傷跡
まだ高校を卒業したばかりのある時のことだった。カウンセリングについて勉強していて、聞いた講演の帰りがけに小さな講演のブランコでたそがれていた。ようやっと、帰るか、と気持ちが落ち着く頃には、周りは夕暮れ色をしていた。ふと違和感に気がついた。
陽炎? いや、何か、変だ。駆け出した。公園を出てすぐのそこにいたのは、制服を着た女の子だった。
ブロック塀が壊れていて、その場にしゃがみ込んでいた。大丈夫? と声をかけた。
その子はふっと顔を上げて、驚いた表情をした。私のことを知っていたんだろう。そして、大丈夫です! と笑った。ずいぶん明るい声だった。
大丈夫そうには見えなかった。私は声掛けの言葉を間違った。目は一瞬合ったけど逸らされた。
すみません、こんなところで、しゃがみこんじゃって、貧血かなあ、とその子は言葉を続けた。ずっと口角を上げていた。背後には崩れたブロックで危険だった。立ち上がろうとして、手首が見えた。まだ新しい傷が、手首に細く、赤いラインを描いていた。一瞬目線がはっきりとそこに留まってしまって、その子は私が気がついたことに気づいた。失態だ。手首を私の目線から隠して、その子は言った。
「あっ、大丈夫です。このくらいではね、死んだりしないの。だから大丈夫だよって、お医者さんが言ってた。私大丈夫だよ」
私が何か言う前にその子は大丈夫、という言葉で、私の感情を拒絶する。判で押したような笑いかたをしている。あはは、と笑った。笑い声がやけに響いた。大丈夫の鎧はもうボロボロで、雨もしのげやしないだろうに。
「でもとても辛そうに見える」
私の口から溢れたのはそんな言葉だった。言ってすぐやってしまった、と思う。その子は表情を落とした。
「何も知らないでしょ」
崩れたコンクリート片が浮き上がった。ビュンと加速しながら彼女の回りを巡りだす。避けながら中心部に向かう。
まず睨み付けられた。『敵』という呼称はまだ使われていて、それは主に故意で個性による犯罪を犯す、つまり人や物を傷つけようとする人を指すのだけど、それに照らせばそこにいた彼女は敵だった。
一瞬だけ驚いた自分が嫌だ。ティーンの女の子にだって社会に反逆する。遠目で個性事故だと判断しかけた。私のミスだ。
近づこうとすると襲ってくるコンクリートブロックをいなして接近する。増強でもしていない限り、訓練していない個人の個性には対応のしようがあることが多い。近接戦闘まで持ち込んでしまえば押しきれた。近接は苦手じゃない。鍛えただけの動きはできる。
私に押さえつけられた状態で、彼女は言った。
「こんな世界壊れちゃえよ!」
どこまでも切実な叫びで。
「もっとマシな世界にする!」
思わず叫び返した。
「もう遅いよ!」
「遅くなってごめん、あなたを止める。これから、あなたが、あなたが息がしやすくなるように、する。するから」
警察を呼ぶべきだってわかってた。私はヒーローだ。でも、押さえつけた体が暖かかった。そのまま必死に抱きしめて、大丈夫、大丈夫、と言うと、彼女は泣き始めた。ぐしゃぐしゃの声で話してくれたのは、まとめてしまえば抑圧された幼少期、ヤングケアラーとしての役割、そういう話だった。でもそんな大枠で話していいことじゃなくて、個人の、一人の女の子の苦しみだった。
警察には個性事故として話を通した。私には傷一つついていなかったから、それで通った。彼女にはこっそり連絡先を渡した。
その頃には既に個性カウンセリングの拡充について各所に訴えていたところで、今はその時よりは個性カウンセリングの網の目は緻密になった。でも完全じゃない。個性以外の悩みをキャッチするところも必要だし。
旧来の画一的な診断じゃ一つの面しか見られない。もっと人間は多面的だ。ふるい落とされしまった人たちの数を絞ることしか出来ないんじゃダメだ。誰かは溢れてしまう。だから私たちは、その手を掴みに行くんじゃなくちゃダメだ。
救われたくない人に余計なお世話をするくらいのつもりでいなくちゃ、あなたのことは救えない。救うっていうのはおこがましいっていうのは知ってるけど、それでもこの手を伸ばしたいんだ。あなたの手を掴みたいんだ。お願い。
連絡は来なかったけど、季節が一回りするころ、同じ公園で彼女に会った。
「あ……、お久しぶりです」
「久しぶりだね」
「あの時はごめんなさい」
「私に謝らなくていいよ。大変だったでしょ」
「じゃあ……ありがとう。話を聞いてくれて」
「それだけしかできなくてごめんね」
「それが、私には、ウラビティ相手にしかできなかったから」
そっか、と噛みしめた。
「間に合ってよかった」
気がつくと私は泣いていて、彼女は本当に困った顔をしてハンカチを貸してくれた。ごうごう、自分の中を流れる血の音が聞こえる。
誰かに手が届いたことは、救えなかった誰かを帳消しにしたりはしない。彼女が笑ってくれたのは覚えているけど、死んじゃったことには変わりない。忘れられない。少しも。傷痕は消えない。ひどいなあ、ヒミコちゃん。
その日、夢を見た。空中ブランコに足をかけて私とヒミコちゃんは揺れていた。
手が届く。触れる。それでも、それだけじゃ、捕まえられない。私はなぜか個性のことを忘れていて、恐怖しながらえいっと脚を解く。解放されて、浮遊感。無限にも思えるわずかな時間があって、それから、わたしが両腕を広げると、彼女がそこに飛び込んでくる。ぎゅっと抱きしめる。髪から多分シャンプーの匂いがする。それから鉄の匂いも。触れているところがあたたかい。ごうごうと血がめぐっている。彼女の中にも、私の中にも。着地はいつまでもしなかった。
目が覚めてからちょっと泣いた。寒い、と思ってすぐ、さみしい、だなって考え直す。夢はあまりにもお気楽でハッピーな夢で、願望を夢見たとしか思えなくて、それでもそういう宇宙があって、それがザッピングしてテレビの画面にチラッと写ったみたいに、私に見えたんだったらいいなと思った。抱きしめた感触は少し残っていた。