学院編Ⅰ
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暗く深い森。
時折不気味な動物の鳴き声や、カサカサと動く音、何かが食いちぎられる音が聞こえてくる。
(そう言えばこんなところだった)
高い木の上で目を閉じ、気配を探る。
ほんの数年前まで、咲はこの森で生きていた。
ただただ生きることに必死だった。
それは生への執着と呼んでもいいだろう。
人間であることなど忘れ、獣のように生きていた。
(ここに来ると、人も他の動物となんら変わらない獣だということを思い出す)
感覚が研ぎ澄まされていく。
決して鈍ったという実感があったわけではないが、こうして森の中に立つと自分がここから離れていた数年の間にずいぶん平和ボケしていたことが身にしみる。
(生きて朝を迎えられるだろうか)
腰にあるのは斬魄刀だ。
寮に入るときにしまいこんで以来久しぶりに手にした。
烈に拾われる前からその刀は自分の手元にあり、誰かからか奪ったのか、どこかで拾ったのか、記憶にはない。
自分の斬魂刀かと問われたこともあるが、そうであるともそうでないとも返事を返すことはできなかった。
浅打よりも刀身は短く細いが、咲はその刀の名前は知らない。
しかし更木にいたころはずっとこの刀で虚や人と戦っていた。
血も十分に吸っている。
烈に助けられたときには取り上げられるかと一抹の不安を抱いたが、彼女はそんなことはせず、逆に使う時まで大切に保管しておくようにと勧めた。
霊術院にまで持ってきはしたものの、まだ始解には至っていない。
それでも刀があるのとないのでは大違いだ。
山上の「折り入って頼みたいこと」は、確かにこの霊術院では咲にしかできそうにないことだった。
それを実行するにも機会と覚悟が必要で、既に頼まれてから季節が移り変わる程経った。
咲はその高い木から他の木の枝へと飛び移り、更木の奥地へと進んでいく。
更木のこれほど奥地まで進むことは霊術院の教師にだって難しいだろう。
ここはそれほど過酷で、冷酷で、飢えた場所なのだ。
この場所に、山上は何の用があったのか。
それは。
(来たっ!)
咲は身を翻し、爪をかわした。
月光に白く映し出される爪は、咲がここに生きていたころ、何よりも恐ろしく思っていたもの。
そして何度も殺されかけたもの。
久しぶりのひやりとした感覚と命が危険にさらされる感覚に、鳥肌が立つ。
爪が少しくらいでは届かないほどに距離を開け、咲は立ち止まった。
「まさか、またお前に会えるとは思っていなかった」
低いうなり声に続き舌舐めずりの音が咲の耳に届く。
それに眉をひそめ、咲は刀を握り直す。
「……私もだ」
カサ、と音を立てて虚が木陰から姿を現した。
「ほう、言葉を覚えたか」
それはどうしてそれほど速く動けるのかと疑問に思うほど大きな虚。
一見二足歩行のトカゲのように見えるそれは、禍々しい紫の皮膚に毒々しい紅い模様をてからせている。
その色に対して顔、尾、爪先を覆う白。
「お前も話すんだな」
ニチャ、っと音がして虚が口角を上げる。
「長く生きているからな」
大きな爪をゆらゆらときらめかせ、獰猛な瞳が仮面の奥で光る。
「できれば会いたくなかった」
咲がそう言えば、カチカチと硬いものが触れ合う音がする。
それが虚の歯から鳴っているもので、彼が笑っているのだということは、長年逃げてきた咲は知っている。
「俺は待っていたぞ?」
咲は一瞬の気配を感じ取り、木の幹を蹴ってできるだけ離れた木に飛び移る。
振り返らずとも、咲がさっきまで立っていた木がへし折れるのが音で分かった。
「なぜ戻ってきた。
せっかく死神の隊長に連れていかれたのに」
咲は宙で体を思いっきり反る。
その瞬間、その反った胸のほんの先を白い尾が音を立てて過ぎ去ったが、鎌鼬によって体に幾本もの切り傷ができた。
「忘れ物を取りに」
「忘れ物?」
虚は鼻で笑った。
「ここに戻らねばならないほど大切な物など持っていないだろう?」
虚も分かっているのだ。
咲のような霊圧の高い者には、この森にいることは死を意味することくらい。
自分の食欲をこれほどまでにそそる得物は、そう簡単には見つからない。
しかし、他の獲物を見つけるよりも、ずっとずっと咲を食べることは難しい。
「だが有難い」
だからこそ、虚達はこぞって咲を食べたがる。
まるでそれは中毒のようだ。
青い光が虚の口に集まる。
それが見えた咲は、直に虚の正面から身体を避ける。
青い光が口から放たれたその軌道にあった木は、黒く焼け焦げていた。
「お前、少し鈍くなったな」
ニチャ、と音がして、また虚が笑ったことが分かった。
「哀れなものだ。
人として生きることは、獣として生きることを捨てること。
それは生物であることを放棄することなのに」
虚の視界から咲が消える。
「今日は良く話すな」
次の瞬間、紫電が煌めく。
激しい激突音が鳴る。
「お前がここにいた頃は、お前は言葉をほとんど忘れていたからそう思うだけだろう」
虚の尾と咲の刀が、仮面の寸前でギリギリと音を立てる。
咲は力を込めて距離を取り、赤火砲を放つ。
「ほう、これは前よりも威力が増したようだ」
避けようとして虚ははっと足元を見る。
「そうだった……」
次の瞬間爆発音が鳴り響き、辺りは火の海となった。
煙の中、咲は刀を離すことなく辺りに気配を探る。
直に足元の木から高く飛び上がると背後から舌打ちが聞こえた。
「お前はこの手が常套だったな」
虚の体は何か所も焼けただれていて、その姿の異様さに拍車をかけていた。
その傷を一瞥して、虚は辺りを見回す。
咲は生茂った木の葉に身を隠す。
荒い呼吸を整え、最後の一手のタイミングを見計らう。
「懐かしい」
ニチャ、とまた虚が口角を上げる音がした。
「喰い殺してやる!!!」
「本当に虚をこれに封印して連れて帰るんですか?」
山上に手渡された小瓶。
使い方についても聞かされたが、そんなことができる技術があるなんて咲には俄かに信じがたい。
「信じられないという顔だね。
信じられないことに命をかける必要はないから、忘れてくれてもかまわない」
山上の瞳が咲の目を覗き込む。
(山上様の瞳はこんなに明るい色だったっけ……)
薄暗がりの中で浮かび上がる瞳は、いつもの茶色い瞳とは違い、まるで金色のように見えた。
あまりに瞳の色が明るいために、白目が黒く見えているようにさえ咲は感じた。
「もしこのことがどこかにばれてしまったら、君はすぐに正直に話した方がいい。
私も悪いことに使う気があるわけではないが、これはご法度だろうからね。
ばれてしまえば院生ごときが何を隠してもどうせ割れるのが落ちだし。
嘘はつかないことを約束してくれるかい?」
霊術院1年生の咲には死にに行けというような内容の頼み事にも関わらず、山上はなぜか咲の生還を信じているらしかった。
(私が更木にいたということを知っているとしても、どこにそんな自信があるのだろう?)
疑問が止まることはない。
しかし、ひとつだけどうしても聞いておきたいことがある。
「どうして虚が要るのですか?」
咲の問いに、山上はふっと目を細めて笑った。
「死んでもやり遂げたいことがあるんだ」
つまりその理由は言えないということ。
「私は、生きたいんだ」
さっきとは正反対の言葉に咲は首をかしげる。
それに山本は頬を緩めた。
「何にもとらわれず、ただ我武者羅に生きたい。
自分の命を、生きたい。
君のようにね」
気配に驚いて振り返る。
(いつの間に!)
ガバッと開けられた口は、そのまま咲1人くらい余裕で飲み込めてしまえそうだ。
紫色の3本の舌が、咲に伸びてくるのがスローモーションで見える。
傷口の血を塗った小瓶を目の前にさし出す。
山上の言っていることが真実か偽りか。
大きな賭けだ。
「血縛霊!」
咲の傷口から流れる血と共に、目の前にいる虚が瓶の口に吸いこまれていく。
その様子に虚と咲はどちらも目を見開いた。
「お前、山上に毒されたか!!!」
その一言を残して、虚は小瓶の中に咲の血で漬けられる形で封印された。
スポンとこの場に似合わぬ軽い音を立てて蓋がしまる。
咲は荒い呼吸のまま、地面にペタリと座り込んだ。
瓶に入っている鮮やかな赤は、動脈血なのだろう。
治療をしなければとぼんやりと思いながら、それでも咲はしばらく動くことができなかった。
(なぜ、虚が山上の名を知っているのだろう……)