学院編Ⅰ
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「……山上様」
足元に血だまりを作る青い顔をした山上に、咲は不安げに声を掛ける。
「大丈夫、私を心配する余裕があるなら、虚に傷のひとつでもつけてやれ」
咲と山上を取り囲む虚はあと7体。
それでも半分ほどに減ったのだ。
院生2人の力と考えれば、それは恐ろしいほどの功績で、そしてこの現状は恐ろしいほど絶望的だ。
山上は横腹に深い傷を負った。
咲も左足の太股を抉られ、スピードが出せない。
「さて、どちらから喰らうか」
その虚達の奥でニチャと笑う、咲が捕えた虚。
咲はさっと手を翻し、横から襲いかかる虚から逃れ、詠唱を始める。
「散在する獣の骨 尖塔・紅晶・鋼鉄の車輪 動けば風……」
そこに山上が高く跳び上がり右腕で切り裂こうとするが、別の虚が口を開けて横から喰いかかるので、咲は咄嗟にその虚を蹴り飛ばす。
「止まれば空 槍打つ音色が虚城に満ちる!
破道の六十三、雷吼炮!」
始めの狙いとは変わったが、蹴り飛ばしてよろめいた虚がこちらを向いたところに、雷吼炮を放てば、おぞましい悲鳴をあげる。
それだけでは殺しきれないことは分かっていて、雷吼炮を放った左手をそのまま刀に添え、力いっぱい仮面に振り下ろせば、また1匹が消えていく。
背後から迫る姿が月光の影になって咲に降りかかり、それを合図に塞を詠唱破棄で唱えた。
後ろにいた虚は縛道がかけられるとは思いもしなかったのか、一瞬戸惑いを見せ、その瞬間、一陣の風が吹いた。
振り返ると虚の首から上だけが綺麗に消えていて、そこに満月が見えた。
なんだかおかしくて、咲は不謹慎にも笑ってしまった。
少し離れたところに降り立った山上は、咲が笑っている理由に心当たりがなく、少しきょとんとしてから、つられて歪に微笑んだ。
先ほどの虚の頭を吹き飛ばした風は山上だ。
彼は強靭な足を持ち、強い爪と化した両腕で獲物を刈り取る。
まるで刈り取った部分だけを消し去るかのように。
彼は好んで首から先を消した。
それは即死させるだけのある意味優しさかもしれないと、咲は感じていた。
山上の爪は虚達の体液にまみれようと美しい白色をしていて、体液が筋を作ってその表面を流れる様はどこか厳かで美しくさえ思えた。
2人はよろめくほどに疲弊している。
それに対して咲が連れてきた虚は無傷に等しい。
「これは何だ?
中に何が入っている?」
ぽつりと呟かれた言葉に、なんとか踏ん張って立っていた山上が目を見開く。
虚の視線の先には、先ほどからの戦いによって抉られた地面があり、そこにひとつの壺が顔をのぞかせていた。
「触るな!」
山上の今までにないような怒鳴り声に咲は目を見開き、虚はにやりと笑った。
「まだ虚を隠し持っていたのか?小癪な」
「違う!それは」
「この壺を壊せば分かることだ!!」
虚は腕振り上げ、壺を狙う。
「やめろ!!!」
「山上様!!」
肉が引き裂かれる音が辺りに響き、続いて液体が溢れこぼれる音が響いた。
それは、死を予感させる。
「一匹、終わり」
山上の金色の目が見開かれたまま固まっている。
ニチャと笑った虚の爪は山上の腹部を貫通し、彼の手に持った壺に刺さっていた。
咲は息をのんだ。
まるで月を背に山上の身体から3本の爪が生えているように見えるその異様な光景。
徐々に生命力を失いつつある諦めたような金色の瞳が、咲を捕え、優しく弧を描いた。
「山上様……貴方はまさか」
死を覚悟した瞳が、不意に遠い記憶を蘇らせ、咲の唇は震えた。
聞こえるのは自分の荒い息と、雪を踏みしめる足音、そして。
「待て小僧!」
後から聞こえる不気味な声。
それが虚であることを、まだ9つばかりの幼い山本末雪は身体で知っていた。
(待つもんか!!
待ったら一瞬で食べられる!)
かじかんだ指先はもう感覚はないけれど、ところどころ枯れ木や草で斬って血がにじんでいる。
そうでなくても着物の下は痣や切り傷が沢山あるのだけれど、寒さと恐怖のせいであまり痛みも感じない。
(嫌だ、私は、私は虚になんて!)
突然頭の上を黒い何かが通り過ぎ、ザンッと虚が切り捨てられる音がした。
(ああ、あれはきっと腕を切り落とした音だ)
末雪はその聞きなれた音から何が起こったのかを予測し、そしてその走ることへの集中力の途切れが足元を疎かにした。
「わぁっ!!」
深い雪に足を取られ、そのままつんのめってしまう。
冷たく固まった雪が頬を傷つけるが、そんなことにも気づかないほど身体は冷えていた。
家から追いかけてきた誰かだろうかと、ぼんやり考える。
そうでなければこんな更木に都合よく自分を助けてくれる人などいるはずがないから。
無意識に胸にしまった母の形見のかんざしに手を伸ばし、そこに壊れずにあることに安堵をおぼえる。
母が存命のころは緑のガラス玉がとてもきれいで、何度も母に見せてとねだったものだ。
それも今となっては唯一の形見。
起き上がるときに振り返った先で、末雪はさっきの音の主の姿を捕えた。
(女の子?)
予想外の姿に末雪は起き上がるのも忘れて雪の中に座り込んでいた。
そこでは黒い衣にざんばら髪の少女が、自分を護るように虚との間に割り込んでいた。
虚の片腕はなく、赤紫色の体液が流れている。
少女が飛び上がり、仮面に向けて刀を振り下ろすと、虚は脅えたように木々の間に消えて行った。
軽い音を立てて雪に少女の足と、下ろした刀が幾分か埋まる。
虚の気配が消えるまでの一瞬、彼女はその暗い木陰を睨みつけ、それから刀を雪から抜いた。
そしてそれ以上深追いをすることなく、末雪の存在など忘れたかのように立ち去ろうとするから、慌てて末雪は立ち上がり、そして。
「わっあ、ああ!!」
凍えた手足が絡まってまた転んでしまった。
女の子はそれにちらりと目を向け、怪訝そうに眉を寄せた。
「あ、あの、ありがとう!」
それでもなんとかお礼を言わなければと思って、その寝転んだ体勢から座り込んでそう言った。
しかし、女の子の方はといえば、いまいち理解に至らないようで不思議そうに首をかしげている。
末雪は何とか立ちあがって、今度は少し女の子に近づいて言った。
「虚から助けてくれて、ありがとう。」
自分をかばう背中はあれほど大きく見えたのに、近づいて見れな女の子は自分よりも頭ひとつ近く小さい。
「あり、が……と?」
首をかしげるようすから、もしかして言葉が分からないのだろうか、と疑問を抱く。
ここは更木。
人の領域ではないと、何度も聞かされてきた。
でもだからと言ってなんと言えば通じるのかもわからなくて。
「あ、り、が、と、う」
ただもう一度、ゆっくりとお礼を言った。
「あり……」
途中まで復唱し、女の子はぱっと笑顔を見せた。
意味が分かったのだろう。
ひとつ、笑顔のまま頷いたので、末雪はほっとした。
しかし、ほっとすると先ほどの恐怖を思い出し、一気に力が抜けてその場にへなへなと座り込んだ。
それを見て女の子はきょとんとするから、末雪はどこか恥ずかしくなって耳まで赤くなった。
まだ幼い彼にしてはそれは当然の反応で、むしろ今まで吐いたり失禁したりしない分、歳にしては恐怖と共に生きてきたことが分かるくらいだ。
恥ずかしがる必要などなく、女の子が特殊だったのだと彼が理解するのはずいぶんたってからのことだ。
「君、強いんだね。
私は弱くて……駄目だ」
震える声に、女の子は首をかしげる。
そして何を思ったのか、末雪を米俵のように担ぎあげた。
「えっあ、うわ!
降ろして!!」
半べその末雪の言葉に耳を貸すことなく、女の子は木々の間を駆ける。
どさっと降ろされて見回せば、大きな木の前に女の子が立っている。
女の子は指さす先は、大きな木の根元。
彼女はその根元の雪を退けるとまたその中を指さした。
(入れって?)
助けてくれた自分より小さい女の子。
この中に何があるのだろうか?
(まさか生き埋めに?
……いやまさか)
入らないのかというかのように首をかしげる姿に、末雪は恐る恐る足を踏み込んだ。
中は思ったよりも広く明るくて、驚く。
ぼんやりとした灯りは壁に生えたコケのようなものから発されているようだ。
「ここ、君の家?」
振り返って尋ねると、入口を元通りに隠して入ってきた女の子が首をかしげる。
「ここ、君、の?」
どうやら言葉が分からないらしい。
「ここ、きみ、の、いえ?」
ゆっくりもう一度繰り返せば、同じ言葉を彼女も何度か繰り返し、そしてまたひとつ頷いた。
まるで記憶でも手繰り寄せているかのようだ。
更木にやって来る前の、現世のことでも思い出しているのだろうか。
女の子は末雪の脇を通り抜け、奥へと進んでいく。
中はほんのりと温かい。
少し開けたところに出ると、どうやらそれが部屋のようだ。
ただの洞穴のような場所だが、暖を取るためか落ち葉が敷き詰められており、女の子は嬉しそうにその中に飛び込んだ。
それを見ているとなんだかとても楽しそうで、末雪も思わず飛び込んだ。
貴族屋敷で生活する末雪にとってはそれはとても新鮮で、楽しい。
女の子が落ち葉を末雪に振りかけたのをはじめとして、2人は落ち葉を掛け合ってじゃれはじめた。
そのじゃれあいを止めたのはもうひとつのぬくもりである。
犬のような鳴き声をして何かに抱きつく女の子に、頭からかぶった落ち葉を退ければ、大きな狼がいて慌てて後ずさる。
そして子犬がじゃれるように狼にじゃれつく女の子に目を丸くする。
狼の方はというと、女の子を穏やかに見つめ、その目はまるで子供を見るようだ。
(この子の……お母さん?)
いったいこの狼は何者なのか。
聞こうと女の子を見れば、もう狼のお腹に顔を埋めて眠っていて、取り残された末雪は不安に襲われてしまう。
しかしそんな末雪の頬に濡れた感触があり、驚いて目を向けると狼が自分の頬を舐めていた。
深い金色の瞳はとても穏やかで優しく、女の子と同じように眠ってもいいよと言ってくれているようで、末雪は自然と狼のお腹に顔をうずめた。
狼は手足で器用に落ち葉を2人に掛けてくれる。
家で眠る布団よりもずっと貧相な布団だけれど、末雪にはとても温かく、
一日にいろんなことがありすぎたせいか直に眠りについてしまった。
翌朝、目を覚ました女の子は隣に眠る男の子に笑顔を見せる。
しかし彼はまだ夢の中で、それに気づくことはない。
狼ももう目を覚ましているようで、女の子と視線を交わらせ、ひとつ頷いた。
狼がまずねぐらを出、その後ろを男の子を抱えた女の子がついて出てくる。
ずいぶん疲れているのか、多少の揺れでは目を覚まさないようだ。
女の子は男の子を狼の背中に押し上げ、その後ろにひらりと自分もまたがった。
狼はそれを確認すると朝日の煌めく木立の中を風のように駆けだした。
「……思い出した」
咲の呟きに金の瞳は力なく笑った。
諦めた色を見せるその瞳は、間違いない。
あの日、転びかけた少年が見せたものだ。
その瞳はすぐに生きる光を再び見せたけれど。
眠ったままの少年を、狼と幼い日の咲は更木のはずれに置いてきた。
しばらくすると大人たちが少年を連れて帰って行った。
何枚も毛布にくるんで連れて帰ったから、きっと大切にされている子なののであろうと、ぼんやりと思いながら。
それならなんでこんなところにいたんだろうと、小さな引っかかりも覚えたが、それを口にできるほど、咲は言葉は知らなかった。
「良かった」
山本末雪は、そうひとつ呟くと、力なく頭を垂れた。
それに伴い壺を支える腕の力が抜け、壺が砕けて中から一本のかんざしが顔を出し、地面に転がり落ちる。
質素な造りのかんざしで、先に丸い緑色のガラス玉が付いたそれは、咲が末雪とじゃれあった際にも目にとまったものと同じだった。