落ちれば椿

 
 ぽとり。 

 恋は落ちるもの。たかが慣用表現である。
 爆豪には何へ落ちたつもりもなければ何から落ちたつもりもない。恋とはどんなものかしら。落ちると言うからには、恋とは井戸や落とし穴のようなものを思わせたのだろうか。それとも塔や屋上のような高所か。爆豪は垂直方向の移動だってその個性で当然にこなせる。落ちる、落ちる、橋が落ちる、色が落ちる、鮮度が落ちる、意識が落ちる、仮免試験に落ちる。落ちっぱなしというのはなんとも気分が悪いものだ。井戸でも仮免でも、落ちたのなら取り返さなければ納得できない。上ってみせるし受かってみせる。とはいえそんな仮定に意味はなく、爆豪が落ちているのは井戸でもなんでもない。ただの、ありふれた、恋である。ちなみに本人は認めていない。


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 はら、はらり。

 今年は桜が遅かった。五月になってようやく散りきった花弁がまだそこかしこに貼り付いている。雨でも降れば流されるだろうが、しばらくは晴れの予報である。風で吹き上げられた様子はどこか幻想的で美しい。その花吹雪の真ん中を突っ切る。口に入ったら嫌だと黙って足早に通り抜ければ、きゃらと華やいだ声がして、爆豪は視線を傾ける。
「今すうっごい絵になってたで爆豪くん。シャッターチャンスだった! チャンス逃したけど」
 麗日だ。スマートフォン片手に笑っている。私服姿に見えるが、中にコスチュームを着ているのが、襟口からわかる。
 卒業したら顔を会わせなくなる相手も多いだろうと思っていたこともあるのに、存外会う。目論んでいることがあるからそうもなる。チャットグループでのメッセージも取り留めもないことが絶え間なくやり取りされている。いつか落ち着くのだろうが、かなり先のように思える。寮生活の反動だろうか、ホームシックならぬ寮シックとでもいうのか。
 急激にばっさり縁が切れてしまうよりはずっといい。同じ戦いを生き抜いた仲間だ。信頼もしている。ひとりのことに全員巻き込むべきだと思う程度には。
「撮ったんかよ」
「撮った! ぶれた!」
 こちらに向けられたスマートフォンの画面を見れば、確かにピントが一番近くの花びらに合っていて爆豪の像はぼやけている。歩いている最中だったから姿勢も不思議だ。
「んなの消せよ」
「グループに上げるわ」
「何でだよ」
「元気でしたよーって。グループでしゃべらんから、爆豪くん」
「既読つけてんだからいいだろーが」
「送信しちゃえ」
「おい」
 ピコンと通知音が鳴る。
「爆豪くんグループ通知オンにしとるんや」
「いいだろ別に」
「すごくいいと思う」
 それじゃあね、と麗日は足取り軽く去っていった。コスチュームがあの色だから、桜はよほどそっちの方が似合うだろうと思う。その後ろ姿は絵になるものだったが写真は撮らなかった。
 歩く。どこもかしこも桜だらけだ。時たまぼんやりと花を眺める人がいる。それを横目に移動した。
 所内に入ると、ベストジーニストが今まさにパトロールから帰ったところだった。おや、という呟きと共に手招きされる。
「何だよ」
「髪に花びらがついている」
 軽く髪に触れられて、差し出された手には確かに薄いピンクの柔らかな花弁が乗っていた。このヒーローに髪を触られると、最初の職場体験を思い出す。目の前の花びらはほんのり透けている。出来心で、ふうっと吹き上げる。驚いたのか手が少し引かれた。
 はらり。
 落ちていく。
 空気の中をゆらゆらと漂って、花弁はデスクの上に着地した。身じろぎするたび生まれる空気の流れに震えている。なんとも心許ない存在だ。
 それをベストジーニストが拾い上げた。
「押し花にでもしようかな」
「花びら一枚で?」
「ああ。ラミネートしたら栞か何かに出来るだろう」
 柔らかくすぐに千切れてしまいそうな花弁は、そうして紙に挟まれ、所長管轄のファイル群に飲み込まれた。
 引き継ぎを済ませて、爆豪も仕事に取りかかる。すぐにあの小さな花びらのことは意識から消えていた。



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