むすんでひらいて
最初、俺はこれを目の錯覚だと思った。ので放置した。次の日右手のグローブを外すと悪化していた。対処しなくてはならない。ベストジーニストのところに行った。パトロールの予定が入っているはずだ。まだいた。間に合った。
「ベストジーニスト、あんた、俺がほどけたら繕える?」
ベストジーニストは俺のこの意味のわからないだろう質問に、間髪入れず、もちろん、と答えた。そしてパトロールに出た。
ぼろぼろに酷使された後に最新の技術と幾ばくかの個性をもってして取り戻された俺の腕は、今日も俺の思った通りに動く。その右の手の、人差し指の先のところに、ほつれができていた。俺の肌に。さながらタオルのループを引き出したような輪っかがぴょこんと飛び出ている。色は俺の肌の色そのままだ。痛みはないが、輪の部分がなにかに触れると感触がある。昨日見たときはもっとささやかで、ささくれかなにかだと思った。その時点で小さな異常ではある。個性の母親譲りの部分の影響で、手にささくれなんて作ったことはなかったのだ。適当にハンドクリームを塗って終わりにした。ここで気づけなかったのが不覚だ。
十中八九何かの個性の影響を受けている。エッジショットの個性を連想した。ベストジーニストのパトロール終わりを待つ。
パトロールを終えてきたベストジーニストは俺の指先のぴょろっと出た輪っかをしゅるんと俺の指先に戻してしまった。数秒のことだった。そのまま個性研究に強い医者のところに連れられた。
医者は、個性の影響だろうと思われるが、その際想定される数値が検査に出ない、と言った。個性因子にも影響はないという。続けて、まあそういう個性もあるようです、と。いい加減な話だが個性に関してはこういうことはままある。解除される条件については一般論しか言えないという感じだった。誰かにかけられたものならばと、データベースを洗ったがそれらしい者も細部は違ったり、遠方にいて俺との接点があり得なかったり、発動条件が厳しかったりでどうにもしっくりこない。抽象系の個性から当たりをつける方に切り替えた方がいいかもしれない、というところで今日は終わりになった。
いつの間にか一大事になっているが、俺はほとんど普段通りに動けていた。俺に個性を使って嫌がらせしやがったやつは見つけ次第爆破するつもりであるが、特に喫緊に不便は感じていなかった。俺の解れをベストジーニストがすぐに直したからだ。
その晩、夢を見た。これは夢の話だ。
ベッドに横たわっていると、シーツのパイル地からぴょいんと一つループが浮き出ているのが見える。千切ってしまおうと引っ張ると、ループに糸が出てきて周りの布地に皺がよった。切るつもりでもう一度引っ張る。失敗。もう鋏を使うしかないと、立ち上がろうとすると、右手にさっき引き出してしまったより多くの糸が絡み付いている。血行が心配になる。糸をはずそうと掻き分けるが、一本一本広げてほどいても解決しない。そこで俺は気付くのだ。この糸の源は俺の右手で、ほどいてもほどいてもどうにもならないのは俺の右手が糸玉になっているからなんだと。
そこで目が覚めた。
なんだかまだ右手に糸が絡み付いている気がして眠い目で見れば、人差し指は編み目を透かしてキラキラと朝日が見えた。緩んでいる。俺の人差し指が。ぎょっとした。手は一番使う商売道具だ。曲げてみれば、動かせる。指の角度が変わる度に透けた光がキラキラと瞬いた。
朝一でベストジーニストにアポを取る。スマホを右手だけで持つのがどこか覚束なくて、初めて両手でキーボードを操作した。
ベストジーニストは会ってすぐ俺の右手を解決した。しゅるしゅると糸が詰まっていって、正しい位置にはまりこむ。目が詰まりきると俺の肌の質感が戻ってくる。右手を握る。開く。俺の右手だ。小さく爆破。オールグリーン。
なにか違和感はなかったか聞かれたので俺は夢の話をする。
「ふむ、パイル地か」
一番どうでもいいだろうところに食いつかれたので俺はちょっと後悔を始めている。夢の話だ。現実の俺が使っているシーツはリネンの平織りだ。まあ夢の話だし、厳密にする必要もあまり感じない。
「パイルの
「わーってんだよんなことは。夢の中だったから横着したんだろ」
「夢の中だと気がついていた?」
「当たり前だろ」シーツも違うんだから、気付くに決まってる。
「その指との関係もあるかもしれないな。見た夢を現実にするとか、そういった方向かもしれない」
「この夢見たのは昨晩が初めてだ。前の晩も、前の前も、夢は見てねえ」
「覚えていないだけで見ている可能性はある」
「探す相手増えたってことかよ」
「そうだな」クソ個性、とこぼすとベストジーニストは俺のうんざりした声にちょっと笑った。「他に気になることはあるか」
「エッジショットに会いたい。聞いてみたいことがある。指があの状態で使えないか。無理ならいいケド」
「暇がないか聞いてみよう」
ベストジーニストは頷いた。
エッジショットもプロヒーローの例に漏れず多忙の極みのような人だが、暇とやらは案外すぐにやって来た。まだ俺に働いている個性の詳細がわからないうちだ。ジーパンの呼び出しだからって無理押したんじゃないだろうなと少し疑う。あれからというものの同じような夢を見ては起き、右手は解れていると言うのが俺の朝の始まりだった。毎度毎度ベストジーニストの元へ行き直してもらう。直せばいつも通りの俺の手だ。最近、日に日にほどけかける範囲は広がって、右の手のひら全体になっていた。
「聞きたいこととは何だ」
エッジショットが言った。これこれこうなんだけど、とまず現状を説明する。
「ほどけても動かせるなら使えなくもないって思ったんだけどよ、これアンタの個性とは仕組み違うよな」
「違うな。その糸が動かせるわけではないんだろう」
俺は頷く。緩んでるのを緩んでるまま動かせるだけだ。普段の俺の手の動きを大きく逸脱しない。
「端はあるのか? 糸の端」
「わかんねえ。見てはねえかな。布地の途中がほぐれた……ほつれた? ほどけた? みたいになる」
「なるほど」
「爆破できたら面白えのに。なんかコツとかねえの」
「紙肢のか? 感覚の問題だからすぐに伝えられる気はしないんだが」
それでもいくつかのことを挙げて、それからエッジショットはこう言った。
「一つ安心しておくといい。秘伝袴田流もやい結びは綻ばない」
「先輩がもうここにいなくても?」と、俺が自分の胸を指すと、
「当然だ」と頷いた。もう一つ二つ、聞いてみたいことを挙げると、答えはすぐに返ってきた。ついでにもやい結びのやり方も教えてくれた。秘伝じゃねえのかよと聞けば、免許皆伝しているから心配は無用と返された。それでいいのか?
最後に、無理は禁物! と言い含めて、忍者は急いで帰っていった。やっぱ忙しかったんじゃねーの。
目覚めるとまた、腕には糸がはっきり視認できるようになっている。ベストジーニストはここ最近朝に俺のために時間を取るようになった。デスクの目の前の椅子に掛けながら編み目が詰まっていくところを眺める。
「綿入ってないんだな」
編みぐるみを連想してそういうと、なぜかベストジーニストは首を横に振った。
「もっとよく見てみるといい」
そう言われても、もういつも通りの俺の腕だ。握って、開く。よく動く。おざなりに礼を言うと、一つ提案がある、と言われた。
「夢からのアプローチをするのはどうだ。夢の内容を意図した方向に書き換える。個性を使って。それで反応を見る。やってみる意味はありそうに思うが」
「アリだと思う」
「じゃあ病院に行こうじゃないか」
「濫用厳禁なんすよ。必要そうかつ大丈夫そうって判断できたときしか使いません。変にやりたがる人多いんで」
というわけで、夢に纏わる個性を用いる医師と面談をすることになった。ベストジーニストは事務所に戻った。保護者のような振る舞いをさせていて、少し居心地が悪い。
「ここに来た理由、それからこれまでの夢の内容を教えてもらっていいですか」
散々話したことをまた一から説明する。ポリグラフ付きだ。どんな嘘を付けっていうのか。当然自分の身に起きたことを滔々と伝えるだけだ。医師はなるほど、と頷く。
「対処できる方が身近に居て幸運でしたね。次に……、夢に心当たりはありますか」
「心当たり?」
「どうしてそういう夢を見るようになったか、きっかけです。夢は記憶の整理だと言われますね。夢を見る前に、関係のあるものを見た記憶はありますか、ご自分の異常以外に」
ちょっと言葉に詰まった。関係するもの。どう考えても手に異常が出てから夢を見るようになったが。
「ベストジーニストが個性を使うところは散々見てる。連想できる範囲なんじゃねーかとは思う」
ふむ、と頷いてまた医者は問う。
「今見てみたい夢なんかはありますか」
質問の角度が変わった。見てえっつったら見せてくれんのかな。
過去のこと……なんて見てもしょうがない。過去は変わらない。憶えておきたい記憶も忘れてはいけない記憶も起きてる間に思い出せる。逆に未来のなりたい自分の像を見たって虚しいだろう。夢でなく現実で、実際に、実現するのだ。そう絞っていくと自然に一つに帰着する。
「糸玉に悩まされずに寝る夢」
ほうほうと医者はキーボードを操作した。
「面談終了です。悪いことにはならないと思うのでやってみましょうか」やけにあっさりだ。
じゃあ部屋を移動してベッドに、と続くのを一旦止める。
「今からか?」
「はい。早いほうがいいでしょう」
ベストジーニストに一報入れて、入眠剤と水の入ったグラスを受けとる。俺の生活リズムが惜しまれるが、やる意味はあるだろう。
「夢の内容は、先程あなたが言ったような方向性になると思いますが、イレギュラーも想定されます。望み通りの夢を見たかったらなるべく寝るまでイメージし続けてみるといいようです」
こめかみにセンサーを貼り付けられた。一つ頷いて、ベッドに入る。リネンが冷たい。すぐに部屋は暗くなる。
「あなたが眠りについたら、一度あなたの額に触れます。いいですか?」
頷く。少し眠気を感じてきた。
「それでは、おやすみなさい」
夢を見た。久々に、夢の中であることを認識しない夢だった。
シーツはパイル地で、手で撫でるとふわふわと滑る。体温が移るのが面白くて、ずっと撫で回していた。そうしていると、誰かに頭を撫でられた。くすぐったくて笑うと、誰かの手は余計優しく髪をすく。そしてそのまま、ゆっくりと俺は深い眠りに落ちていった。
目が覚めた時一瞬どこにいるのかわからなくなった。夢の中でさらに寝入るなんて初めてだ。目が覚めたのはクリニックのベッドの上。天井の灯りが眩しくて右手を顔の前に出すと、ため息をついた。ほどけてるわ。
申し訳なさそうにする医者に見た夢の内容を聞かれる。一瞬詰まった。ずいぶん個人的な夢だった気がしたからだ。どう言おうか迷ったがセンサーとポリグラフの存在を思い出してシンプルに言う。ふわふわのシーツで眠る夢。途中誰かに撫でられる。
記録し終わったあと問われる。その右腕はどうなさいますか。
いつものコスチュームを着てグローブを嵌めてしまえば見えない。と俺は答える。実際衣服で覆われているときは感覚に問題はない。絡まりそうなので着脱は注意してやっている。
夢見が悪く寝付けないならと入眠剤を処方された。
寝ている最中の動画をもらって俺は事務所に帰る。
録画を再生した。俺は右手をカメラに見える場所に置いていた。早回しで見る。寝ている間に右手は特に何も起こらない。いつも通りの俺の手で、腕だ。画面の中の俺が目覚めようと身動ぎした瞬間、それは起こった。カメラのブレのようにも見えた。俺の目が覚めると同時に、ブレた右手がふわと弛緩する。解けている。画面の中の俺が右手に目をやる頃には、糸の緩みが大きくなっていた。条件の一つはわかった。起きる時に発生している。
それをベストジーニストに伝えれば、そういえば日中に解けているところを見たことがないなと言われた。確かに。寝ない限りはこの異常も起こらない。それでも寝ないわけにはいかない。ここのところずっと日勤だったのもベストジーニストがいるのも運がいいわけではなく、便宜を図っていてくれていただけだ。直に限界がくるだろう。対処を考えなくては。
翌日起きた時には異常は肘に近づいていた。俺が意図した姿勢通りに腕や手の骨組み――というか骨と肉そのものなんだろう、見えはしない――は動くし上がるが、表面の糸でできた輪だけは重力に従っている。試しに肘に程近いところの糸を左手の指で掬い上げてみる。おお。柔らかい……ような気がする。感触はそれこそ夢の中と変わりなかった。シーツに使われるような細い糸の感触だ。ちょっと引っ張ってみる。右手にはなんとも言えない感触がある。触れられているような、いないような。これ神経とかどうなってんだろうな。くいと少し力を入れたら、どこからか糸が抜けてきた。端だ。はあ? おいちょっと待て。
糸の端を持つと、今度は力を入れていないはずなのにほろほろと人差し指の形が崩れ始めた。解けている。解けている! まずいだろ! 夢で見る糸玉が頭によぎった。左手で急いでベストジーニストに電話をかける。
「こちら大・爆・殺・神ダイナマイト。ベストジーニスト今時間作ってくれ」
「おはよう。大・爆・殺・神ダイナマイト。緊急か?」
「そーだわクソ緊急俺の右腕解けてるすぐそっち行く」
「シュア。執務室に居るよ」
コスチュームのケースからグローブだけ取り出して、あとは抱える。糸を丸ごとグローブの中に突っ込み、事務所に急いだ。不思議なことに、グローブをつけている時は人差し指の先まで感覚がある。何がどうなっているんだか。
「外から見る限りではわからないが」
首を傾げたベストジーニストの前でゆっくりとグローブを外す。もっと悪化していることを覚悟したが案外そのままだった。つまり右手の人差し指の先だけが糸の解けて崩れたようになっている。
「これは……」
ベストジーニストも驚いた顔で指先を見ている。ずっと異常ではあったが何となく原型は保っていた。それが崩れたとなれば驚きだろう。俺もなぜかこうなるとは思っていなかった。夢で見ていたにもかかわらず。
「すぐに直してしまおう」
くしゃくしゃになっていた糸が持ち上がって、整列していく。意思でもあるかのように動く――いや、実際ベストジーニストの意思で動かされているのだ。糸はくるくると重なり合いながら俺の輪郭を作り上げていった。痛みはない。どこかくすぐったく思えるだけだ。糸目がのぞいていた肘までもすぐに元の地肌の質感を取り戻した。
「どうだ。動くか?」
指を曲げ伸ばしし、手のひらを握って、開く。感覚は戻ってきていた。手のひらの上だけで小さく爆破する。
「大丈夫そう」
「こうなると差し障りが大きいな。解決は急務だ」
「それなんだけど、グローブをつけたまんまだと人差し指まで感覚はあるんだよな」
「幻肢痛のようなものか……?」
「さあ。一回グローブつけたまんま寝てみる」
やってみると案の定グローブをつけている限りは普段通りに動けるのだった。何もいじらなければ俺の輪郭が崩れるほど解けることもない。寝る時若干鬱陶しいだけで、ひとまずは何とかなった。
「あくまで対症療法ではある。朝はなるべくここにいるから、すぐに来なさい」
「あんたはそれでいいのかよ」
「ああ、直すとも。安心していい。なるべく君に会おうじゃないか」
言葉通り、それ以来もベストジーニストに右腕を繕ってもらう日が続いた。一度素手でほつれを放置したまま寝て、そして起きるとどうなるか試したら、悪化して絡まりかけたので、鬱陶しさに関しては諦めた。
中の手がほつれまくりであろうともグローブをした手は思った通りに動く。爆破も出来る。もしかすると絡まりそうな素手でも爆破は出来るのかもしれない。やろうと思ったことはない。俺の個性はコントロールが命だ。
今日の作戦行動もまずまずの出来だった。
夢を見た。その日の夢はひどかった。
俺の右腕はもはやシーツと一体化していて、動かそうにもシーツごとだ。もう何回か前からほどくのは諦めている。どうすっかなあと左手を後頭部に寄せる。髪をかき回そうとしたところで気がつく。糸の感触がする。左手を眼前に持ってくると細い糸が絡み付いている。糸の出る源は視界にはないが、繋がっているのは後頭部のほうだ。元に戻そうと左手で頭に触れると、さらに多くの糸の感触がある。左手だけでも解放したい。引っ張ると千切れてしまいそうだ。頭の後ろで手を動かしていると、しゅる、と後ろから引き抜けるような音がして、世界は暗転する。
そこで目が覚めた。
グローブの中の右手はどうせほどけかけてる。起きたその勢いでベストジーニストに連絡をする。帽子も被らず事務所に走った。
「なあ俺の頭ほどけてねえ?」
ベストジーニストは近くの椅子を指す。座れってことだ。指示された通りに座ると、しゅるんと周りの柱と俺を繋ぐ繊維が現れて拘束された。
クソ! やられた! 八二にされる!
ベストジーニストはどこからか取り出した櫛をもって俺の髪を梳かす。耐え難い苦行にギリギリと奥歯を噛み締めていれば、すしゅ、と髪でなく糸が擦れる音がした。やっぱり俺の後頭部もほつれていたらしい。その後結局俺が解放されたのは手を離しても髪が八二に維持されるようになってからだった。今すぐ戻したい。
右腕以外のところに現れたその症状はそれなりに大事じみたことになり、その日から宿直室の一部屋が俺用になった。
ドアにかけられたプレートの『ダイナマイト』の文字を見る。少し右上がりで、左にはらう線が平行だ。特徴的に整っていて、そういうフォントみたいだと思う。周りに誰もいないのを確認して、スマホで一枚写真を撮った。
一つ問題がある。
「大・爆・殺・神が抜けてんだが?」
「おや」
サラのドアプレートを一枚渡されたので、見落としようがないくらいでかく書いておく。それで上から掛ける。ベストジーニストの書いた『ダイナマイト』を隠さないように。
部屋のドアを開ける。所属している人数が多いからか、この事務所のこの手の設備は大抵充実している。中はいつもと変わらない。とパッと見で思ったが、ふと予感がして掛布団をめくるとそこにあったのは柔らかそうなパイル地のシーツだった。これはいつもの宿直室とは違う。無駄なことすんなと言いに行こうか迷って、結局そのままにした。夢との区別はつくだろう。
それからほぼ毎朝ベストジーニストに解れの直しがてら髪を触られることが続いた。先輩サイドキックが懐かしそうな顔をするのが腹立つ。八二は気合いで直した。
ある朝にベストジーニストと会えず、ほつれたままでパトロールに出た。冬コスだから腕はどうなっていても隠れている。何か身につけている限りは動ける。後頭部は髪でもともとわかりにくい。だからほぼいつも通りだった。
ザと空気が揺れる。何か起きた。音の源に移動する。事故だ。クラクションが響いたと思ったら、異様な速度でぐにゃぐにゃと蛇行運転をする車が現れた。周りの車にぶつけながらも止まらない。運転手と目があう。ブレーキ、きか、ない。なるほどな。組んでいた先輩サイドキックとアイコンタクトをして、タイヤだけ狙って攻撃する。先輩サイドキックの個性で車の前部分が持ち上がる。ウィリー走行でもしているような格好になった。勢いで一瞬車は少し浮き、凄まじい音をたてながら横に滑るような動きを見せる。誰もいないほうに、と思っていたが子供が見えた。保持、とだけ叫んで跳ぶ。子供、キャッチ、間に合った、手をつく。ぷち。ぷち? 車はまたすごい勢いで地面に着地した。ひどい音だ。エアバックは作動している。運転手は気を失っていた。息はある。救急車が来る音がする。
右手を見下ろした。さっき、俺の右手からまるで糸が切れたみたいな音がした。気のせいってことには……ならねーか。したもんな。音。ぷちって。痛みはない。それが逆に嫌な感じだ。
現場を警察に預けてガキの怪我の確認だけした。でかい声で大丈夫! と主張されたが、擦りむいてる。先輩サイドキックがエイドキットを出して手際よく処置していった。おー、泣かねえじゃん。親がペコペコと頭を下げるのに対して、危険に晒した謝罪と、病院で無事を確認して何かあったらジーニアスに、と伝える。その間も右腕のことが引っ掛かっていた。
じいと見下ろす。開いて、握る。手は動く。腕も動く。かといってグローブを外して見る気にはならない。
飯を食うにもペンを握るにもグローブ越しでいいくらいには慣れている。慣れた。だというのに今日はぷち、というあの音が気になってやや不器用じみた動きになった。
ベストジーニストとは昼過ぎに会えた。
「右腕の糸切れたかも。ぷちって聞こえた」
「大丈夫なのか?」
「動作に異常はない。ずっとコスだから中どうなってんのか見てねえ」
「観測されない限りどちらでもあると」
「俺の腕で量子力学の猫を飼うな」
「直してしまおう」そういうとベストジーニストは指揮でもするみたいに優雅に指を動かして見せた。こいつには俺の腕を観測が出来ているんだろうか。
「ああ、切れてるね。一ヶ所だけだ。切れたところは結んでおくよ」
できた、と言われておそるおそるグローブを外す。手首の外側に、擦り傷が出来ていた。
「痛くなかったかい」
「今見て初めて痛みを感じた」
「怪我あるあるだ」
ベストジーニストは丁寧に俺の擦り傷を手当てした。なんだかむず痒かった。
異常は日に日に広がっていった。後頭部のほつれは首筋に到達したようだ。朝にベストジーニストの前に立つと、すうと指先が空中をなぞる。しゅうと微かに音がして、それで背筋が伸びる感覚がある。
「頭頂部から糸で吊られてるみたいにって例えあるよな」
「? そうだな。……今言うのはやや悪趣味じゃないか?」
ベストジーニストは改善の兆しが特にない俺の症状に心配を滲ませるようになってきた。俺もまあ困っている。多分。あまり焦りがないのはなんでだ? ベストジーニストが俺を直してくれることに満更でもないと思ってるんじゃないだろうな。ない……とは言いきれない。うえー。マジかよ。俺はこのヒーローのことを結構気に入っている。
多分表情に苦々しさが出たんだろう。何かあったか、と問われた。
「んや、なんもねえよ。あんたさあ、俺が全部ほどけても直しきれるよな」
ベストジーニストは眉間にシワを寄せてみせた。
「もちろんそうしてみせるが、すべてほどけて糸玉になった君を私が立体に編み直したらそれは君と言えるのかな」
「スワンプマン? 一回死んで生き返った人間が一回死んで生き返った人間に言うことかよ。それは俺だろ」
「あくまでも仮死と瀕死だがな。でも君、その以前と以後で何かしら、ちょっとは変化があるだろう」
「帰ってこれるもんなんだな……っつー感慨」
「慢心に繋がりかねないな。気をつけなさい」
「ぜってー殺してやるわっつー意思」
「いつもの君だ。間違いなく自己同一性は保たれている」
まあそうじゃなきゃすぐ前線には出ない。
「あんただって起きてすぐ現況と立ち回りのこと考えたろ」
「そりゃあね」
おほん、と咳払いをして、ベストジーニストは話を戻した。
「君の私への信頼には応えるがね。わからないぞ。君がほどけきったら、理想の君にすべく糸を足しておくかもしれない」
「すんの?」
「しないだろうな」
だろうな。
「じゃあ問題ないだろ。……ちょっと興味あるわ」
強そうだ。ところどころ藍に染められかねないが。ベストジーニストは明確に困った顔をした。普段颯爽としているこのヒーローにしては珍しい。
「どちらかというと、私は自分の作ったものに納得がいかない陶芸家のような振る舞いになりそうだ」
想像した。ベストジーニストが俺を編み上げてはほどいて、編み上げてはほどいてを繰り返す。
「悪夢じゃねえか」
「ああ、そうならないように留意してくれたまえ」
とは言うものの改善策はあがらない。俺も焦らなくちゃなと思う。データベースに載ってたあり得そうな個性を持つやつは全部あたった。全部外れだ。ほつれの初日の日誌を見返すが、思い返しても本当になんら特筆すべきことはなかった。他人にハンドクリーム借りたくらいだ。
一度家に帰ってから宿直室に戻る。手間だが仕方がない。『大・爆・殺・神』『ダイナマイト』のドアプレートの揺れるドアを開けると、ベストジーニストがいた。びびった。いや電気もつけねえで何してんだよ。
「今日は私もここに泊めてくれ」
「マジで言ってる?」
「大マジだ」
どこで寝んだ? 俺の脳裏にはキリンの寝姿が浮かんでいる。
「ベッドで寝るとか言わねえよな。俺明日早いんだけど」
「いや、椅子だけ貸してくれ」やっぱりキリンスタイルか?
「君が起きるまでそんなに時間がないだろう。早く寝るといい」
「言われんでもそのつもりだわ」
他人が居るせいか落ち着ききらないので、いつかもらった入眠剤を飲んだ。眠気はすぐにやってくる。
夢を見た。いつかと同じ夢を見た。
柔らかなパイル地のシーツ。最近気づいたんだがパイル地って湿度がこもる感じがしてあまり好みじゃない。撫でるとループが自分の手でなぎ倒されていく。遊んでいると、誰かにそうっと髪を撫でられた。壊れ物に触るみたいな手つきがおかしくて笑う。すると柔らかく通る落ち着いた声が、おやすみ、と言って、俺はおやすみを言い返す前にどんどん眠くなる。結局そのまま深い眠りに落ちていく。
起きた。ここ最近ないくらいすっきりと目が覚めた。習慣で右腕に目をやれば、ふつうの、俺の腕、そのものだけがそこにあった。
顔をあげるとベストジーニストが昨日最後に見たのと同じ角度で椅子に腰かけていた。
「……あんたねたんかよ」
「ああ。おはよう、大・爆・殺・神ダイナマイト」
「オハヨーゴザイマス……。あ、俺の腕、直したんか」
そういうわけだと思ったのに、ベストジーニストは首を横に振った。
「見ていたんだが、今日は異常は見られなかったみたいだ」
寝る直前の記憶は薬の副作用で消えがちだ。昨日何か特別なことをしたとしてそれを忘れたのだろうか。それとも、いや、それはなあ。
「昨日寝るまえ俺何かしてたか」
「入眠剤を飲んだあとすぐベッドに入って……そしてすぐ寝入っていたと思うが」
「そうだよなあ」
「誰かさんの個性のリミットが昨日までだったのかな」
そういう可能性もあるだろう。そうであって欲しいところだ。
「早番行ってくるわ」
久々に異常の見られなかった腕は軽やかによく動く。思った通りに動く。だけどどこか軽すぎるような気持ちになって、ため息をついた。最悪だ。ガキじゃねえっつうのに。
翌日目が覚めると、前日の反動とでも言わんばかりに、俺の表面はぐしゃぐしゃに糸まみれだった。あっクソ、人差し指の糸と薬指の糸が絡まった。サイアク。気のせいでなければ指先はどうやら形をなくしている。左手にも糸目が見える。本当にこのままいくと俺はまるごとほどけきるのかもしれない。
身動きするとどこかに引っ掛けて切ってしまいそうなので、ベッドに居るままベストジーニストに連絡をする。鍵は開けておかなければ。
ずるずるの手でカーテンを開ける。ため息が出た。昨日の今日でこれかよ。いよいよ構ってほしくてほどけてると言われても否定しきれないんじゃないだろうか。最悪だ。
少しして、ベストジーニストはゆっくりとドアを開けた。二枚あるドアプレートがぶつかり合ってカラと音が鳴る。
「昨日で解決したかと思ったのだがな」
「そうだったらよかったんだけどな」
しゅる、と俺の表面の糸たちが整列していく。なあ、と声をかけた。
「これ俺ってどうなってんだ?」
ベストジーニストは少し黙った。手を止める。蠢いていた糸は重力に従って垂れた。
「今更なことになるが。私の見たものを伝えよう。皮膚の表面が編み地状になっている。縫いは見られない。立体編み。糸の端は不明。編み目は細かいが一般に流通している生地に比べるとだいぶ疎だ。機械編みのための糸を使って手で編んだみたいだな。編みはよこ編みだ。ほとんどガーター編みだな。爪のあたりなんかはたまに変則的な部分が見られる。糸の太さは綿の二十番手くらいかな。材質は……何とも言い難いな。似ているものがあるとしたら生糸だろうか。撚りはかかっている。朝ごと……編んだものにこうも弛みができるほど緩むというのは自然に起きることではないね。そもそもが超自然的な出来事ではあるが。いつも目を詰めて余った糸を裏面、いや内面というべきかな、そちらに引いておくのだけれど、気づくとどこへか行ってしまう。元から無かったように。増えた糸はどこから来たのだろう。糸が増えて緩んで弛んでいるときも皮下の組織、肉の層なんかは見えない」
「透けて向こう側は見えるけどな」
編まれているのがほどけたのだという、うじゃうじゃしている右手を掲げて窓の光に透かしてみると、ベストジーニストが首を横に振った。
「ああ、違うなそれは。意外だ。気がついていなかったのか」
「あ?」
ベストジーニストはカーテンを閉め、電気を消した。部屋は暗くなる。カーテンの隙間から防ぎきれなかった日光が一筋床に差していた。
「暗くして、よく見てごらん」
グリャグリャになっている表面がうすらぼんやり見えるだけだ。
「何をだよ?」
すっと手を取られた。少し驚いた。
「見て」
重なっている手を目の前にあげられる。俺の表面はこんなだってのにベストジーニストの体温がなんとなく伝わってきた。
手の角度をゆっくりと変えられる。
「見てくれ。見えるだろう」
ベストジーニストが少し楽しそうな声で言う。
中からだ。そう、俺の腕の中から、微かに光が外に向かって漏れていた。
「光が透けてる」
俺にも見えたことを確認して、ベストジーニストは俺の腕を離した。
「糸で編まれた表面の、その下は光だ。内部が光」
そう言って少し笑う。
「編むというのは、結び目を重ねていくということだ。一つ一つ、確かに。ときにはほどいてやり直しながら」
布が擦れる微かな音が耳についた。
「とても君らしいね」
その後は直ぐに俺の不具合のある部分を全て直して去っていった。俺は自分の右手を見る。握って、開く。俺の手だ。先ほど見えた光とやらはもう見えやしない。そのはずだ。
表皮が糸になるように筋肉は光になるのか。……そういうことではないのだろう。
起き抜けの最悪な気分に反して、その日の俺はずいぶん調子がよかった。身体が軽い。動き続けてもあまり疲れを感じない。
その夜夢を見た。いつもとは毛色が違った。
俺はでかい鍋を掲げて光をその中に溜めていた。光は液状だった。なんだそりゃ。七分目くらいまで溜まったところでおろして、謎の棒でぐるぐるとかき回す。鍋の中の液体――光は渦を巻いて、その中からゆっくりと棒を引き上げれば、繊維状になった光が釣れてきた。ゆっくりゆっくり棒を持ち上げて、少しずつ歩いていく。くるくると棒を回転させると、釣れた繊維が糸状にまとまる。俺が持つ棒を端にして、絡まりあった長い繊維が形になった。光を集めて、かき混ぜて、引き上げて、撚って、まとめる。それを延々と繰り返すと大量の糸ができた。人一人の表面を覆えるくらいはあるんじゃないだろうか。一つ所に積み上げて置いておくと、なんとなくヒト型じみた形をとっていた。もぞもぞと動く。一旦手を止めて眺めた。この姿かたちはアレだな。アレっつうか俺だな。じゃあこっちの今ものを考えている方の俺はなんなんだ。
眺めていると俺の人形は輪郭をはっきりさせたりぼやけさせたり、なかなか形になりきらない。結局そのまま糸の山に戻っていってしまった。糸を一筋掴んでみればなんとなくつるつるしている……気がする。手慰みに先輩に教えてもらったもやい結びで一つ結び目を作る。輪ができた。すると持っていた糸が勝手に動きだし、隣に結び目をつくる。手を離すとそこからひとりでに糸が次々重なりあって、絡まりあって、結ばれていき何か大きな形になっていった。なんとなく、3Dプリンターで立体が出力される光景に近いと思った。出来上がっていく形は俺だ。横になって、目を閉じている。コスチューム姿だった。ただ、籠手がない。先ほどより格段に形がはっきりしている。横たわっている俺はゆっくりと目を開けた。まだ指の先だけが形になりきらない。ゆっくりと構築されていくところを二人で――二人で? 俺と俺で、黙って眺めている。端から見たら意味のわからない光景だ。いや、今の俺も意味なんてわからないが。指の形が出来上がると、右手の指先から一本だけ糸が飛び出していた。その手を差し出される。一瞬見つめ合う羽目になった。意味がわからないなりに受け取って、その一本だけ飛び出た糸を固く結びつける。そうほどけないように。視線の先の俺が頷いた。起き上がって、そのまま空中に舞い上がっていった。強い光が目の前で弾けた。爆風の余波が俺の髪を揺らす。
というところで目が覚めた。右手を見ると、俺の手だ。ほつれもなにもない。異常なし。
多分だけど、直った。そう思う。
ベストジーニストに報告をすると大事を取って何日か様子を見ることになって、もう何泊か宿直室で夜は眠ることになった。
「結局詳細についてはわからないままだが」
「でも多分、もう起こんねえと思う」
「そうか」
その通りになった。晴れて俺は宿直室から解放された。
誰の何の個性だったのか、というかそもそも個性の影響だったのかは不明なままだ。報告書は一応埋めたが不明点が多すぎて曖昧としたものになった。正直呪いとか言われた方がしっくり来るな、とうっかりこぼしたら、周囲の人間が一斉に唇を噛んだので舌打ちした。そりゃあまあ心当たりは探せばいくらでもある。正面切って言われない限りそう取り合うつもりにはなれないが。
右手を見る。目に見える異常はない。動作確認。右手を握って、開く。爆破をしてひとっ飛び、着地。今日も俺の腕は、手は、身体は思った通りに動く。よし。
変な夢を見たような日々だった。実際そうだったのかもしれない。ああ見えていただけで、実はなにも起きていない、俺と周り、主にベストジーニストが錯覚にやられていたのかも。……そっちの方が大問題だな。
結局、全て世は事もなし、強いてこの話の後日談として挙げるなら、俺の自室の引き出しに、ベストジーニストの書いた『ダイナマイト』のドアプレートが仕舞われたことくらいだ。
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