学院編Ⅰ
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「おい空太刀!!」
「やめなよ浮竹」
咲に殴りかからんばかりの勢いで迫る浮竹を、京楽が肩を押さえて無理やり止める。
だからといって、京楽も穏やかではない。
窓の外から差し込む光はすでに傾き、細く赤くなっていて、感情から荒い息は白い。
薄暗い剣道場に一瞬の静寂が訪れ、呼吸の音だけが響く。
脅えたように縮こまっている咲を見て、京楽はひとつ、ため息をついた。
「どうしたんだい、その傷」
茶色の瞳は有無を言わせないというかのように、咲をじっと見据える。
その彼の腕に取り押さえられる浮竹も、それは同じだ。
でも咲はその問いに答えることはできない。
彼らに知られればどうなるか、想像はできないけれど、山上と親しい彼らには絶対に言ってはいけない気がした。
「転んだときに運んでいた小刀で切ってしまったんです。
御心配には及びません」
咲の返事に浮竹の眉間の皺は深くなり、京楽は目を閉じて頭を振った。
「それで言い逃れできるとでも思っているのか、空太刀」
京楽の腕を振り払って咲に一歩で間を詰め、その腕を取る。
「もう一度聞く。
この傷はなんだ?」
捲りあげられた袖口。
白い腕に赤い筋が、手首辺りから肩のあたりまで3本ほど入っている。
確かに簡単に治療はされてはいるが、まだ生々しい傷跡が残っていた。
先日の虚によって作られた傷は、咲の浅い医療の知恵によって応急処置だけがなされていただけだ。
このままでは跡も残ってしまうだろうが、咲がそんなことを気にするはずがない。
だが、まさか鍛練中に無意識に傷をかばっているなんて考えもしなかったし、またそれを浮竹に気づかれるとは思わなかった。
「ですから」
「浮竹君、京楽君?」
救世主現る、と言いたいほどのタイミングで声がかかる。
剣道場の入口に姿を見せたのは。
「山上君」
浮竹は咄嗟に咲から手を離し、咲は袖で傷を隠した。
「どうかしたのかい?
なんだか揉めていたようだけれど」
素知らぬ顔をして剣道場に入ってくる。
浮竹はどこか気まずそうな顔をし、京楽はため息をついた。
「何でもないよ。
ちょっと彼女が怪我をしているもので、浮竹が心配してね」
流石に不可解な傷について部外者と思われる山上に話すことは気が引けたのだろう。
京楽の言葉に山上は咲に驚いたような素振りで目を向けた。
「大丈夫かい、空太刀?
もし怪我をしているなら早めに保健室に行った方がいい。
彼らの勧める通りだぞ。
すぐに行っておいで」
咲には白々しく聞こえる言葉だが、それがこの場を治めるために発されていることは理解できた。
「はい。
ご心配おかけして、申し訳ありません」
咲は京楽と浮竹の間を走り抜けた。
背中に刺さる2人の視線が痛い。
「実は次の実習の班分けを先生に頼まれて……」
山上の声が聞こえる。
それでも、剣道場から出て角を曲がるまで、追ってくる2人の視線が消えることはなかった。
保健室に行くことはなく、そのまま寮の自室に入る。
扉を閉め、壁にもたれたままズルズルと座り込んだ。
もとより何かを考えることが苦手な咲にとって、親しい2人に物事を隠し通すことはひどく難しい。
今日は山上がうまく逃してくれたけれど、浮竹と京楽に詰め寄らればれるのも時間の問題だろう。
2人は、虚を捕まえたなんて知ったら、なんと言うだろうか。
なんと言われようと、済んでしまったことなのだからどうしようもないのだ。
そう分かっていても浮かぶのは、怒りを抑えきれない鳶色の瞳と、疑うように向けられた茶色い瞳。
いつもはあれほど穏やかなだけに、その瞳を向けられるのは辛い。
膝を抱え、顔を膝頭に乗せる。
ようやく仲直りができたというのに、すぐにまた怒らせてしまった。
(どうして私はあんな顔ばかりさせてしまんだろう……)
そんなことを思っているうちに、咲は眠りに落ちていた。
カサッ
小さな音で目を覚ます。
辺りはもう真っ暗で、障子からさす月明かりが畳をぼんやりと照らしている。
咲は無意識にすぐに応戦できる体制をとっていた。
音に敏感なのは更木にいたころからの癖だ。
部屋の中に目を走らせ、音の正体らしきものを見つける。
眠りに落ちてしまう前にあった記憶はなく、音から考えてもこれだろう。
窓の下に落ちた一通の手紙。
どうやら鍵をかけ忘れていたらしい。
誰からだろうかと、恐る恐る近づいて手紙を拾い上げた。
宛名も差出人もない手紙。
何か術が施してある様子もない。
ゆっくり開けていくとそこには達筆な文字でたった一言が記されているだけだった。
それは京楽の筆跡とも、浮竹の筆跡とも異なる。
(誰だろう)
一瞬の思案の後、不意に思い当たった人物。
確証などどこにもないけれど、他にありえないと強く思ってしまう。
嫌な予感が胸をよぎる。
どうしようか一瞬迷うも、彼の声が不意によみがえってきた。
ー君は考えるのが苦手だろう?ー
ーなら行動するしかないなー
咲は手紙を胸にしまい、斬魄刀を腰にさして窓から飛び出した。
外は明るく、何かを密やかに行うには余りにも眩しい満月だった。
もしかしたら彼女は気づいてしまうかもしれない。
それでも一言、どうしても伝えたかったのだ。
口で言うのははばかられたから、手紙に一言。
彼女が眠っているのを確認して、こっそりと窓から差し込んできた。
久しぶりに訪れた自室はやはり薬品のにおいが立ち込めている。
自室というには、いささか語弊があるかもしれない。
ここは自分が作り変えられるために、用意された部屋。
格子のつけられた窓からは明るい満月が見え、冷たい床の上に縞模様を作っていた。
(どれほどあの満月に憧れたことか)
薄暗い、冷たい、痛い部屋。
ちょっとやそっとでは音も漏れず、壊すこともできない壁。
外からだけ鍵をかけることのできる扉。
音も立てずに月光の落ちる場所に歩み寄る。
縞模様に一歩足を出せば、そこにあるのは。
(気持ち悪い)
白い白い、虚の仮面と同じ材質で覆われ、鋭い爪をもつ、自分の足。
それは最早人の足ではない。
それでも、この計画を成功させるためには役に立つものなのだ。
(これで、全てが終わる)
「おい浮竹ぇ、もういいだろう?」
「先に寝てかまわないと言っただろう」
「言われてもはいそうですか、って寝れないよ。
そんな顔している同室を残して」
浮竹は顰めた眉をため息とともに解いて、手にしていたーー 持っていただけで全くページが進んでいない教科書を机に乗せた。
「お前は心配じゃないのか?
あんな怪我、もし級友たちに負わされているなら、一度説教でもしてやらねば気が済まん」
白い腕に残る生々しい傷。
1年生はまだ浅打を授業で使うこともないから、やはり文房具として携帯している小刀で切られたのだろうか。
それにしては傷が大きかったし、そんな傷をわざわざ咲に負わせるだろうか。
明らかに証拠が残るし、ただ事ではなくなる。
そんなことを、上流貴族出身の世をどう渡って行くかを必死に考える彼らがするだろうか。
「もしそうじゃないなら?」
京楽もやはりそれ以外の原因を考えているようだ。
「原因をどうやって聞きだすか」
浮竹はまたため息をついた。
京楽はその様子に眉をひそめる。
「あーやだやだ」
布団から出て、障子をあけ、窓を開ける。
冷たい風が室内に吹き込み、2人は首をすくめた。
京楽はえいっと首を伸ばして深呼吸をした。
「一度頭をすっきりさせよう。
ほら、浮竹も!」
京楽に促されて、浮竹も深呼吸をした。
冷たくしんとした空気が口に入り喉を通り肺に収まると、冷たい酸素のおかげで頭まで冴えてくる。
「もういいかな。
寒い寒い」
京楽はまた首をすくめて窓を閉めた。
彼にしては珍しいこんな行動も、きっと彼女への心配がさせているんだろうと思うと、浮竹も落ち着きが戻ってくる。
心配で不安なのは、自分だけではないと。
「さて、あの頑固者からどうやって聞きだすか」
「その悩み、なんか解決の糸口があったかも?」
京楽の言葉に、浮竹は驚いて顔を上げる。
障子を閉めようと手をかけたまま、外を見ている。
「ほら」
促されて窓辺により目を凝らすと、並木道を人影が動いていくのが見える。
あの後ろ姿は間違いない。
浮竹はすぐに掛けてあった上着を手に取り、一枚を京楽に投げる。
京楽は灯りを消し、草履をはきながら浮竹に一足投げる。
「よし、行くぞー」
「あの馬鹿野郎」
寮の入り口はもう閉められているので、窓を開けて近くの木を伝って下に降り、咲と思しき人影を追って走り出す。
明るい月が走る2人の影を地面に落としていた。