは、夜になってからだった。
何時でも構わないと言っていたその館の主は、咲を見つけると手を上げた。
「ご苦労さん」
「お疲れ様です、浮竹隊長」
昔来たときにはここに足を踏み入れたことはなかった。
人事の携わる十三番隊の隊首室は、敷地内ではあるが、隊舎から少し離れたところにある。
池の中に建てられたその名は、雨乾堂。
咲の言葉に、浮竹は瞠目してから、苦笑を浮かべた。
「やめてくれ、お前に隊長等と呼ばれてはかなわん。
それから敬語も無しだ」
「……ですが、」
「昔のままで、頼むよ。
京楽にも言われなかったか?」
歳を重ねても変わらぬその表情に、咲は少し迷ってから1つ頷いた。
それに満足げに笑って、浮竹は部屋へ足を入れる。
「まぁ、入ってくれ」
「失礼します」
一歩踏み入れると、なんだか懐かしい匂いがした。
霊圧のコントロールで肺への影響なく始解が出来るようになったとは言え、やはり病躯には変わりない彼の薬の匂いと、それから気に入っているであろう玉露の茶葉の薫りと、それからきっと、
(浮竹の、匂い)
しばらく虚圏にいたおかけで、五感が研ぎ澄まされたのかもしれない。
(落ち着く……)
無意識に息を深く吸い込み、それから溜め息をついていた。
開け放たれた障子から、池と、その向こうの庭と、空には月が見える。
彼らしく風流で、そしてどこか心休まる場所だ。
「言い出した京楽は仕事から脱け出せんらしいぞ」
酒瓶と盃を持ってやってきた浮竹は苦笑を浮かべていた。
「それは残念」
「またあいつを交えての会は後日改めることとしよう。
せっかく時間がとれたんだ、今日は二人で飲もうじゃないか」
盃に酒を注ぎ合い、二人で軽く盃を上げてから飲み干す。
「久しぶり……美味しい。
向こうでは飲まなかったから」
「そりゃそうだ。
……本当に長かったな」
その言葉に2人は顔を見合わせる。
その2人の背中に流れる髪は、どちらもやはり使い古された髪紐で纏められている。
口に出す事はないが、3人の硬い絆の様だと思ったことが互いに分かり、微笑み合う。
「よく無事で帰った」
浮竹が月を見上げて言った。
月の光を受けて、座れば床に垂れるほどの白髪は何時もより輝いて見える。
長さが不思議と咲と同じ様なもので、心が温まる。
しばらく見ない間に、ずいぶんと男前になったものだ、と思った。
昔より身長も伸びているだろうし、肩幅も広くなった。
顔立ちにも精悍さが加わり、男性らしくなった。
病躯故確かに細身ではあるが、しっかりと筋肉は付いている。
「それでも、半分で投げ出してしまったけれど」
わざと冗談めかして言うと、浮竹は優しく目を細めた。
「白哉を守るためだ、致し方無い。
だが100年でもお前はやはり無事で帰っただろう。
やはりお前は本当に強いよ、咲」
そうは言うものの、彼の姿は昔と違っていて、苦しくなる。
彼こそ、間違いなく強いのだ。
この護挺中で、13本の指に入るほど。
「何を」
いつの間にか、髪と同じ真っ白の隊長羽織に身を包むようになっていた。
机を並べ、竹刀を合わせて共に学んでいた頃など、もう遠い過去なのだ。
もともと大きかった溝はさらに深くなった。
若く無謀にも溝を飛び越えた頃とは違う。
貴族、そして隊長という大きな壁が、二人の間にはあった。
「京楽もそう、隊長にまでなっちゃうなんて……すごい」
「そうでもないさ。
お前も、なにもなければこうなっていたさ」
「そんなことない、私には無理」
「いや……だが、俺だってお前が向こうにいるから、なれたのかもしれない」
意味がわからず、咲は首をかしげた。
鳶色の瞳は悲しげに笑うばかりで、理由は言わない。
「あの日言ったことを、覚えているか?」
静かな言葉に、咲は頷く。
「私は向こうにいる間、いつも貴方達を思っていた。
送り出しに掛けてくれた言葉と共に、いつも。
必ず帰ろうと、心に誓った」
月に照らされて美しいのは、浮竹だけではない。
50年余り日の光を浴びなかった咲の陶器のような肌と、黒い髪、瞳、死覇装のコントラストは余りに眩しく、浮竹は目を細めた。
女性らしく細い線と、しっかりと鍛えられた筋肉が服の上からでも微かに見え、その鋭い美しさは虚圏で過ごした者にしか見られないように思う。
「言わないことに決めたんだ。
だが……お前を見ると駄目だな」
浮竹は咲から視線を引き剥がし、溜め息をついた。
そして立ち上がり、月を見上げる。
「あの時言おうと思っていたこととは違うことを言わなければならなくなった。
それでも、構わないか?」
咲も隣に立った。
「真面目だね、浮竹は。
黙っていても私は何も言いやしないのに」
少しあきれたように懐かしい友を見上げる瞳に浮竹の心はじくりと痛んだ。
「そんなことはない。
ただ、けじめをつけないといけないと思ったんだ。
……俺は弱いからな」
自嘲的に笑えば、咲は緩く首を横に振った。
「それが貴方の、浮竹の強さだよ。
自分が弱いことも知っていて、いつも自分に誓ってる。
自分に重石を課して、それで闘うんだ。
浮竹は、強いよ」
思わぬ言葉に目を見開き、それから破顔する。
「お前には勝てんな」
そして静かに呼吸をした後に、口を開いた。
「俺は、俺の命を、護挺のために捧げると決めた」
咲は表情を無くした。
彼の言葉が、思い出させたからだ。
ー我身を落としても、平穏無事な世の中を取り戻す所存でございますー
今は封印された上司、響河が言った言葉を。
そして全てを懸けていたものを失った時どうなるか、その残酷さを咲は痛いほどに知っていた。
だが知っているのは彼女だけではなかった。
「お前が何を思い出したか、分からんわけではないぞ。
だが俺は道を誤らん。
自らの誇りに懸けて、誓う。
この身は、心は、清く正しく在らねばならぬ」
浮竹は無意識に右胸を掴んだ。
そこにある運命に、感謝すると共に、苦しみを覚える。
「どうしたの?
何があったの?」
咲は尋ねるが、浮竹はそれ以上詳しいことは何も語らないつもりのようだ。
それは以前の、誰よりも近くにいた自分達とは違う。
ただ口を閉ざしたというだけで、まるで突き放されたように感じて、咲は口を固く引き結んだ。
その様子に浮竹は慌てる。
「そんな顔をするな、そう言うつもりではないんだ。
もうお前のあんな顔をみるのもこりごりだからな」
わざとそう茶化してみたのに、咲は笑わなかった。
その代わり、少しの間をおいて迷いを捨てたように口を開いた。
「ねぇ浮竹、私も言ってもいい?
本当は言わないつもりだったんだけど」
「うん?
……ああ」
真剣な瞳に見上げられ、浮竹は頷くことしかできなかった。
「向こうに行って、思ったんだ。
私は確かにひとつの駒に過ぎないだろう。
出来ることなどたかが知れている。
でも、例えば護挺がなくなってしまったり、
例えばこの精霊挺が壊滅して見る影もなくなってしまったり、例えば……そう、もう私達の考えの及ばないような事が起きたとしても……
私は、貴方と京楽を守りたい。
貴方達の命も、心も、護りたい。
ううん、護る、護ってみせる。
どんなことが起きようと、どんな場所に行こうと、私は貴方達に生きていてほしい。
できることなら……一緒に」
静かな声であるのに、まるで叫ばれたようにも怒鳴られたようにも感じた。
そのくらい彼女の言葉は本気で、意志がこもっていた。
鋭い瞳はやはり、あの虚圏調査隊の二人の男を思い出させる、何かを護りきる強さを感じさせた。
浮竹の決意も並々ならぬものであるが、過酷な場で過ごして決意した咲の思いもまた、崩しがたいものだった。
今度口を引き結んだのは浮竹の方だった。
約束した場所に帰ってきたはずの誰よりも愛おしい彼女に告げるべき言葉を心の奥底に封じたのに、彼女はまるで逆だった。
浮竹は護挺に命を捧げると聞いた上で、咲は告げたのだ。
浮竹の決死の覚悟を、最期には阻止するつもりであるということを。
「もちろん私も護挺に忠誠を誓った身。
貴方達が護挺に身心を捧げると言うなら、」
咲は距離を詰めた。
浮竹は下がるのを堪える。
ここで下がったら負けだと思った。
自分より小さいはずの咲の威圧感は、以前とは比にならない。
自分達と同じ隊長羽織に袖を通しても何ら遜色のないほどだった。
咲の細い手が、右胸を握り締める浮竹の左手を引き剥がす。
「限界まで私もそれを応援する。
……限界までは、だ。
でも、護挺が、尸魂界が、全てでないことは私は知っている」
至近距離で見上げてくる瞳は、浮竹のことを守ると言っているはずなのに攻撃的でさえある。
「貴方と違って罪人だからね、私は。
……自分の正しいと思う道を進む。
護挺がその道を進むなら、尽くす。
だがもし護挺が貴方達を殺すと言うなら」
別れの日、浮竹がしたように、咲は彼の手を口元に運んだ。
吐息が冷たくなった指先を掠め、仄かに熱を帯びる。
「私は迷わない」
射ぬくような眼差しに、無意識に息を飲む。
昔、迷いが命取りだと言ったのは、浮竹だった。
そして彼女の剣に迷いがないことが強さだと言ったのもまた、浮竹だった。
咲の歯が、浮竹の薬指の指先を噛んだ。
ぴりりとした痛みを感じた瞬間右手をぐっと握り、動揺を堪える。
指先が微かに噛み切られたらしい。
咲の鋭い目の下、赤い唇にじわりと血の赤が滲み、またその赤が浮竹の白い指先を僅かに染める。
目の前のその様子に、浮竹は背中がぞくりとして、右手をまたきつく握る。
だが彼はそれ以上動かなかった。
あの日の咲のように、抱きつくことはしなかった。
50年の時は、彼に忍耐と自制を与えた。
だが彼は苦悶の表情を隠すことを忘れていた。
固く口を引き結んだまま、ただ正面の愛おしい女の顔を見つめる。
端正な彼の顔は、ひどく歪んでいた。