オールタイムベスト
衣替え。なんとも心躍る響きの言葉である。「お色直し」も捨てがたいが、やはり衣替えには及ばない。何てったって頻度が絶妙だ。半年に一回、一年に二度。これから先も何度だってするだろう。地球の公転は誰しもの元に季節を連れてくる。たとえ本人が季節の風の吹く屋外に出られなかったとしても。
下半期に入ってからこちとら四日間、ベストジーニストは事務所に缶詰になっている。自宅に帰らなくても何とかできる環境をなまじっか整えていたので、生活に不便はない。ただ衣替え途中だったウォークインクローゼットのことが頭の片隅に在るだけだ。
深く信頼を置くサイドキックのひとりがサーバー室の点検中に転んで基幹サーバーの電源コードが切れた。緊急事態を感知し一時的に事務所がロックダウンされ、そこから復旧するのに半日かかった。ジーニアス設立以来最悪級の出来事である。
事が起こったその瞬間、ベストジーニストは自宅で衣替え真っ只中だった。オフを満喫していた。十月一日のことである。緊急アラートが鳴ったので全てを途中のままに事務所に急行した。セキュリティシステムが作動していてしばらく事務所に入れず、確認が取れるまで気が気ではなかった。屋外でパトロール中だったりオフにしていたサイドキックたちを召集して指示を出し、警戒を強めるよう頼んだ。
いざ事務所が開くと、顔色をグリーンデニムのようにしたサイドキックに報告と謝罪を受けた。放っておくとそのまま辞意を出しかねない勢いだったので、現状の復帰の責任者になるよう言って、ベストジーニストも現場、つまりは事務所に入った。
当然データのバックアップはある。ただサイバー攻撃などに備えてより厳重に管理されているので、ベストジーニストの生体認証が必要になる。バックアップの復旧に半日、この時点で日付は超えていた。事の始まりとなったサイドキックは事務所内でも優秀で通っている。矯正の余地ははじめからなかったし、問題を起こすところを見た事がない。物を遠隔で容易く切断する危険な個性を見事にコントロールしきっている頼れるヒーローだ。サーバー室に入れる事務所内でも数少ないひとりでもある。初めての大きなミスにアドレナリンが止まらなくなっているのだろう。ずっと顔色の悪いまま走り回っていた。
直近のデータが飛んでいるのに気がついたのは本人だった。ここ数日の事件事故についての報告書をもう一度作成して提出してもらうよう事務所全体に頼む。もう一つ、今年度上半期の総括をしたファイルが丸ごとなくなっていた。まとめているのはベストジーニストで、事務所設立以来ずっと時間をかけて蓄積を重ねているデータである。ベースとなるデータは公安にも提出している。各事務所に課されているものに、さらに事務所として情報を積んだ所外秘のデータだ。土下座でもせんばかりの勢いで謝るのをなんとか宥めて、またそのファイルを作るための資料を集めるよう頼んだ。
休むよう言っても気が昂っていて無理そうだったので、サイドキックと共に改めて書類を作ることにした。公安に提出が遅れることを連絡したら電話口のホークスは珍しいすねとカラカラ笑っていた。改めて提出し直された報告書にも目を通さなければならない。そう言っている間にも時間は経過し、新たな案件が舞い込む。パトロールなどを割り振り直して他のサイドキックに任せた。ずっと書類と格闘していて脳が糖分を欲している。正直集中が切れているし眠気もある。自分はベストジーニストであるという意地でどうにかしている。サイドキックが心配で様子を見ながら何度かコーヒーを淹れた。
ようやっとアドレナリンが切れて限界が訪れたのだろう。サイドキックが八時間休みますといって仮眠室に入った。それに合わせてベストジーニストも休むことにする。何か忘れているような気がするので、起きたらまたクリーンな頭で資料を見直さなければ。十月四日の夕方頃の出来事である。
寝起きは悪かった。何か手の掛かる夢を見た気がする。起きれば一つ思い出したのだが、ベストジーニストは衣替えの途中だった。思い出すとそれからずっと脳内にクローゼットが浮かんでいる。起きてきた件のサイドキックの顔色はだいぶ良くなっていたので、他の面子もつけてパトロールに行ってもらった。動揺していても優秀さはそう損なわれないことはよく知っているし、多少の気晴らしにはなるだろう。帰ってきたら一日休むよう伝えようと思う。日常業務は元に戻ったし、資料も大方出来上がっている。事態は概ね収まってきていた。
所長デスクで伸びをする。事務所のコアタイムもあとわずかだが、今日中にはなんとかなるだろう。あとは明後日責任者としてこの件に関する報告書を作って貰えばいいはずだ。大事になってしまったが、ベストは尽くした。大丈夫だろう。
内線が鳴った。出ると、受付からだった。曰く、「ダイナマイトが来ていますよ」。
通すよう言うと、爆豪はいつものとおり少し不機嫌そうに見える顔をして、封筒を手にして現れた。
「何かあったか」
「昨日の夕方」
爆豪が言う。
「インターンの書類がジーニアスから返送されてねえって言われてあんたに電話かけたら、あんた喋ってるうちに寝た」
「……」
そういう、夢を見た気がする。夢ではなかったようだが。
「すまない」
「ニュースでジーニアスが一日に事務所一時閉鎖って見てたから、まだやべえのかと思って新幹線で来た」
「……今日学校は?」
「半ドン」
そうか、土曜日か。もう一度、手間をかけさせて悪かった、と謝る。
「シンプルに行方不明で連絡がつかねえのとメールも電話も無視されんのとやり取りの最中に寝落ちされんのとどれがマシか聞きてえか」
「聞き……、いや、聞かせてもらおう」
爆豪はふんと息を吐く。
「無視されんのが最悪。ワースト。連絡がつかねえのもどうかと思う。寝落ちはウケる」
「本当にすまなかった。しかし、大変だったんだぞ」
思わず弱音と言っていいものが漏れた。
「何があったんだよ」
所内機密だがインターン生は機密保持の誓約書を書いているはずだ。言っていいと少し緩んだ脳内が判断する。経緯を聞けば爆豪は納得したように頷いた。
「だから書類返ってこなかったんか。あれFAXだもんな」
「ちょうど事務所の閉鎖中に重なったのだろう。今書いてしまうからその封筒をこちらに」
渡された封筒を開いて中の書面に書面捺印をする。まだ紙ベースなのが面倒だ。データベースでも今回のような面倒は起こり得るが。
「下半期もよろしく」
「おう」
「返事はシュア」
爆豪は顔を顰める。またインターンでうちに来ようと言うのに頑なな男である。
ちょうどパトロールに行っていたサイドキックたちが返ってきた。事はなかったようだ。件のサイドキックも少し表情も柔らかくなった。爆豪がいるのに驚いた顔をする。
「ダイナマイト、今日インターンの日じゃないですよね?」
「所内がやばいって噂で聞いて見にきた。あんたが原因なんだって?」
「おい爆豪」
「その通り。すべて私の責任です。どう詫びればいいのか」
「ミスは起こり得るものだ。あるとすれば仕組みの不十分だ。リカバリは出来得る最善だったし」
ベストジーニストのフォローを聞いて爆豪は横目で頷いた。
「働きすぎなんじゃねえの。休めば」
「もう十分休みましたが……」
「いいや、ここ三日気が気じゃなくて休めなかっただろう。もうピッチリ平常運転に戻れる。もう少し休むといい」
ベストジーニストの言葉に、不安げにサイドキックは頷いた。
「でももう少し書類ありますよね?」
「俺が引き継いでやるよ。見てみたかったんだよな、あの辺のファイル」
爆豪が言えば、少し力が抜けたようだった。
「一度着たら休ませるのが長持ちのコツだ。君はよくやってる。よくやった。明後日に報告書を作ってもらえるか」
「……わかりました。休みますね。助けに来てくれてありがとう、ダイナマイト」
「大・爆・殺・神!」
「ありがとう、大・爆・殺・神ダイナマイト」
爆豪は片頬を上げて頷いた。丸くなったものだと思う。
サイドキックが帰ったのを見届けて、また書類に取り掛かる。あとは仕上げだ。
「あんたは休まねえの」
「公安に出す分は今日中にやってしまいたい。爆豪、その辺のファイルは確認済みだから棚にしまってきてもらえるか」
「ホークス体制そんな厳しいのかよ」
ファイルを整理しながら問いかけられて、思わず本音が溢れた。やはり少し疲れているのかもしれない。やっぱりクローゼットのことが頭の片隅にずっとあるのが良くない。
「ホークスに遅くなってもいいですよと言われると煽られているような気がしてしまってな」
「そんな理由?」
「ああ」
呆れたような顔をされる。実際呆れた理由だと思う。
「さっきまではそれがベストだと思っていたんだが。今少し焦りが緩んで落ち着いてくると違って見えるな」
「あんた何年その名前名乗ってんだよ!」
「二十年かな。乗ってきたからファイルはこのまま仕上げてしまうが」
名は願い。そしてその名を名乗るということは、一つの宣誓だ。何が人をヒーロー足らしめるのか。ヒーローであろうとすることと、それを認められること。
「ベストを尽くすっていうのは難しいんだ。『ベスト』な振る舞いは、どこでだって通じる答えのようなものはない。ただ一つの正解があるとするなら、常に、どこでも、何にでも、最善を、模索し続けるということだ。さっきまでの私は方向が少し違っていた。こうやってフィードバックを繰り返していく他にない」
「そりゃまた難儀な願いなこって」
「ああ。だから名乗るんだ。いつだって忘れないように」
その名前で呼ばれるとき、その名前を名乗るとき、ひとつ姿勢を確かにする。そうあろうと思い出す。ヒーローネームというのはそういうものだ。
爆豪は当然のように手際よく書類を仕分けていく。ベストジーニストも資料が揃ってあとは前書いたことと同じことを書くだけだ。少し余裕が出て、思い出してしまった。
「そういえば一日に秋物のデニムを陰干し……してきたんだ」
「東京、ここ一週間で三日は雨降ってねえっけ」
外に出ていないから実感がないが、日常業務記録の天候欄には確かに雨の文字を見た記憶がある。黙ったベストジーニストに爆豪が問いかけた。
「ハウスキーパーとかいれてねえの」
「契約はしている。連絡する余裕がなかった」
あーあ、と大きな声で言われる。
「そりゃあ、ベストへの道は長い。あんたいい名前つけたな」
けらけら笑う爆豪を前に、頷く他なかった。
「褒めてもらえて嬉しいよ」
まったくヒーローをやるのは大変なことだ。これが好きだ。ずっと続けたいと思う。ベストだと、胸を張れる自分になるために。そうあるために。
作業を始めて数時間経って休憩を入れる。もう夜だからとカフェインレスのコーヒーを淹れて戻ると、爆豪が目を閉じて座っていた。随分と静かだ。
思わず目視で胸元を見て、呼吸を確かめた。ゆっくりと動いている。
目線を上げると、こちらを見ている。目が合った。
「負けたとこばっか覚えてんじゃねえよ。すぐにナンバーワンになって払拭してやる」
見てろよ、と爆豪は言う。爆豪と話していると、いつだって未来は開けていると思うことがある。
「そうか。それは長生きしないとな」
「んな待たせねえから」
今日はこちらに泊まるつもりらしい。仮眠室のパスを渡しておく。
「そういやさっきファイル流し見してて気がついたんだが、あんた今日誕生日なのか」
すっかり忘れていた。
「そう言えばそうだ。衣替えのためのオフは、誕生日休暇の名目で取った有給だったな。潰れてしまったが」
「誕生日休暇なんてあんの」
「うちの事務所はホワイトデニムだよ」
繁忙期と重なることも考えて、前後三週間くらいはその名目で有給を取れるようにしてある。
「かわいそーに。せっかくの誕生日に」
爆豪がにやにやと言う。かわいそう、とかその手の言葉を柔らかく使える性質ではないから、今のは完全に揶揄だ。
「明日休みだから衣替え手伝ってやろうか。誕生日プレゼントとして」
「それをやるとおそらく私が雄英に叱られてしばらく出禁になるな」
へえ、と知らなかったように頷く。ことによっては『叱られる』ではなく何らかの処分を受ける気がする。イレイザーヘッドも過保護だろうし。
「じゃあいいもの見せてやる」
廊下に連れ出された。ついでに照明を暗くされる。事務所のコアタイムはもう過ぎているし、完全には消していないからまあいいかと思って見ていた。最悪責任者はベストジーニストなので、事務方に怒られるくらいだ。
爆豪がリハビリに励んでいる右手を差し出して、広げて見せた。
ぱち、と音がして、小さな爆破が手のひらの上で弾けた。ぱち、ぱち。
「最近やっとできるようになってきた」
爆豪が得意げに言う。光るたびに、顔が照らされて眩しかった。少し寝不足の目には光が拡散してむやみやたらと美しい。
「見せるのあんたが三人目。医者、出久、あんた」
もしかしたら、と思う。
もしかしたら、自分の誕生日の最高の思い出の一つになるのかもしれない、と、目を細めた。忘れずにいようと思う。
下半期に入ってからこちとら四日間、ベストジーニストは事務所に缶詰になっている。自宅に帰らなくても何とかできる環境をなまじっか整えていたので、生活に不便はない。ただ衣替え途中だったウォークインクローゼットのことが頭の片隅に在るだけだ。
深く信頼を置くサイドキックのひとりがサーバー室の点検中に転んで基幹サーバーの電源コードが切れた。緊急事態を感知し一時的に事務所がロックダウンされ、そこから復旧するのに半日かかった。ジーニアス設立以来最悪級の出来事である。
事が起こったその瞬間、ベストジーニストは自宅で衣替え真っ只中だった。オフを満喫していた。十月一日のことである。緊急アラートが鳴ったので全てを途中のままに事務所に急行した。セキュリティシステムが作動していてしばらく事務所に入れず、確認が取れるまで気が気ではなかった。屋外でパトロール中だったりオフにしていたサイドキックたちを召集して指示を出し、警戒を強めるよう頼んだ。
いざ事務所が開くと、顔色をグリーンデニムのようにしたサイドキックに報告と謝罪を受けた。放っておくとそのまま辞意を出しかねない勢いだったので、現状の復帰の責任者になるよう言って、ベストジーニストも現場、つまりは事務所に入った。
当然データのバックアップはある。ただサイバー攻撃などに備えてより厳重に管理されているので、ベストジーニストの生体認証が必要になる。バックアップの復旧に半日、この時点で日付は超えていた。事の始まりとなったサイドキックは事務所内でも優秀で通っている。矯正の余地ははじめからなかったし、問題を起こすところを見た事がない。物を遠隔で容易く切断する危険な個性を見事にコントロールしきっている頼れるヒーローだ。サーバー室に入れる事務所内でも数少ないひとりでもある。初めての大きなミスにアドレナリンが止まらなくなっているのだろう。ずっと顔色の悪いまま走り回っていた。
直近のデータが飛んでいるのに気がついたのは本人だった。ここ数日の事件事故についての報告書をもう一度作成して提出してもらうよう事務所全体に頼む。もう一つ、今年度上半期の総括をしたファイルが丸ごとなくなっていた。まとめているのはベストジーニストで、事務所設立以来ずっと時間をかけて蓄積を重ねているデータである。ベースとなるデータは公安にも提出している。各事務所に課されているものに、さらに事務所として情報を積んだ所外秘のデータだ。土下座でもせんばかりの勢いで謝るのをなんとか宥めて、またそのファイルを作るための資料を集めるよう頼んだ。
休むよう言っても気が昂っていて無理そうだったので、サイドキックと共に改めて書類を作ることにした。公安に提出が遅れることを連絡したら電話口のホークスは珍しいすねとカラカラ笑っていた。改めて提出し直された報告書にも目を通さなければならない。そう言っている間にも時間は経過し、新たな案件が舞い込む。パトロールなどを割り振り直して他のサイドキックに任せた。ずっと書類と格闘していて脳が糖分を欲している。正直集中が切れているし眠気もある。自分はベストジーニストであるという意地でどうにかしている。サイドキックが心配で様子を見ながら何度かコーヒーを淹れた。
ようやっとアドレナリンが切れて限界が訪れたのだろう。サイドキックが八時間休みますといって仮眠室に入った。それに合わせてベストジーニストも休むことにする。何か忘れているような気がするので、起きたらまたクリーンな頭で資料を見直さなければ。十月四日の夕方頃の出来事である。
寝起きは悪かった。何か手の掛かる夢を見た気がする。起きれば一つ思い出したのだが、ベストジーニストは衣替えの途中だった。思い出すとそれからずっと脳内にクローゼットが浮かんでいる。起きてきた件のサイドキックの顔色はだいぶ良くなっていたので、他の面子もつけてパトロールに行ってもらった。動揺していても優秀さはそう損なわれないことはよく知っているし、多少の気晴らしにはなるだろう。帰ってきたら一日休むよう伝えようと思う。日常業務は元に戻ったし、資料も大方出来上がっている。事態は概ね収まってきていた。
所長デスクで伸びをする。事務所のコアタイムもあとわずかだが、今日中にはなんとかなるだろう。あとは明後日責任者としてこの件に関する報告書を作って貰えばいいはずだ。大事になってしまったが、ベストは尽くした。大丈夫だろう。
内線が鳴った。出ると、受付からだった。曰く、「ダイナマイトが来ていますよ」。
通すよう言うと、爆豪はいつものとおり少し不機嫌そうに見える顔をして、封筒を手にして現れた。
「何かあったか」
「昨日の夕方」
爆豪が言う。
「インターンの書類がジーニアスから返送されてねえって言われてあんたに電話かけたら、あんた喋ってるうちに寝た」
「……」
そういう、夢を見た気がする。夢ではなかったようだが。
「すまない」
「ニュースでジーニアスが一日に事務所一時閉鎖って見てたから、まだやべえのかと思って新幹線で来た」
「……今日学校は?」
「半ドン」
そうか、土曜日か。もう一度、手間をかけさせて悪かった、と謝る。
「シンプルに行方不明で連絡がつかねえのとメールも電話も無視されんのとやり取りの最中に寝落ちされんのとどれがマシか聞きてえか」
「聞き……、いや、聞かせてもらおう」
爆豪はふんと息を吐く。
「無視されんのが最悪。ワースト。連絡がつかねえのもどうかと思う。寝落ちはウケる」
「本当にすまなかった。しかし、大変だったんだぞ」
思わず弱音と言っていいものが漏れた。
「何があったんだよ」
所内機密だがインターン生は機密保持の誓約書を書いているはずだ。言っていいと少し緩んだ脳内が判断する。経緯を聞けば爆豪は納得したように頷いた。
「だから書類返ってこなかったんか。あれFAXだもんな」
「ちょうど事務所の閉鎖中に重なったのだろう。今書いてしまうからその封筒をこちらに」
渡された封筒を開いて中の書面に書面捺印をする。まだ紙ベースなのが面倒だ。データベースでも今回のような面倒は起こり得るが。
「下半期もよろしく」
「おう」
「返事はシュア」
爆豪は顔を顰める。またインターンでうちに来ようと言うのに頑なな男である。
ちょうどパトロールに行っていたサイドキックたちが返ってきた。事はなかったようだ。件のサイドキックも少し表情も柔らかくなった。爆豪がいるのに驚いた顔をする。
「ダイナマイト、今日インターンの日じゃないですよね?」
「所内がやばいって噂で聞いて見にきた。あんたが原因なんだって?」
「おい爆豪」
「その通り。すべて私の責任です。どう詫びればいいのか」
「ミスは起こり得るものだ。あるとすれば仕組みの不十分だ。リカバリは出来得る最善だったし」
ベストジーニストのフォローを聞いて爆豪は横目で頷いた。
「働きすぎなんじゃねえの。休めば」
「もう十分休みましたが……」
「いいや、ここ三日気が気じゃなくて休めなかっただろう。もうピッチリ平常運転に戻れる。もう少し休むといい」
ベストジーニストの言葉に、不安げにサイドキックは頷いた。
「でももう少し書類ありますよね?」
「俺が引き継いでやるよ。見てみたかったんだよな、あの辺のファイル」
爆豪が言えば、少し力が抜けたようだった。
「一度着たら休ませるのが長持ちのコツだ。君はよくやってる。よくやった。明後日に報告書を作ってもらえるか」
「……わかりました。休みますね。助けに来てくれてありがとう、ダイナマイト」
「大・爆・殺・神!」
「ありがとう、大・爆・殺・神ダイナマイト」
爆豪は片頬を上げて頷いた。丸くなったものだと思う。
サイドキックが帰ったのを見届けて、また書類に取り掛かる。あとは仕上げだ。
「あんたは休まねえの」
「公安に出す分は今日中にやってしまいたい。爆豪、その辺のファイルは確認済みだから棚にしまってきてもらえるか」
「ホークス体制そんな厳しいのかよ」
ファイルを整理しながら問いかけられて、思わず本音が溢れた。やはり少し疲れているのかもしれない。やっぱりクローゼットのことが頭の片隅にずっとあるのが良くない。
「ホークスに遅くなってもいいですよと言われると煽られているような気がしてしまってな」
「そんな理由?」
「ああ」
呆れたような顔をされる。実際呆れた理由だと思う。
「さっきまではそれがベストだと思っていたんだが。今少し焦りが緩んで落ち着いてくると違って見えるな」
「あんた何年その名前名乗ってんだよ!」
「二十年かな。乗ってきたからファイルはこのまま仕上げてしまうが」
名は願い。そしてその名を名乗るということは、一つの宣誓だ。何が人をヒーロー足らしめるのか。ヒーローであろうとすることと、それを認められること。
「ベストを尽くすっていうのは難しいんだ。『ベスト』な振る舞いは、どこでだって通じる答えのようなものはない。ただ一つの正解があるとするなら、常に、どこでも、何にでも、最善を、模索し続けるということだ。さっきまでの私は方向が少し違っていた。こうやってフィードバックを繰り返していく他にない」
「そりゃまた難儀な願いなこって」
「ああ。だから名乗るんだ。いつだって忘れないように」
その名前で呼ばれるとき、その名前を名乗るとき、ひとつ姿勢を確かにする。そうあろうと思い出す。ヒーローネームというのはそういうものだ。
爆豪は当然のように手際よく書類を仕分けていく。ベストジーニストも資料が揃ってあとは前書いたことと同じことを書くだけだ。少し余裕が出て、思い出してしまった。
「そういえば一日に秋物のデニムを陰干し……してきたんだ」
「東京、ここ一週間で三日は雨降ってねえっけ」
外に出ていないから実感がないが、日常業務記録の天候欄には確かに雨の文字を見た記憶がある。黙ったベストジーニストに爆豪が問いかけた。
「ハウスキーパーとかいれてねえの」
「契約はしている。連絡する余裕がなかった」
あーあ、と大きな声で言われる。
「そりゃあ、ベストへの道は長い。あんたいい名前つけたな」
けらけら笑う爆豪を前に、頷く他なかった。
「褒めてもらえて嬉しいよ」
まったくヒーローをやるのは大変なことだ。これが好きだ。ずっと続けたいと思う。ベストだと、胸を張れる自分になるために。そうあるために。
作業を始めて数時間経って休憩を入れる。もう夜だからとカフェインレスのコーヒーを淹れて戻ると、爆豪が目を閉じて座っていた。随分と静かだ。
思わず目視で胸元を見て、呼吸を確かめた。ゆっくりと動いている。
目線を上げると、こちらを見ている。目が合った。
「負けたとこばっか覚えてんじゃねえよ。すぐにナンバーワンになって払拭してやる」
見てろよ、と爆豪は言う。爆豪と話していると、いつだって未来は開けていると思うことがある。
「そうか。それは長生きしないとな」
「んな待たせねえから」
今日はこちらに泊まるつもりらしい。仮眠室のパスを渡しておく。
「そういやさっきファイル流し見してて気がついたんだが、あんた今日誕生日なのか」
すっかり忘れていた。
「そう言えばそうだ。衣替えのためのオフは、誕生日休暇の名目で取った有給だったな。潰れてしまったが」
「誕生日休暇なんてあんの」
「うちの事務所はホワイトデニムだよ」
繁忙期と重なることも考えて、前後三週間くらいはその名目で有給を取れるようにしてある。
「かわいそーに。せっかくの誕生日に」
爆豪がにやにやと言う。かわいそう、とかその手の言葉を柔らかく使える性質ではないから、今のは完全に揶揄だ。
「明日休みだから衣替え手伝ってやろうか。誕生日プレゼントとして」
「それをやるとおそらく私が雄英に叱られてしばらく出禁になるな」
へえ、と知らなかったように頷く。ことによっては『叱られる』ではなく何らかの処分を受ける気がする。イレイザーヘッドも過保護だろうし。
「じゃあいいもの見せてやる」
廊下に連れ出された。ついでに照明を暗くされる。事務所のコアタイムはもう過ぎているし、完全には消していないからまあいいかと思って見ていた。最悪責任者はベストジーニストなので、事務方に怒られるくらいだ。
爆豪がリハビリに励んでいる右手を差し出して、広げて見せた。
ぱち、と音がして、小さな爆破が手のひらの上で弾けた。ぱち、ぱち。
「最近やっとできるようになってきた」
爆豪が得意げに言う。光るたびに、顔が照らされて眩しかった。少し寝不足の目には光が拡散してむやみやたらと美しい。
「見せるのあんたが三人目。医者、出久、あんた」
もしかしたら、と思う。
もしかしたら、自分の誕生日の最高の思い出の一つになるのかもしれない、と、目を細めた。忘れずにいようと思う。
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