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明日は晴れるらしいし(シャリエグ)

2025/09/12 20:18
 地球はひどく空気がベタついていた。これから雨なんでしょ、とニャアンは言う。コロニーの天よりも高層に雲が浮いているのが冗談みたいだと思った。
「少尉は地球、初めてなんですっけ」
「そうだね」
「これ、ペトリコールっていうんですって」
「これ?」
「この……雨が降る前の、匂い? マチュが言ってた」
「へえ、そうなのか」
「マチュって地球に詳しいの」
 ニャアンが少し自慢げに言う。すう、と空気を吸い込んでみると、確かに独特の匂いがある。不思議だ。
 かつてはすべての人類がこの地表にへばりついていたというのだから、実際に体感したらもっと遺伝子に刻まれた郷愁のようなものを感じるのかと思っていたが、そんなこともない。新鮮な面白みみたいなものは少しある。やっぱり己の郷愁を感じるべき故郷は木っ端微塵に消滅したということだろう。知っていたことを改めて突きつけられた気分になって、意識して思考を切り替える。上官と同僚とジークアクスパイロットの赤髪の彼女は何か楽しそうに話していて、あっちにいかなくていいのか、とニャアンに問いかけると、少し困ったような顔をした……ように見える。
「少尉がそう言うなら」
 こちらを気にする素振りを見せつつも、すらと伸びた手足を軽やかに動かしてニャアンは駆けていく。アマテがニャアンに大きく手を振るのが見える。一G環境だと自分より彼女の方が運動に長じるのだろうな、といつか見た身のこなしを思い出す。
 ニャアンと交代するように、シャリア・ブル 中佐がこちらへやってくる。中佐ではもうないのだけど、なんと呼べばいいのか判断がつかないので、未だにそう呼んでいる。物言いがつけられたらまた考えるつもりだ。今日は例のふざけた仮面は外している。あの仮面の有用性についてはいくら説明されても納得ができない。それにこの人は気がついているのだろうけど、特になにも言わない。目があったので、問いかける。
「なにかありましたか?」
「きみ一人だけこちらにいるのもさみしいように見えまして」
 げえ。上官に気を遣わせてしまった。
「お気遣いなく……」
「まあ女性同士で積もる話もあるかもしれませんし」
「はあ……」
 目をやれば、確かに三人で盛り上がっているようにも見える。コモリ少尉は少し圧されている。意外だ。彼女はどちらかというと常に自分のペースで喋る人な気がするけど。やっぱりアマテたちの若さと勢いには敵わないんだろうか。
「君たちもまだまだ若いですよ」
 出た。これはこの人の癖になってしまってるから仕方ないんだろうけど、僕は口に出してもいないのに知ったようなことを言われるのはあまり好きではない。そう大層なことを考えているでもないから、別にいいけど。
「中佐も世間的に見ればまだ若い方なんじゃないですか」
 随分年寄り目線みたいな物言いをしますけど。
 気まずそうにも見える顔をした中佐は、そうでしょうかね、と曖昧に応える。あの仮面があるとないとじゃ印象が違うな、と当たり前のことを思う。人生経験的なもので見るならこの人は大抵の人より重くて深い経験値があるのだろう。あと何より髭の印象が強いから、実際の年齢はわかりにくい。じろじろ眺めて失礼だったな、と思って、周囲に目をやる。
「地球ってこんな感じなんですね。もっと何か……感じるものがあるかと」
「我々の原点ではあるのでしょうけどね。海は面白かったですよ。見渡す一面ずっと水面が続いていて」
 水平線、と呼ぶそうです。そう中佐は言う。眼差しは遠くを望んでいる。水面のその線は実際とても緩く湾曲しているはずだけど、スケールが大きいからずっと平たく続いているように見えるんだろう。はるか昔、人類が宇宙に進出するずっと前には、地球は平面だと思われていた時期があったらしい。それで、太陽が地球の周りを回っているって。
 どういう感覚なんだろう。自分たちが、世界の中心にいると信じている気分は。僕の幼少期に持っていた万能感みたいなものだろうか。いや一緒にしたら失礼かな。あの時確かにあったはずの万能感は幾つもの段階ですっかり挫かれて、今の僕は世界の周縁を必死で駆けずり回っている。アマテみたいなあり方は、すごいなとは思うけど、ああなりたいとは思わない。世界から弾かれないように僕は走っている。拠り所がなくなるのが多分僕はすごく怖いのだ。どこへでも行けるって、帰れる場所があるからできる発言じゃないか? たぶんアマテにとっては違うのだろうけど。ニャアンはどうだろう。
 流石にそれを聞くほど無神経にはなれないので、ゆっくり僕の中で考えるだけだ。
 地球の重力はコロニーの一Gとさして違うようには感じられなくて、なんとも心許ないな、なんて思う。
 一人でものを考えるのに中佐を付き合わせるのが申し訳なくなって、僕は少し健を伸ばす。
「海、この先にあるんですよね。ちょっと走って見に行ってきます」
 中佐は何か言いかけていた気がするけど、もともと自由時間だって話だったから別にいいかと思って走り出す。
 僕の蹴り出しを押し返す地面は、やっぱりコロニーとの違いはよくわからなくて、スペースノイドとアースノイドで戦争をしていたことの馬鹿らしさを少し補強する。決められた自由時間の間にここに戻ってくればいい。そう決まっていることは、僕を身軽にさせる。境界のある自由が僕の輪郭をつくる。
 つくづくと、中佐の好むニュータイプとは合わないなあと思う。なのにひどく手厚く面倒を見てくれる。
 いつかお返しができたらいいなと思う。身一つで走っていると、自分の矮小さを感じて、少し気分がいい。

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