青はいつもうつくし
夏っていうのは年々苛烈さを増していく。
+
蝉の声が途切れて、少し間をおいてからまた鳴き出す。夜だってのに汗が滴る。ということはつまり、大・爆・殺・神ダイナマイトにとってはこれ以上ないコンディションだということだ。繊維も汗と湿気で感覚が重くてひとつ舌打ちした。今日は偶然現場が重なった。背後から聞こえる爆音に少し口角が上がる。あいつ脱水にならないだろうな、と、心配をしてみる。確保ォ! と声が聞こえたので力を抜く。
「ベストジーニスト」
「どうした」
「なんだか最近、ダイナマイトに似てきましたね?」
顔をあげる。驚いた。
「好きあってると似てくるってやつかな」
「付き合っているんですか?」
聞き返してくる。好きあってはいるが。付き合う、に関しては。なんと言ったものかと思いつい眉根を寄せる。サイドキックがすこし目を見開いたのを見て、努めて普段の顔に戻す。
「いや、なんだか」
これを言うのは非常に不服なんだが、
「保留にされてる」
そういうわけだ。お互い好きあっているけれど、交際しているわけではない。なんでですか、と聞かれた。なんでだろうな。理由はまあ、説明されてはいるのだが。
−
今年は梅雨らしい梅雨もなかった。フロッピーは少し悲しそうな顔をしていたが事実なので仕方がない。バカ暑い。天気予報アプリの太陽マークは今日も赤い。つまり大・爆・殺・神ダイナマイトは絶好調ということで、絶好調ということはある程度セーブする必要があるということである。調子に乗りすぎると脱水および爆発の威力の反動で死ぬ。それは勝ちって言えねえよな、というわけで今日もガチガチに制御しきっている。できるようになったので。
コントローラブルなものに囲まれようとすることをやめたら自分が制御しやすくなった。拍子抜けする気分だ。地球は止まることなく回っていて、かつての自分は、その慣性に抗っていたようなものだったのだろう。今も地球がどう回ろうと自分の目指すものが変わるわけじゃないと思って目標に向かって進んではいる。目標は遠い。あの時より難しく感じられる。ただ、山頂が見えなくなるってことは自分が確かにその山の中腹にいるということである。自分のコンパスに自信があるなら、少し風を受けたり雨に降られたりするのだって醍醐味だ。夏だ。登るなら高山がいいな、と少し考える。クソ暑いと流石に気が散る。びょいびょい飛び回る敵をふんじばって地面に降り立てば、ズサ、と音が立った。
「やあ、偶然だな。ところでその着地はあまりエレガントじゃない」
「うるせぇなあ」
ベストジーニストが声をかけてきたのをまじまじ眺める。整った造作に渋みが乗っていい顔だなと思う。好みだ。こいつ俺のこと好きらしい。ちょっといい気分になる。顔を見るといい気分になれるんだから、かなり得である。俺もこいつのことが好きだ。お互いそれを知っている。
ただ付き合ってはいない。
爆豪からすれば、好かれることは無条件で嬉しいことではない。勝手に自分に理想像を見て勝手に失望していくやつなんて山ほどいたし、わざわざそいつらに心の一部を割いてやろうとは思わない。かえって、自分の好きな人はしばしば自分のことがあまり好きではない。趣味が悪いのかもしれない。いや、良すぎるんだろうか。それに致命的なダメージを受けずに済むのは、まあ親から無尽蔵に与えられてきた愛情のおかげだろうなと思う。思うようになった。それは自分が何かを言ったり為したりする時にどうやっても恵まれた立場からの物言いになるというわけでもあって、届かない相手には少しも届かないということである。自分も尊敬できる相手の話しか聞こうと思わなかったから、気持ちはわかる。爆豪の取れる手段としてはもうぶちのめすしかない。そうじゃない手を取れるやつがヒーローには多いから、多くなったから、なんとか大・爆・殺・神ダイナマイトはこのやり方でもやっていける。まあ思う。俺みたいなヒーローだけになったら世は末だな。
なんとか世界は続けていきたいと多くの人が思っているから、大・爆・殺・神ダイナマイトみたいなヒーローは少数派として 、抜群の武力として重宝されている。けっこう人気もある。もうちょっと活動の場を広げたいところだ。委員長ズや麗日みたいなやり方は俺の領分じゃないから、また、別のかたちで。
というわけでバカみたいに忙しく、交際に時間を割ける気がしなかったので、お付き合いとかいうやつを保留にした。あの時の袴田の顔は見物だった。申し訳ないという気持ちも、なくもない、ような気がする。ただ人のために時間を作ることでそれがタスクみたいになることが嫌だったのだ。こうやって、偶然『幸運に』会える方が、どうにも得な気がしてならない。
それを聞いた袴田は心底納得していない顔をしながら頷いた。嫌なら嫌だって言いやいいのに。大人って損だなと思う。爆豪も大人だけれど、袴田は爆豪の前ではかなり意識して「大人ぶろう」としている。それが剥がれる瞬間が爆豪はいっとう好きなのだけれど、そうやって伝えたことはない。戦略的に使われたらなんだかムカつくからだ。そういうわけで、交際関係にはない二人は、適当に愛を伝えたり触れ合ったりだとかしながら交流している。どういう関係なのかと問われれば、答えは「さあ?」だ。好意的な他人である。キスぐらいはしても、別にセックスしてるわけでもないし。そういう条件が揃ったこともないし。(いいところまでは行ったが、結局緊急の呼び出しが入ったので流れた。ちゃんと予定を合わせた二人の逢瀬はいつもそんな感じだ)そうなったらなんと名付けたものだ爆豪は知らない。袴田に好かれていることは嬉しい。これって少なからず優越感だとかそういうものもあるよなと思う。まあそれはそれでいいかと思っている。たぶん一番大きいのは尊敬に近い好意であろうと思うから。
「それってさあ、まあお前が良くて相手がいいならいいんだけど」
居酒屋にて。見るからによくなくないかという顔をしながら瀬呂は言う。上鳴がバカみたいに頷く。
「じゃあいいんじゃねえか」
「なんかこう、もっと、ねぇの?」
箸を置いてくるくると手を回すのをなんとなしに見つめる。
「なんかってなんだよ」
「こうさー、名前つけたくなんねえの」
関係性に、と言う。上鳴がそれとなく目を逸らしたのをつついてやろうかと思って、やっぱりやめにする。
「なんねえ。対外的なアピールってことだろ。いらなくね」
「確かにお前は自分の納得が一番の人間だったぁね」
瀬呂は頷き、続けて言う。
「でも切島にダチだって言われるの別に悪い気はしないんだろ? ハカマダサンはなしてだめだったの」
「別にだめってわけじゃねえ」
「でもだめってしたように聞こえるぜー」
少し考える。だめだってほど決意的な拒絶だったわけじゃない。相手が食い下がるなら別にそれを呑んだかもしれないし。
「向こうの押しも弱かったわ」
「相手待ち?」
あの天下の大・爆・殺・神ダイナマイトが? と続けられる。
「まだ天下は取ってねェだろが……」
「そこに引っかかんなよ! いや爆豪らしくていいけどさ!」
ショートの大躍進を脳裏に浮かべながら眉間に皺を寄せると、どうどうと宥められる。『まだ』ってところが特にいいよな。やっぱダイナマは天下獲る気じゃねーとな。お前らテキトーなことばっか言ってんじゃねぇぞ!
がやがやとした居酒屋の空気に爆豪の声も溶けていく。実際食い下がられたらどうだっただろうか。なんでだか想像はうまくいかなかった。言うか? 袴田維が。いやそんなの納得できない好きっていうなら私と付き合え、とか。言わねえよな? いや言うのか?
グラスをあおってトンと机に置く。気がついてしまった。
爆豪は袴田のイメージの解像度があまり高くない。
向かいの席の二人が話しているのを聞くこともなしに聞きながら考える。幼馴染を想像すると高きゃいいってものでもない気がする。でもこう、わからないっていうのは何やら悔しい。さて、と思う。
わからないなら聞けばよい。爆豪の数ある成長の一つである。
+
好きな男から連絡が来たので袴田は浮かれた。この年になって自分の知らない一面を知ってばかりである。電話できるか、と聞かれたので日時をいくつか挙げてメッセージを送信する。一番近いタイミングを指定された。動揺して窓を開けた。熱風と呼んでいいだろう温度を持った風が吹き込んできたので閉めた。
少しの緊張を持ちながら着信を待つ。何度もスマートフォンの画面を眺めてしまう。家電を待つ中学生みたいだなと自嘲した。実際問題爆豪との関係はキスまでしかない中学生みたいなものである。交際を断られているからそれ未満か。事実的に交際関係と特に変わらないことはわかっているが、名前がついているかいないかはそこそこ大きな差である。ワンコール。かかってきた。流石に早いかと思って三コール目まで待って、電話に出る。
「俺から電話架かってくることわかってんだろ。とっとと出ろや」
どうやら不正解だったようだな、と思いつつすまないと謝ってみる。爆豪は難しい。ふん、と息をつくのが聞こえてきた。
「あんたさあ」
「ああ」
「俺のこと好きだろ?」
これをほかの人間にも言っていたとしたらおそらく自分は嫉妬で狂うだろうなと思いながら肯定を返す。好きだ。爆豪が。
「それで、あー、気になったんだが」
「なんだ」
「なんで付き合わないって言ったこと受け入れたんだよ」
弄ぶなよ、をまともな大人の言葉にしようと思ってしばらく黙った。
「おい?」
「お前が……そうしてくれと言ったから、」
「へえ?」
爆豪の声が少し剣呑さを持った。どうしてだ、と叫びたくなる。理不尽を感じる。
「あんた俺の我儘なんでも聞くのか?」
「そういうニュアンスではなかっただろう」
もしそうだったとしても、なんでおまえが怒るんだ、と言い返そうとして、治める。爆豪の怒りに理由をつけるのはナンセンスだ。
「俺が付き合ってもいいぜって言ったらどうする」
「どういうつもりだ?」
「興味」
思わずため息が溢れた。ああ、堪えようと思っていたのに。
「そのつもりもないのにそういうことをいうのは、関心しない」
声音は少し冷たくなった。自分はいつまで経っても未熟だと思う。
「なんだよ」
爆豪が少し不貞腐れたように言う。なんだってそんなことに興味を持ったんだか、問い詰めてやりたい。言葉を練っていると、爆豪がぽとりとつぶやくのが聞こえた。
「もっと喜ぶかと思ったのに」
ぶち。ツー、ツー、ツー……。
頭を掻きむしって叫んでやりたい気分だ。勝手に切りやがった。思わず口の端から溢れた。
「……クソガキ……」
自分がなんだってこんな癖のある子供っぽい年下が好きなんだか、袴田の中ではまだはっきりとした答えは出していない。それなのに気がついたら好きだったのだから、恋とはなんともままならないものである。
-
苛々している。いつものことじゃん、と同期達なら笑うだろう。最近はそうでもない。そうでもなかったのだ。少し前まで、自分がずいぶん浮かれていたことに気がついて舌打ちする。何を威圧してるんですかあと間延びした声で事務員が声をかけてきたので、なんでもねえと答える。
「じゃー舌打ちやめてくださいよお」
「悪かった」
「はあい」
肝が据わっているところが気に入って雇ったが、このぶんだといつかストレス手当みたいなものをこの事務員から要求されるだろうと思うし、その時自分はきっと言われるがままに払うしかなくなっているのだろうと思う。第一印象よりよほど抜け目ない。そういうところだって気に入っているが。ごうごうと音がする。マックスにエアコンを効かせた室内はいっそ寒いくらいだ。こいつもカーディガンを羽織っているし、設定温度はもう少し上げてもいいだろう。電気代もバカにならないし。
「それで、なんでイライラしてるんですか?」
「なんでもねえって言ったろ」
「プライベート事だとみました」
「話聞かねぇな……」
事務員のことを爆豪なりに気に入っているのと同時に、マジでうるせえ奴だなと思っているのも事実である。
「ダイナマイトの言う事全部ハイハイ聞いてたら雁字搦めで何もできなくなっちゃいますね」
「……」
「無言やめてくださいよお。言い籠めちゃったみたいじゃないですか」
「あ? 誰が? 誰を??」
「そうそうその調子」
なんだって唯一のスタッフとこんな喧嘩腰で話さなくてはならないのか。突き詰めると爆豪が他人に躊躇なく物を言うようでいて案外ラインは越えないようなタイプを気に入るからなのだが。
そこまで考えたところでふと思い当たる。袴田維。
あいつ俺に対してちょっと手加減してるな。
袴田が本気で激昂したところは数えるくらいしか見たことがない。ピッチリきっちりしている割に、基本的に余裕を持っていようとしている、気がする。余裕が剥がれたところは珍しい。爆豪とは違って。
爆豪の感情の発露の多くは怒りとしてである。怒喜怒怒怒楽怒くらいのバランスだ。つまりはこのとき、好きな相手に、死ぬほどイラついてきた、という話である。
+
それをやったら本当に幼稚だろうがと袴田は思うのだが、爆豪に無視されるようになった。業務上問題は起きないように最低限の意思疎通はしているから、無視というのは正しくないかもしれない。ものすごくすげなくされるようになった。
喧嘩してるんですかと幾度となく聞かれるが、うまく答えられない。向こうが喧嘩を売ってきていることはわかるが、袴田は別にその喧嘩を買いたくないのだ。そっけない態度に素直に心を痛めている。思春期の子供を持つ親のようだと思う。
爆豪は思春期扱いするにはとっくに大人だが、年齢差は親子ほどもあるから余計居心地も良くない。話をしようとメッセージを送ってみても、『その日は予定がある』と返ってくる。予定が実際にあるかはわからないが、仕事はいつでもある職業なので、そう言われると食い下がれない。喧嘩別れ、の文字が脳裏に浮かぶ。
死んでも嫌だ。そもそも付き合っていない場合別れという言葉は正しいのだろうか。はあとため息をつく。袴田が爆豪について知らないことが少なくないように、たぶん爆豪には気づかれていないというか、侮られている部分がいくつかある。意識的に隠していたところもある。そのうちの一つを頭の中で玩ぶ。
袴田維は搦め手が得意だ。
こんなに大人げのないことはしたくないんだが。
−
ここ最近、爆豪は持ちうる手段を全て使って袴田のことを避けている。もともと基本的に、時々、偶然出会う程度だったから、そこまで難しくはなかった。周囲からは馬鹿だろやめろよガキじゃねえんだからさと非難轟々である。事務員からはストレートに「無駄なことにエネルギーを使ってパフォーマンス悪くなってませんか」と言われた。でもそれだったら、恋心にかかずらっているほうがよほど無駄なエネルギーになりうるのではないかと思った。思っただけで口にはしなかった。数倍の言葉数の反論が返ってくることがわかりきっていたからだ。実際パフォーマンスは多少落ちていることは認めざるを得ない。
でも爆豪は苛立ちをエネルギーとして生きている人間でもあるので、自分の感情を押し込めたりはしなかった。自分でも多少愚かしいなとは思う。他の奴に聞いたら多少じゃないと言われることが目に見えているのでこれも口にはしない。我の強さでここまで通してきたのだ。今さら趣旨変えするつもりもない。
そうやって数週間が過ぎた。袴田とはしばらく会っていない。特に交流を図ってもいない。爆豪はずっといらいらとしている。
ピークはいつなんだか、未だに夏は狂ったような猛暑である。
+
夕立ちという言葉がゲリラ豪雨と名を変えて久しい。暑さだけでなく、すべての気象現象が烈しくなっているなと思う。吹いてくる熱風は確かに湿度の重みがあって、暗く垂れた空もなるほどこれから大雨が降るだろうと思わせる。台風というわけではないらしい。
暦の上では残暑というべきなのだろうが、このまま暑さが秋を侵食していくだろうと気象予報士が言っていた。気分が少し下がる。汗をよくかく季節にデニムを取り入れるのはなかなか難しい。だから気持ちの良い風の吹く秋にはデニムがよく似合うというのに。
往来は静かだ。温度も湿度も活動するのに向いていないからさもありなんと思う。袴田は今日はオフである。爆豪も今日はオフらしい。知っている。『偶然』に小耳に挟んだ。
特に誰も通らない道をそれでも優雅に歩く。歩く。遠くで雷の音がする。
そうやって、歩いていたら、爆豪と出会った。偶然。
「……チッ」
「やあ、久しぶりだな?」
「じゃあな」
すぐに踵を返そうとする爆豪の腕を掴む。爆豪は驚いた顔をした。
「偶然じゃないか」
「俺ァ帰りてえんだけど?」
「せっかくの機会だ。一緒に歩こうか」
腕は掴んだままだ。離してたまるか、という思いに気が付かれているのだか、爆豪は特に振りほどこうとはしていない。
「歩くったってどこにだよ」
「どこだっていい。このあたりは久々に来たんだが少し建物の雰囲気が変わったな」
爆豪は黙って腕を引かれている。導火線がじりじりと短くなっているのが目に見えるようだ。無理矢理引きずっていくのでなくて、相手の足が動き出すのを見て、そのまま歩きはじめる。
閑静な住宅街だ。雨予報だから洗濯物のひとつも見えない。誰とも出会わない。こういうところには大抵……ほら、あった。
ベンチしかないような小さな公園だ。遊具も砂場もなく、遊ぶ子供もいないその空間は淋しげですらある。
「あんたこんなとこ目指してきたの」
「いや、おまえとゆっくり話ができそうならどこでもよかった」
「帰らせろよ」
「まさか!」
大仰に腕を広げてみせる。
「久々に会えたっていうのに。こんな幸運、逃すはずがないだろ」
爆豪は一歩引いた。少し芝居がかったような仕草で、袴田はゆったりとベンチに腰掛ける。隣を指してみたが、爆豪は座ろうとしない。では仕方がない。
こいつと話すときは真正面を避けるのが鉄則なんだがな、と少し笑うと、爆豪は苛ついた様子で片眉をあげる。眉間のシワがひどい。
すこし見上げると、こちらを睨む爆豪と目が合う。背後では、暗い色をした雲が猛スピードで流れている。
−
自分を大変雑に小さな街区公園に連れてきた男は、ゆっくりと首を傾げた。無駄に優雅だ。ひどく苛つく。仁王立ちする爆豪の前で、袴田はベンチに腰かけて口を開く。
「おまえ私のことが好きなんだろう? ここ数週間について、なにか言いたいことがあれば聞くが」
「ねえよ」
「そうか」
袴田は目を伏せて睫毛を震わせる。この場を写真として切り取ってやれば袴田の表情に心を痛める者も少なくないだろう。茶番だ。ここから駆け出して家に向かってやろうかと思ったが、逃げられるビジョンがうまく浮かばなかったのでもう少し考えることにする。
袴田は話す。
+
爆豪勝己の苛立ちの下にあるものをみるために、怒らせるのはまったくよろしくない手である。この男は繊細にできている。何に向けて苛立っているのか、じっくり眺めて付き合ってやる必要がある。ということを重々承知の上で、激昂に繋がるような仕草をひとつひとつ選ぶ。恋とか愛とかの文脈中において、正解以外が意味を持つこともあるだろうし。そもそも今正解を引き当ててやりたいわけじゃない。気がつく。袴田もなかなか怒っている。自分ったら、ああ、まったく、なんて大人気のないことだ。
「さて、このあいだの電話の件だが、私はあれにはいくつか言いたいことがある」
爆豪が黙り込んでいるのをこれ幸いと話を続ける。
「まずひとつめ。電話を一方的に急に切るな。緊急事態だか判断がつかなくなる。散々教えたはずだが」
「『業務時の』連絡についてしか俺は教わってねえよ。プライベートには口を出さないのが事務所の方針じゃなかったか」
「ふたつめ。」
思わず言い返さずにはいられなかったというような調子で返ってきた言葉を無視して続きを話し出せば、爆豪の怒気が膨れ上がるのを感じる。話を続ける。ぎらぎらと光る眼を正面から見つめたまま。
「ひとの感情を知っていて、それに触れようとするなら、覚悟をするべきだ。たとえ自分が当事者であったとしても」
「俺には覚悟が足りなかったって?」
「みっつめ。」
そろそろ胸ぐらを掴まれでもするかなと思って爆豪の手に目をやれば、拳が握りしめられている。手のひらが最大の武器になる男だ。そうそう出しては来ないだろうが、構えておいて損はないだろう。もう一度、顔に視線を戻す。
「これは電話のあとの話だが」
どこか遠くで雷が鳴った。そろそろ雨が降る。
「コミュニケーションの放棄は敵前逃亡に等しい」
−
意図してこちらが苛立つ言葉を選んでいるのはわかっていたが、流すわけにはいかない。爆豪は声を荒げた。
「誰が敵前逃亡したって?」
「おまえだよ。決まっているだろう」
「『たまたま』あんたと会わなかったくらいでそんな物言いをされる謂れはない」
「どこがたまたまだ。意図して避けられていたことくらいわかる」
「ハッ! 自意識過剰じゃねぇ?」
「まさか」
袴田維はひどく優雅に笑う。
「おまえがどんな奴かは知っているよ。好きだからな」
+
ポタ、と雨粒が袴田の頬に一滴落ちた。雨粒は数瞬の間に頻度を増して、辺りは生ぬるい雨降りになる。
雨は爆豪の天敵である。明確にひとつ舌打ちをして、拳を開いて、また握った。袴田を見据える鋭さは変わらない。そういうところだって、好きだ。今はいい加減にしてほしいと思っているが。
「あんた俺の何を知ってんの?」
「性格や好むもの、今までの軌跡、展望」
「じゃあ俺がなんでそうしたのかくらいわかるんじゃねえの」
「納得できるかはまた別だろう。し、全てお前の望むようにしてやろうと思っているわけでもない」
「その割にいつもずいぶん聞き分けがいいよな」
言葉選びに苛つくがそうなれば相手の思う壺である。この手の喧嘩には爆豪のほうが袴田よりよっぽど慣れているだろうなと思う。
「お前が好き放題すぎるんじゃないか?」
「違ぇよ。あんたは俺の言うことに仕方ねえって思ってるだろ」
「何が言いたい」
「その澄ました面が気に食わねえんだよ」
痴話喧嘩にしては選ぶ語彙がチンピラすぎるな、と袴田は思った。雨は勢いを増して強く地面に叩きつけられていく。
「あんた俺のことうっすらナメてんだろ。何言われてもお行儀よく受け入れて『やろう』って顔してんのが見えてんだよ」
なるほど。袴田なりに爆豪の意見を尊重していたつもりだが、あまりに自分の意見が通るとそれはそれで気に食わないらしい。面倒くさい性格をしている。そういえばそうだったな、と思う。言えるだけ言わせてやろうと思って、次の言葉を待つ。
「おかげで俺はあんたが何考えてんのか知らねえ。ここで言い合って何がしてぇんだよ。何か言ってみろ」
爆豪の声はざらついて荒い。まさか、と思う。爆豪は袴田の言葉が足りないと言っているのか。お前のほうがよっぽどだ。なんて我儘な男なんだ!
「お前、私がどれだけ熱烈にお前のことが好きか知らないのか」
「そういう話じゃねえだろ!」
「そういう話だよ。最初からずっとそういう話だ」
−
袴田はふざけたことをのたまったあと頭を抱えた。髪に雨粒が伝って、次々滴になって落ちていく。ヘアケアだって欠かさない男がその金糸をぐしゃりと乱す。インナーまでぬるい水が染みてひどく居心地が悪い。
「あのな、お前には理解できないかもしれないが」
「あ?」
反射的に威嚇すると、一旦落ち着いて聞け、と言われる。声が笑っている。蹴ってやろうかと思った。
「お前のことを、束縛できないほどかわいいとも思うんだよ。お前が生きやすいやり方があるなら、それでいい。この間は否定したが、なんだって聞いてやりたい瞬間だってある。ただ、多分な」
袴田がのそりと顔をあげると、また幾筋も水滴が落ちていった。
「浮気したら殺すぞ。他の人間好きになってみろ。私は……何をするかわからない。きっと『ベストジーニスト』を逸脱することはないんだろうが」
「あんたが?」
「私が」
袴田らしくない言葉選びだった。すこし驚く。
「お前に暴かれた恋心だったから全て諒解されているものかと思っていたな。私の落ち度だ」
「だからその自分に責任があるみたいな態度も気に食わねえんだよ。あんたの中で俺はずっとガキのまんまか?」
「いや、……いや。違うさ。一人の自立した人間として尊敬もしている」
「じゃあなんなんだよ」
「あのな、私は」
袴田が言う。
「それなりに重い男なんだ」
そのくらいわかっていたつもりなので、だからなんだと思ってすこし黙った。
「お前に関するものを抱え込みたくなってしまうんだろうな」
「俺のものだろ」
「その通りだ。反省するから、どうかまた好きだって言わせてくれ」
すこし気圧された。少しだ。すこし。自分の惚れた男はこんな奴だったらしい。
少し躊躇ったように、袴田がまた何か言った。声がいきなり小さくなったから、一瞬何がなんだかわからなかった。
「それともお前はもう、私のことは好きではないかな」
雨で声が聞こえにくいからやけっぱちみたいに叫ぶ。
「好きに決まってるだろ!」
何のつもりでここまで来たんだよ、と袴田の顔をみると、してやったりとでもいいたげに微笑んでいる。ムカつく! ムカつくのに、どうにもこうにも笑いがこみ上げてきて、なんの気遣いもせずに相手の腕を引く。バランスを崩したのをみてふんと笑う。教えてあったはずだしまあこいつ知ってんだろうが、
「俺の部屋が近ェぞ」
走り出したのはどちらが先だったんだか、生来の負けず嫌いを発揮して先行してやろうとするが、なかなか向こうも食らいついてくる。抜かされた。袴田が振り向く。
目が合う。笑う。
雨の中をけたけた笑いながら走る。袴田がアパートまでのすべての曲がり角を正確に曲がるのを見て、文句を言ってやろうと思ってバーカと叫ぶ。なんだと返事が返ってきて余計笑う。服は水を含んでバカみたいに重い。なんだってこいつこんな雨の日までデニムを履くんだか。ベストジーニストだからか。階段を駆け上がって、たどり着いたアパートの部屋で玄関のドアを閉めると同時にぶつかりながら勢いよく服を脱いでいって、二人で浴室の中に入る。浴槽に湯を貯めつつ、狭えとか痛いとか言いながらシャワーを捻って、熱い水を浴びる。さほど射程は広くないから、必然取り合いになる。シャワーの熱さと人肌の滑らかさがたまらなくなって、さっきの声量のまま、こっち向けよキスするからと叫んだ。目をつぶれと言えば嫌だと言うから、そのまま顎を引っ掴んでキスをする。超至近距離で目が合うと、何だか考えていることまでわかるような気がしてくる。
そこからは、ありふれたふたりの時間だ。語ることもない。
+
蝉の声が途切れて、少し間をおいてからまた鳴き出す。夜だってのに汗が滴る。ということはつまり、大・爆・殺・神ダイナマイトにとってはこれ以上ないコンディションだということだ。繊維も汗と湿気で感覚が重くてひとつ舌打ちした。今日は偶然現場が重なった。背後から聞こえる爆音に少し口角が上がる。あいつ脱水にならないだろうな、と、心配をしてみる。確保ォ! と声が聞こえたので力を抜く。
「ベストジーニスト」
「どうした」
「なんだか最近、ダイナマイトに似てきましたね?」
顔をあげる。驚いた。
「好きあってると似てくるってやつかな」
「付き合っているんですか?」
聞き返してくる。好きあってはいるが。付き合う、に関しては。なんと言ったものかと思いつい眉根を寄せる。サイドキックがすこし目を見開いたのを見て、努めて普段の顔に戻す。
「いや、なんだか」
これを言うのは非常に不服なんだが、
「保留にされてる」
そういうわけだ。お互い好きあっているけれど、交際しているわけではない。なんでですか、と聞かれた。なんでだろうな。理由はまあ、説明されてはいるのだが。
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今年は梅雨らしい梅雨もなかった。フロッピーは少し悲しそうな顔をしていたが事実なので仕方がない。バカ暑い。天気予報アプリの太陽マークは今日も赤い。つまり大・爆・殺・神ダイナマイトは絶好調ということで、絶好調ということはある程度セーブする必要があるということである。調子に乗りすぎると脱水および爆発の威力の反動で死ぬ。それは勝ちって言えねえよな、というわけで今日もガチガチに制御しきっている。できるようになったので。
コントローラブルなものに囲まれようとすることをやめたら自分が制御しやすくなった。拍子抜けする気分だ。地球は止まることなく回っていて、かつての自分は、その慣性に抗っていたようなものだったのだろう。今も地球がどう回ろうと自分の目指すものが変わるわけじゃないと思って目標に向かって進んではいる。目標は遠い。あの時より難しく感じられる。ただ、山頂が見えなくなるってことは自分が確かにその山の中腹にいるということである。自分のコンパスに自信があるなら、少し風を受けたり雨に降られたりするのだって醍醐味だ。夏だ。登るなら高山がいいな、と少し考える。クソ暑いと流石に気が散る。びょいびょい飛び回る敵をふんじばって地面に降り立てば、ズサ、と音が立った。
「やあ、偶然だな。ところでその着地はあまりエレガントじゃない」
「うるせぇなあ」
ベストジーニストが声をかけてきたのをまじまじ眺める。整った造作に渋みが乗っていい顔だなと思う。好みだ。こいつ俺のこと好きらしい。ちょっといい気分になる。顔を見るといい気分になれるんだから、かなり得である。俺もこいつのことが好きだ。お互いそれを知っている。
ただ付き合ってはいない。
爆豪からすれば、好かれることは無条件で嬉しいことではない。勝手に自分に理想像を見て勝手に失望していくやつなんて山ほどいたし、わざわざそいつらに心の一部を割いてやろうとは思わない。かえって、自分の好きな人はしばしば自分のことがあまり好きではない。趣味が悪いのかもしれない。いや、良すぎるんだろうか。それに致命的なダメージを受けずに済むのは、まあ親から無尽蔵に与えられてきた愛情のおかげだろうなと思う。思うようになった。それは自分が何かを言ったり為したりする時にどうやっても恵まれた立場からの物言いになるというわけでもあって、届かない相手には少しも届かないということである。自分も尊敬できる相手の話しか聞こうと思わなかったから、気持ちはわかる。爆豪の取れる手段としてはもうぶちのめすしかない。そうじゃない手を取れるやつがヒーローには多いから、多くなったから、なんとか大・爆・殺・神ダイナマイトはこのやり方でもやっていける。まあ思う。俺みたいなヒーローだけになったら世は末だな。
なんとか世界は続けていきたいと多くの人が思っているから、大・爆・殺・神ダイナマイトみたいなヒーローは少数派として 、抜群の武力として重宝されている。けっこう人気もある。もうちょっと活動の場を広げたいところだ。委員長ズや麗日みたいなやり方は俺の領分じゃないから、また、別のかたちで。
というわけでバカみたいに忙しく、交際に時間を割ける気がしなかったので、お付き合いとかいうやつを保留にした。あの時の袴田の顔は見物だった。申し訳ないという気持ちも、なくもない、ような気がする。ただ人のために時間を作ることでそれがタスクみたいになることが嫌だったのだ。こうやって、偶然『幸運に』会える方が、どうにも得な気がしてならない。
それを聞いた袴田は心底納得していない顔をしながら頷いた。嫌なら嫌だって言いやいいのに。大人って損だなと思う。爆豪も大人だけれど、袴田は爆豪の前ではかなり意識して「大人ぶろう」としている。それが剥がれる瞬間が爆豪はいっとう好きなのだけれど、そうやって伝えたことはない。戦略的に使われたらなんだかムカつくからだ。そういうわけで、交際関係にはない二人は、適当に愛を伝えたり触れ合ったりだとかしながら交流している。どういう関係なのかと問われれば、答えは「さあ?」だ。好意的な他人である。キスぐらいはしても、別にセックスしてるわけでもないし。そういう条件が揃ったこともないし。(いいところまでは行ったが、結局緊急の呼び出しが入ったので流れた。ちゃんと予定を合わせた二人の逢瀬はいつもそんな感じだ)そうなったらなんと名付けたものだ爆豪は知らない。袴田に好かれていることは嬉しい。これって少なからず優越感だとかそういうものもあるよなと思う。まあそれはそれでいいかと思っている。たぶん一番大きいのは尊敬に近い好意であろうと思うから。
「それってさあ、まあお前が良くて相手がいいならいいんだけど」
居酒屋にて。見るからによくなくないかという顔をしながら瀬呂は言う。上鳴がバカみたいに頷く。
「じゃあいいんじゃねえか」
「なんかこう、もっと、ねぇの?」
箸を置いてくるくると手を回すのをなんとなしに見つめる。
「なんかってなんだよ」
「こうさー、名前つけたくなんねえの」
関係性に、と言う。上鳴がそれとなく目を逸らしたのをつついてやろうかと思って、やっぱりやめにする。
「なんねえ。対外的なアピールってことだろ。いらなくね」
「確かにお前は自分の納得が一番の人間だったぁね」
瀬呂は頷き、続けて言う。
「でも切島にダチだって言われるの別に悪い気はしないんだろ? ハカマダサンはなしてだめだったの」
「別にだめってわけじゃねえ」
「でもだめってしたように聞こえるぜー」
少し考える。だめだってほど決意的な拒絶だったわけじゃない。相手が食い下がるなら別にそれを呑んだかもしれないし。
「向こうの押しも弱かったわ」
「相手待ち?」
あの天下の大・爆・殺・神ダイナマイトが? と続けられる。
「まだ天下は取ってねェだろが……」
「そこに引っかかんなよ! いや爆豪らしくていいけどさ!」
ショートの大躍進を脳裏に浮かべながら眉間に皺を寄せると、どうどうと宥められる。『まだ』ってところが特にいいよな。やっぱダイナマは天下獲る気じゃねーとな。お前らテキトーなことばっか言ってんじゃねぇぞ!
がやがやとした居酒屋の空気に爆豪の声も溶けていく。実際食い下がられたらどうだっただろうか。なんでだか想像はうまくいかなかった。言うか? 袴田維が。いやそんなの納得できない好きっていうなら私と付き合え、とか。言わねえよな? いや言うのか?
グラスをあおってトンと机に置く。気がついてしまった。
爆豪は袴田のイメージの解像度があまり高くない。
向かいの席の二人が話しているのを聞くこともなしに聞きながら考える。幼馴染を想像すると高きゃいいってものでもない気がする。でもこう、わからないっていうのは何やら悔しい。さて、と思う。
わからないなら聞けばよい。爆豪の数ある成長の一つである。
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好きな男から連絡が来たので袴田は浮かれた。この年になって自分の知らない一面を知ってばかりである。電話できるか、と聞かれたので日時をいくつか挙げてメッセージを送信する。一番近いタイミングを指定された。動揺して窓を開けた。熱風と呼んでいいだろう温度を持った風が吹き込んできたので閉めた。
少しの緊張を持ちながら着信を待つ。何度もスマートフォンの画面を眺めてしまう。家電を待つ中学生みたいだなと自嘲した。実際問題爆豪との関係はキスまでしかない中学生みたいなものである。交際を断られているからそれ未満か。事実的に交際関係と特に変わらないことはわかっているが、名前がついているかいないかはそこそこ大きな差である。ワンコール。かかってきた。流石に早いかと思って三コール目まで待って、電話に出る。
「俺から電話架かってくることわかってんだろ。とっとと出ろや」
どうやら不正解だったようだな、と思いつつすまないと謝ってみる。爆豪は難しい。ふん、と息をつくのが聞こえてきた。
「あんたさあ」
「ああ」
「俺のこと好きだろ?」
これをほかの人間にも言っていたとしたらおそらく自分は嫉妬で狂うだろうなと思いながら肯定を返す。好きだ。爆豪が。
「それで、あー、気になったんだが」
「なんだ」
「なんで付き合わないって言ったこと受け入れたんだよ」
弄ぶなよ、をまともな大人の言葉にしようと思ってしばらく黙った。
「おい?」
「お前が……そうしてくれと言ったから、」
「へえ?」
爆豪の声が少し剣呑さを持った。どうしてだ、と叫びたくなる。理不尽を感じる。
「あんた俺の我儘なんでも聞くのか?」
「そういうニュアンスではなかっただろう」
もしそうだったとしても、なんでおまえが怒るんだ、と言い返そうとして、治める。爆豪の怒りに理由をつけるのはナンセンスだ。
「俺が付き合ってもいいぜって言ったらどうする」
「どういうつもりだ?」
「興味」
思わずため息が溢れた。ああ、堪えようと思っていたのに。
「そのつもりもないのにそういうことをいうのは、関心しない」
声音は少し冷たくなった。自分はいつまで経っても未熟だと思う。
「なんだよ」
爆豪が少し不貞腐れたように言う。なんだってそんなことに興味を持ったんだか、問い詰めてやりたい。言葉を練っていると、爆豪がぽとりとつぶやくのが聞こえた。
「もっと喜ぶかと思ったのに」
ぶち。ツー、ツー、ツー……。
頭を掻きむしって叫んでやりたい気分だ。勝手に切りやがった。思わず口の端から溢れた。
「……クソガキ……」
自分がなんだってこんな癖のある子供っぽい年下が好きなんだか、袴田の中ではまだはっきりとした答えは出していない。それなのに気がついたら好きだったのだから、恋とはなんともままならないものである。
-
苛々している。いつものことじゃん、と同期達なら笑うだろう。最近はそうでもない。そうでもなかったのだ。少し前まで、自分がずいぶん浮かれていたことに気がついて舌打ちする。何を威圧してるんですかあと間延びした声で事務員が声をかけてきたので、なんでもねえと答える。
「じゃー舌打ちやめてくださいよお」
「悪かった」
「はあい」
肝が据わっているところが気に入って雇ったが、このぶんだといつかストレス手当みたいなものをこの事務員から要求されるだろうと思うし、その時自分はきっと言われるがままに払うしかなくなっているのだろうと思う。第一印象よりよほど抜け目ない。そういうところだって気に入っているが。ごうごうと音がする。マックスにエアコンを効かせた室内はいっそ寒いくらいだ。こいつもカーディガンを羽織っているし、設定温度はもう少し上げてもいいだろう。電気代もバカにならないし。
「それで、なんでイライラしてるんですか?」
「なんでもねえって言ったろ」
「プライベート事だとみました」
「話聞かねぇな……」
事務員のことを爆豪なりに気に入っているのと同時に、マジでうるせえ奴だなと思っているのも事実である。
「ダイナマイトの言う事全部ハイハイ聞いてたら雁字搦めで何もできなくなっちゃいますね」
「……」
「無言やめてくださいよお。言い籠めちゃったみたいじゃないですか」
「あ? 誰が? 誰を??」
「そうそうその調子」
なんだって唯一のスタッフとこんな喧嘩腰で話さなくてはならないのか。突き詰めると爆豪が他人に躊躇なく物を言うようでいて案外ラインは越えないようなタイプを気に入るからなのだが。
そこまで考えたところでふと思い当たる。袴田維。
あいつ俺に対してちょっと手加減してるな。
袴田が本気で激昂したところは数えるくらいしか見たことがない。ピッチリきっちりしている割に、基本的に余裕を持っていようとしている、気がする。余裕が剥がれたところは珍しい。爆豪とは違って。
爆豪の感情の発露の多くは怒りとしてである。怒喜怒怒怒楽怒くらいのバランスだ。つまりはこのとき、好きな相手に、死ぬほどイラついてきた、という話である。
+
それをやったら本当に幼稚だろうがと袴田は思うのだが、爆豪に無視されるようになった。業務上問題は起きないように最低限の意思疎通はしているから、無視というのは正しくないかもしれない。ものすごくすげなくされるようになった。
喧嘩してるんですかと幾度となく聞かれるが、うまく答えられない。向こうが喧嘩を売ってきていることはわかるが、袴田は別にその喧嘩を買いたくないのだ。そっけない態度に素直に心を痛めている。思春期の子供を持つ親のようだと思う。
爆豪は思春期扱いするにはとっくに大人だが、年齢差は親子ほどもあるから余計居心地も良くない。話をしようとメッセージを送ってみても、『その日は予定がある』と返ってくる。予定が実際にあるかはわからないが、仕事はいつでもある職業なので、そう言われると食い下がれない。喧嘩別れ、の文字が脳裏に浮かぶ。
死んでも嫌だ。そもそも付き合っていない場合別れという言葉は正しいのだろうか。はあとため息をつく。袴田が爆豪について知らないことが少なくないように、たぶん爆豪には気づかれていないというか、侮られている部分がいくつかある。意識的に隠していたところもある。そのうちの一つを頭の中で玩ぶ。
袴田維は搦め手が得意だ。
こんなに大人げのないことはしたくないんだが。
−
ここ最近、爆豪は持ちうる手段を全て使って袴田のことを避けている。もともと基本的に、時々、偶然出会う程度だったから、そこまで難しくはなかった。周囲からは馬鹿だろやめろよガキじゃねえんだからさと非難轟々である。事務員からはストレートに「無駄なことにエネルギーを使ってパフォーマンス悪くなってませんか」と言われた。でもそれだったら、恋心にかかずらっているほうがよほど無駄なエネルギーになりうるのではないかと思った。思っただけで口にはしなかった。数倍の言葉数の反論が返ってくることがわかりきっていたからだ。実際パフォーマンスは多少落ちていることは認めざるを得ない。
でも爆豪は苛立ちをエネルギーとして生きている人間でもあるので、自分の感情を押し込めたりはしなかった。自分でも多少愚かしいなとは思う。他の奴に聞いたら多少じゃないと言われることが目に見えているのでこれも口にはしない。我の強さでここまで通してきたのだ。今さら趣旨変えするつもりもない。
そうやって数週間が過ぎた。袴田とはしばらく会っていない。特に交流を図ってもいない。爆豪はずっといらいらとしている。
ピークはいつなんだか、未だに夏は狂ったような猛暑である。
+
夕立ちという言葉がゲリラ豪雨と名を変えて久しい。暑さだけでなく、すべての気象現象が烈しくなっているなと思う。吹いてくる熱風は確かに湿度の重みがあって、暗く垂れた空もなるほどこれから大雨が降るだろうと思わせる。台風というわけではないらしい。
暦の上では残暑というべきなのだろうが、このまま暑さが秋を侵食していくだろうと気象予報士が言っていた。気分が少し下がる。汗をよくかく季節にデニムを取り入れるのはなかなか難しい。だから気持ちの良い風の吹く秋にはデニムがよく似合うというのに。
往来は静かだ。温度も湿度も活動するのに向いていないからさもありなんと思う。袴田は今日はオフである。爆豪も今日はオフらしい。知っている。『偶然』に小耳に挟んだ。
特に誰も通らない道をそれでも優雅に歩く。歩く。遠くで雷の音がする。
そうやって、歩いていたら、爆豪と出会った。偶然。
「……チッ」
「やあ、久しぶりだな?」
「じゃあな」
すぐに踵を返そうとする爆豪の腕を掴む。爆豪は驚いた顔をした。
「偶然じゃないか」
「俺ァ帰りてえんだけど?」
「せっかくの機会だ。一緒に歩こうか」
腕は掴んだままだ。離してたまるか、という思いに気が付かれているのだか、爆豪は特に振りほどこうとはしていない。
「歩くったってどこにだよ」
「どこだっていい。このあたりは久々に来たんだが少し建物の雰囲気が変わったな」
爆豪は黙って腕を引かれている。導火線がじりじりと短くなっているのが目に見えるようだ。無理矢理引きずっていくのでなくて、相手の足が動き出すのを見て、そのまま歩きはじめる。
閑静な住宅街だ。雨予報だから洗濯物のひとつも見えない。誰とも出会わない。こういうところには大抵……ほら、あった。
ベンチしかないような小さな公園だ。遊具も砂場もなく、遊ぶ子供もいないその空間は淋しげですらある。
「あんたこんなとこ目指してきたの」
「いや、おまえとゆっくり話ができそうならどこでもよかった」
「帰らせろよ」
「まさか!」
大仰に腕を広げてみせる。
「久々に会えたっていうのに。こんな幸運、逃すはずがないだろ」
爆豪は一歩引いた。少し芝居がかったような仕草で、袴田はゆったりとベンチに腰掛ける。隣を指してみたが、爆豪は座ろうとしない。では仕方がない。
こいつと話すときは真正面を避けるのが鉄則なんだがな、と少し笑うと、爆豪は苛ついた様子で片眉をあげる。眉間のシワがひどい。
すこし見上げると、こちらを睨む爆豪と目が合う。背後では、暗い色をした雲が猛スピードで流れている。
−
自分を大変雑に小さな街区公園に連れてきた男は、ゆっくりと首を傾げた。無駄に優雅だ。ひどく苛つく。仁王立ちする爆豪の前で、袴田はベンチに腰かけて口を開く。
「おまえ私のことが好きなんだろう? ここ数週間について、なにか言いたいことがあれば聞くが」
「ねえよ」
「そうか」
袴田は目を伏せて睫毛を震わせる。この場を写真として切り取ってやれば袴田の表情に心を痛める者も少なくないだろう。茶番だ。ここから駆け出して家に向かってやろうかと思ったが、逃げられるビジョンがうまく浮かばなかったのでもう少し考えることにする。
袴田は話す。
+
爆豪勝己の苛立ちの下にあるものをみるために、怒らせるのはまったくよろしくない手である。この男は繊細にできている。何に向けて苛立っているのか、じっくり眺めて付き合ってやる必要がある。ということを重々承知の上で、激昂に繋がるような仕草をひとつひとつ選ぶ。恋とか愛とかの文脈中において、正解以外が意味を持つこともあるだろうし。そもそも今正解を引き当ててやりたいわけじゃない。気がつく。袴田もなかなか怒っている。自分ったら、ああ、まったく、なんて大人気のないことだ。
「さて、このあいだの電話の件だが、私はあれにはいくつか言いたいことがある」
爆豪が黙り込んでいるのをこれ幸いと話を続ける。
「まずひとつめ。電話を一方的に急に切るな。緊急事態だか判断がつかなくなる。散々教えたはずだが」
「『業務時の』連絡についてしか俺は教わってねえよ。プライベートには口を出さないのが事務所の方針じゃなかったか」
「ふたつめ。」
思わず言い返さずにはいられなかったというような調子で返ってきた言葉を無視して続きを話し出せば、爆豪の怒気が膨れ上がるのを感じる。話を続ける。ぎらぎらと光る眼を正面から見つめたまま。
「ひとの感情を知っていて、それに触れようとするなら、覚悟をするべきだ。たとえ自分が当事者であったとしても」
「俺には覚悟が足りなかったって?」
「みっつめ。」
そろそろ胸ぐらを掴まれでもするかなと思って爆豪の手に目をやれば、拳が握りしめられている。手のひらが最大の武器になる男だ。そうそう出しては来ないだろうが、構えておいて損はないだろう。もう一度、顔に視線を戻す。
「これは電話のあとの話だが」
どこか遠くで雷が鳴った。そろそろ雨が降る。
「コミュニケーションの放棄は敵前逃亡に等しい」
−
意図してこちらが苛立つ言葉を選んでいるのはわかっていたが、流すわけにはいかない。爆豪は声を荒げた。
「誰が敵前逃亡したって?」
「おまえだよ。決まっているだろう」
「『たまたま』あんたと会わなかったくらいでそんな物言いをされる謂れはない」
「どこがたまたまだ。意図して避けられていたことくらいわかる」
「ハッ! 自意識過剰じゃねぇ?」
「まさか」
袴田維はひどく優雅に笑う。
「おまえがどんな奴かは知っているよ。好きだからな」
+
ポタ、と雨粒が袴田の頬に一滴落ちた。雨粒は数瞬の間に頻度を増して、辺りは生ぬるい雨降りになる。
雨は爆豪の天敵である。明確にひとつ舌打ちをして、拳を開いて、また握った。袴田を見据える鋭さは変わらない。そういうところだって、好きだ。今はいい加減にしてほしいと思っているが。
「あんた俺の何を知ってんの?」
「性格や好むもの、今までの軌跡、展望」
「じゃあ俺がなんでそうしたのかくらいわかるんじゃねえの」
「納得できるかはまた別だろう。し、全てお前の望むようにしてやろうと思っているわけでもない」
「その割にいつもずいぶん聞き分けがいいよな」
言葉選びに苛つくがそうなれば相手の思う壺である。この手の喧嘩には爆豪のほうが袴田よりよっぽど慣れているだろうなと思う。
「お前が好き放題すぎるんじゃないか?」
「違ぇよ。あんたは俺の言うことに仕方ねえって思ってるだろ」
「何が言いたい」
「その澄ました面が気に食わねえんだよ」
痴話喧嘩にしては選ぶ語彙がチンピラすぎるな、と袴田は思った。雨は勢いを増して強く地面に叩きつけられていく。
「あんた俺のことうっすらナメてんだろ。何言われてもお行儀よく受け入れて『やろう』って顔してんのが見えてんだよ」
なるほど。袴田なりに爆豪の意見を尊重していたつもりだが、あまりに自分の意見が通るとそれはそれで気に食わないらしい。面倒くさい性格をしている。そういえばそうだったな、と思う。言えるだけ言わせてやろうと思って、次の言葉を待つ。
「おかげで俺はあんたが何考えてんのか知らねえ。ここで言い合って何がしてぇんだよ。何か言ってみろ」
爆豪の声はざらついて荒い。まさか、と思う。爆豪は袴田の言葉が足りないと言っているのか。お前のほうがよっぽどだ。なんて我儘な男なんだ!
「お前、私がどれだけ熱烈にお前のことが好きか知らないのか」
「そういう話じゃねえだろ!」
「そういう話だよ。最初からずっとそういう話だ」
−
袴田はふざけたことをのたまったあと頭を抱えた。髪に雨粒が伝って、次々滴になって落ちていく。ヘアケアだって欠かさない男がその金糸をぐしゃりと乱す。インナーまでぬるい水が染みてひどく居心地が悪い。
「あのな、お前には理解できないかもしれないが」
「あ?」
反射的に威嚇すると、一旦落ち着いて聞け、と言われる。声が笑っている。蹴ってやろうかと思った。
「お前のことを、束縛できないほどかわいいとも思うんだよ。お前が生きやすいやり方があるなら、それでいい。この間は否定したが、なんだって聞いてやりたい瞬間だってある。ただ、多分な」
袴田がのそりと顔をあげると、また幾筋も水滴が落ちていった。
「浮気したら殺すぞ。他の人間好きになってみろ。私は……何をするかわからない。きっと『ベストジーニスト』を逸脱することはないんだろうが」
「あんたが?」
「私が」
袴田らしくない言葉選びだった。すこし驚く。
「お前に暴かれた恋心だったから全て諒解されているものかと思っていたな。私の落ち度だ」
「だからその自分に責任があるみたいな態度も気に食わねえんだよ。あんたの中で俺はずっとガキのまんまか?」
「いや、……いや。違うさ。一人の自立した人間として尊敬もしている」
「じゃあなんなんだよ」
「あのな、私は」
袴田が言う。
「それなりに重い男なんだ」
そのくらいわかっていたつもりなので、だからなんだと思ってすこし黙った。
「お前に関するものを抱え込みたくなってしまうんだろうな」
「俺のものだろ」
「その通りだ。反省するから、どうかまた好きだって言わせてくれ」
すこし気圧された。少しだ。すこし。自分の惚れた男はこんな奴だったらしい。
少し躊躇ったように、袴田がまた何か言った。声がいきなり小さくなったから、一瞬何がなんだかわからなかった。
「それともお前はもう、私のことは好きではないかな」
雨で声が聞こえにくいからやけっぱちみたいに叫ぶ。
「好きに決まってるだろ!」
何のつもりでここまで来たんだよ、と袴田の顔をみると、してやったりとでもいいたげに微笑んでいる。ムカつく! ムカつくのに、どうにもこうにも笑いがこみ上げてきて、なんの気遣いもせずに相手の腕を引く。バランスを崩したのをみてふんと笑う。教えてあったはずだしまあこいつ知ってんだろうが、
「俺の部屋が近ェぞ」
走り出したのはどちらが先だったんだか、生来の負けず嫌いを発揮して先行してやろうとするが、なかなか向こうも食らいついてくる。抜かされた。袴田が振り向く。
目が合う。笑う。
雨の中をけたけた笑いながら走る。袴田がアパートまでのすべての曲がり角を正確に曲がるのを見て、文句を言ってやろうと思ってバーカと叫ぶ。なんだと返事が返ってきて余計笑う。服は水を含んでバカみたいに重い。なんだってこいつこんな雨の日までデニムを履くんだか。ベストジーニストだからか。階段を駆け上がって、たどり着いたアパートの部屋で玄関のドアを閉めると同時にぶつかりながら勢いよく服を脱いでいって、二人で浴室の中に入る。浴槽に湯を貯めつつ、狭えとか痛いとか言いながらシャワーを捻って、熱い水を浴びる。さほど射程は広くないから、必然取り合いになる。シャワーの熱さと人肌の滑らかさがたまらなくなって、さっきの声量のまま、こっち向けよキスするからと叫んだ。目をつぶれと言えば嫌だと言うから、そのまま顎を引っ掴んでキスをする。超至近距離で目が合うと、何だか考えていることまでわかるような気がしてくる。
そこからは、ありふれたふたりの時間だ。語ることもない。
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