短文ノック

 人が行き交う駅構内で、爆豪が袴田の目の前で私用携帯を落として壊した。それだけでも驚嘆に値するのに一瞬後に業務用端末が鳴って呼び出しがかかった。爆豪はあっというまに目的地に向かって飛んでいった。デート中だった袴田と落とした携帯をそのままに。
 とりあえず拾う。落とすだけならないことはないが、ロック画面すらつかない。こうも壊れる勢いで落とすとは。本人ではないからロックの解き方も知らない。持っていたのは右手だっただろうか。懸命なリハビリの果てに、爆豪は両手バランスよく鍛え上げられた状態になって戻ってきた。少し薄くなった身体は研ぎあげられた刃物のようなシャープさと機能性を持っている。それでも今でも左右のバランスは気をつけていることを知っている。
 しまった、見逃したな、と袴田は思う。落とした時にどんな顔をしていたかよく見ておけばよかった。ショックを受けていないといいが。当然ヒーローとしてすぐに切り替えられるのだろうけれど。
 この場にずっといるわけにもいかないし、業務用端末に私用の連絡を入れるのは緊急時以外避けなくてはならない。
 迷った末に袴田は動き出した。

 爆豪に駅の掲示板のことを教えたのは袴田だった。待ち合わせ場所だとか、符牒を書いておくのだという。そうすれば伝えたい相手だけにそれを伝えられる。個人デニムだからあまり注視するのも良くないが、悪事についての伝言ということもあり得るから、と。それを思い出して、爆豪が袴田の残した伝言に気がつくのは事件を始末して元いた場所に戻ってからしばらくしてからだった。自分がスマートフォンにどれだけ頼っていたか知る。
 伝言は喫茶店の名前だった。カフェ、とつくからには喫茶店なのだろう。そもそもその店を知らない。暗号の可能性を考えたがちょうどいい鍵があるわけでもなかった。そのカフェを探して歩いた。土地勘がないのだ。袴田の案内で来た場所だったから。遠目でこちらをチラチラ見てくる相手を二人ほど捕まえてようやく店の住所がわかった。人通りが少ない。もう夜だ。わざわざ店の営業時間を調べてくれた一人は、もう閉店みたいですよ、と恐る恐るといった調子で爆豪に言った。助かった、とありがとうを早口で言って店に向かう。
 
 八時二十分。八時閉店の店が作業を終わらせて外の電気も消す頃だ。ちょうど一つ周りが暗くなって、道がわかりにくくなる。喫茶店も閉店していて、袴田はその店の前にいた。走ってくる爆豪は珍しく息を切らせていた。
「お疲れ様」
「あんたもっとわかりやすいところにいてくれよ」
「ここ、地元じゃ有名なカフェなんだがね。君と一緒に来てみたかった」
「そりゃ悪かったな」
「悪くないさ。ヒーローの仕事だ。かっこいいよ」

 袴田がヒーローを引退してからしばらくが経つ。業務用の端末ももう持たなくなった。今でも特別講師として後進に指導という名の矯正を施しているところはよく見るが。落とした私用携帯を渡された。画面が割れた上にうんともすんとも言わない。新しく買わなければ。データの引き継ぎは正常にできるのだろうか、いや、そんなことより。
「急に結婚しようかってなんのつもりだテメー!」
「時間かかったな。まさかスマホを取り落とすほど驚くとは思わなかった。いい時期かなと思ったんだが」
「あっ、んな人混みの中で? 聞き間違いじゃねえんだな?」
「そうだ」
 ちょうどそのタイミングで、喫茶店の外看板の電気が一斉に消えた。残光ゆっくりと収まっていく。落差で一瞬視界が消えた。表情が見えにくくなった。
「結婚しないか?」
 声だけが明瞭だ。輪郭を探ろうと伸ばした手が掴まれた。体温がある。
「じゃあ」
 じゃあ、何だろう。素直にイエスと返すだけでよかったのに、それができなかった。
「じゃあ俺の新しいスマホ買ってくれ」
「いいぞ。家族割にするか」
「キャリア変えるのはやだ」
「じゃあ私が乗り換えるかな」
 ショップもすでに閉店している時間だろう。掴まれた手に左手の薬指をなぞられて、何かと思えば、赤い糸が細やかに結び付けられていた。
「赤い糸なら小指じゃねえの」
「エンゲージリングが用意できなかったんだ。思いついてすぐ言ってしまったものだから」
「思いつきなのかよ!」
 赤い糸の供給源は袴田のジャケットのステッチからだった。それ俺にもちょうだい、と言うと少し長めに糸が出てきた。袴田の左手を掴んで、薬指に慎重に結びつける。袴田は暗闇の中で少し嬉しそうに微笑んだ。
「エンゲージスマホは明日かな」
「なんでもいいわ。あんたに伝わる手段があるなら」
「共通言語はこれからもいくらでも増やせるよ」
 あの伝言でもおまえはここに来られたんだから、どうなったってまた出会えるよ、と袴田は言う。
 使えなくなったスマホからスムーズに引き継ぎができないなら、連絡先の一番はじめは袴田になるのかもしれない。今渡せる特別はそれくらいだな、と思う。
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