ゴーストライクユー
1 .
眠れない。爆豪はそっと部屋から抜け出し、階段を降りた。隣室でのどんちゃん騒ぎは階下にまで響いている。
寮の悪いところだ。今年の寮監はプライベートの尊重とやらを掲げているから、他の寮生に言われない限り生活の荒っぽい寮生に苦言を呈することはない。直訴しに行って妙に覚えられるのも面倒だった。随分おっとりしているからあの煩さの中でもぐっすり眠っているのではないだろうか。隣室は日付が変わってもしばらくあの調子だろう。暗闇の中目に刺さる夜間灯の光を避けて、そのまま寮を出た。入学生募集のパンフレットでは寮での規則正しい生活を謳っていても結局はこんなものだ。早寝早起きのやつは少数だし、夜中に騒ぐやつはいるし、勝手に抜け出すことも容易だ。近年出来た女子寮はセキュリティが厳しく侵入者でもあれば警報が鳴り響くらしいが、男子寮は不審者の三人くらいなら素通しにするだろうと思う。
爆豪はどこへ行くともなしに歩を進めた。敷地は十人居れば十人同意するであろうだだっ広さだ。広ければいいってものじゃないと遅刻魔の同寮生はよく嘆く。本校舎まで徒歩で十五分くらいだが、そちらに行くのも気が向かない。
夜分の景色は同じ場所でも昼間とは違って見える。誰が作ったのかも何が表現されているのかもわからない青銅像が遠くの夜間灯を受けてうっすらと白っぽく光っていた。彫像の向こうの空はほぼ黒色に見えた。曇っているのか星も月も見えない。風が吹いてざわざわと暗い木々が揺れる。もうすぐ夏だと言うのに、首元に通った風が湿っていて冷たい。雨でも降りそうなのかもしれない。爆豪は首を竦めた。
いつもは直進する角で曲がってみる。道は細く、すぐにまた曲がっていた。見通しが悪い。ただでさえ暗いので、先はほとんど消えているように見えた。
すっきりしない。立ち止まる。何周かいつものコースを走ってから戻ろうか。しかし、敷地内ならば補導されることはないとしても、警備員に見つかるおそれがある。仕方なく寮の部屋に戻ろうと踵を返した、その瞬間だった。
身体がビクと強張る。今、誰かが地面を踏むような音が聞こえた。青っぽいものが視界の隅にうつった気がする。
警戒しながら後ろの気配を探る。振り返るのは声をかけられてからでいい。しかし、こんなところに誰が? 居るとしたらそれこそ寮監や寮父ではないだろうか。脳裏でなぜ今外にいるのか聞かれた場合の言い訳を探す。見つかるのは不味い。しばらく呼びかけられるのを待っていたが声はなく、爆豪はようよう後ろを振り返った。
暗い闇の中には常緑樹の林の続くばかりである。一周見回してみたが、誰もいなかった。
力が抜ける。どうせ猫かなにかだろう。生徒が勝手に餌をやっているやつが何匹だかいると聞いたことがある。
背筋が寒くなるのを無視して、爆豪は寮への道を戻った。一瞬だけ見えた影はまるで背の高い人間のようだったことに気が付かないふりをして。
爆豪の通う――正確には通っていない、暮らしているこの学校は、都会から隔絶された山奥に位置する。かつては完全男子校だったが、三年前より女子の入学を受け付け、共学校になった。案の定女子の入学希望者は少なく、クラスに何人かいるクラスといないクラスとがある。女子同士はいつも仲がよく密に情報を共有しているところがよく見られる。爆豪としてはよくこの学校に来ようなんて思ったなというのが正直なところだ。建てたばかりの新しい女子寮にはそれだけの魅力があったのだろうか。それともこのやたら凝った制服か。
歴史は長い。長いだけだ。昔は名の通った学校だったというが疑わしい。パブリックスクールのようなものを作ろうとしたのだろうが、現状とりたてて名門というわけでもなければ逆に荒れているというわけでもない。そもそも三年制だ。進学実績はそれなり。制服のデザインはやたらと洒落ていてほとんどの生徒がやや似合わない。施設だけはむやみに多い。乗馬場はあるが馬はいないし馬術部もない。劇場があるがほとんど演劇部の根城と化し文化祭の日くらいしか観客を入れることがない。植物園がどこにあるのか生徒の半分は知らない。講堂は二つあるが片方しか使わない。万事その調子だ。全寮制学校そのものに憧れを持つ一部の生徒や職員によってイベント事にそれらしい出来事を演出されることはある。やたらと全校生徒を集めた会が開かれるのもその一環だろう。生徒には名家の子息のようなやつもいることにはいる。しかし、生徒のほとんどはどこにでもいる男子高校生だ。特別なことに憧れているだけの。爆豪も含めて、大抵の生徒は退屈している。
全寮制ということは朝から夜まで他の生徒と一緒に生活しているということだ。それなりに息苦しい。部屋では地上波は見れないし、規則で持ち込み禁止のものも多いから、寮生の娯楽は自然自分たち生徒であるとか学校そのものであるとかに向く。人間関係が最上級のトピックになるのは主婦の井戸端会議だけじゃない。エネルギーを持て余した男子学生の集団だってそれなりのものだ。何組の誰それが誰とデキてるだとか誰だれは誰のことが好きだとか教師の誰と誰は結婚秒読みとか。どの寮にもそういった話に詳しいやつが一人は居るものだ。くだらないが、過去にその手のことで寮生間で大揉めが起きたことがあるらしく、痴情のもつれが発生したら中庭で決闘するルールになっているという。爆豪にはあまりに関係がないので聞き流した。あとは学校そのものに対する噂もよく流れる。三年前の共学への方向転換は経営母体の意向が絡んでいるとか、旧校舎はあとどれくらいで崩れそうだとか。生徒数の減少による予算不足がどうとかこうとか。どれもとくに爆豪の興味を惹く話ではない。平和と言えば聞こえはいいが窮屈で、退屈だ。よく似合う言葉は閉塞だ。
学校には七不思議と言っていいものもあって、それは概ねどこかで聞いたことのあるようなやつである。情緒を持て余した生徒たちの間で醸成されただけあって、いかんせん量が多いのが特色だ。三十強不思議くらいはあるはずだ。その中でも最近聞くものとしては被服室の幽霊話と開かずのロッカー、旧校舎の影なんかがあげられる。
そして今まさに話題になっているのは、触るものが皆怪我をするという体育倉庫の呪いのバスケットボールだ。話には悲嘆に暮れ自死を遂げた生徒が絡んでいて、憑かれるとか何とか。その生徒のディティールは話が回る度に細かくなっている。下らない噂にすぎないが、バスケ部の副キャプテンが転んで腕を折ったことで大流行した。怪我をした当の本人が嬉々として自分が階段で転んだ顛末を話すものだから、余計話題は尽きない。教師から散々注意を受けつつも話すのをやめないその神経を爆豪はなんなんだと思っている。
放課後爆豪は声をかけられるより先に教室を出た。万年部員不足のバスケ部は一人怪我をしたことで練習までスムーズに立ち行かなくなったらしく、教室で隣席の生徒から放課後の部活動への参加を散々誘われる。公式の試合に出るわけでもない相手と練習してどの程度実になるのかは疑問だが、具体的に高い目標を目指しているわけでもないというから、そんなものなのかもしれない。
大声で名前を呼ばれた。思わず振り返ると、例の隣のクラスメイトが手を振っている。つい顔を顰めた。
「なあ頼むよ爆豪。お前がいると練習になるんだよぉ」
「勝手にやってろや。自分たちだけで練習も出来ねえの晒して恥ずかしくねえのかよ」
「センパイがずうっと喋るんだよ。でも爆豪が居るとおとなしくてさ」
呆れた。ここで言うセンパイとは例の怪談話の流行りの起点になった、階段から落ちた副キャプテンのことだ。何がどうして後輩にここまで迷惑をかける振る舞いをしているのか。というかおとなしいらしい爆豪の参加した練習でも散々だったように思うが。
「どーしちまったんだよセンパイ。幽霊に頭やられたんか」
「そうだったらいい、……いや全然よくないんだけどさ。なんかほんとは部内の誰かに階段で押されたんじゃないかって」
「噂でもあんのか?」
「って、センパイが思ってるんじゃないかって部員がみんな思ってる。あれだけ言うから」
「疑心暗鬼。それ俺行っても変わんねえだろ」
「そうなんだけどさー、部外者に居てほしいっていうか」
結局その日は押しきられ、爆豪は体育館履きでバスケ部の放課後練習に参加した。別に何か他の用があるわけでもなかった。例のセンパイはあとどれくらいで骨がくっついてどれくらいで復帰できるだのという話をコートサイドから見たアドバイスに混ぜて話した。アドバイスはまともだったんだからそれに専念したらいいだろうにと思う。
「それと爆豪くん、やっぱ動きいいよね、うちの部入ったら?」
「入んねーっすわ」
部外者をとりあえず褒めておくというのはどの集団でも変わらないものだなと思う。爆豪はバスケは得意だが、褒められて特別嬉しく思ったりはしない。当然だろと思うだけだ。
散々絡まれて帰りが遅くなった。この時間になると運動部の面々で食堂が途方もなく込み合う。少し億劫な気持ちになって、どうせなら皆が食べ終わったあとに行こうと考える。生活リズムが乱れるのは気に食わないが、先に入浴を済ませた。食堂を覗けばまだ混んでいるので、そのまま寮の玄関から出た。まだ消灯時間は遠いから、見咎められることもない。風はほとんどない。
先週夜中に寮の周りを歩いたことを思い出し、その道筋をたどった。ゆっくりと辺りを見回す。道の先にはやっぱり誰も――何も、いない。気のせい、だった、と思えばどうにも腹立たしい。今度こそ舌打ちをして、爆豪は身を翻した。つまらない。寮に戻る。
翌日は七限までの日だった。声をかけられる前に校舎から出ることに成功した。と、思ったら遠くから爆豪を呼ぶ声が聞こえる。バスケットボールは嫌いじゃないが使われている感がいただけない。今日なんて大して時間も取れないというのに。他の奴を誘え。撒いてしまおうと思い、校舎裏に回る。首もとのネクタイをほどいて、第二ボタンまで開ける。夏服だと言うのにこの制服は布地が多いのだ。歩く度にはためいた。誰も見ていない場所では、少しの解放感がある。学校の敷地内は樹がやたらと植えてあって、どこを歩いても景色に代わり映えがない。退屈だ。
そのまましばらく歩けば、目の前には旧校舎が現れた。
旧校舎は正面から日差しが当たっているにもかかわらず、ずいぶんと暗い印象を持つ。外壁の淀んだ色味のせいかもしれない。一続きのベランダの、古びた柵には何かの意匠が凝らされていたが、何を表現しているのかはわからなかった。周辺も手入れされていない。やたらと育った植え込みで一階の窓は完全に覆われてしまっている。正面玄関口につながる一本道だけが不自然なくらいきれいに開けていた。
好奇心からその道を歩く。たどり着くのは両開きのガラスドアだ。開くと思った訳じゃないが押してみる。ガタと鍵の掛かっている感触があった。
当然だ、と思いドアから離れる。遠回りしたがここまで来ればもう追いかけては来ないだろう。寮に帰ろう。と歩きだした。そういえば旧校舎には幽霊話があったな、と何の気なしに振り返る。
三階の右端の教室から、外に向かってカーテンがたなびいていた。
思わず目を剥く。さっき――本当についさっき、爆豪が来たときにはなかった。風が吹きはじめただけか? いや、そんなはずはない。窓が開いていたら気付く。植え込みが伸びているなと見上げたのだ。
誰かいる。もしくは、何か。そいつが窓を開けたのだ。
今度は足早になって、爆豪はもう一度玄関に近づいた。
やはり開かない。壊してしまおうかと思ったが、使っていないとはいえ学校の設備だ。見回すと逆側に非常階段を見つけた。三階のベランダにも接続している。全体にひどく錆が浮いていた。昇る。心拍数が上がる。踊り場ごとに鍵の掛かった柵があったが、容易く乗り越えられた。着いた。三階だ。
見間違いの可能性を打ち消すように、視線の先ではカーテンがはためいていた。ベランダに乗り移る。ほとんど駆け上がってきたというのに、急に足音が気になりだした。なるべく音を殺して歩く。
カーテンの布地が目の前になったところで立ち止まった。思わず息を止める。三、ニ、一、で布地を捲りあげる。――誰も、いない?
窓からなるべく静かに、教室の中へ入る。特別教室のようだった。黒板は白っぽくくすんではいたが何も書かれていない。廊下側の壁にはポスターが所狭しと貼られていた。黒板の逆側に埃を被ったミシンがずらりと並んでいる。爆豪が乗り込んできた窓側には棚があり、布地が巻かれて入っていた。
化かされた、という言葉が頭に浮かんで、一瞬緊張がほどけた。その瞬間だった。
「お客さんかな?」
その声に、すぐさま爆豪は振り返った。
眠れない。爆豪はそっと部屋から抜け出し、階段を降りた。隣室でのどんちゃん騒ぎは階下にまで響いている。
寮の悪いところだ。今年の寮監はプライベートの尊重とやらを掲げているから、他の寮生に言われない限り生活の荒っぽい寮生に苦言を呈することはない。直訴しに行って妙に覚えられるのも面倒だった。随分おっとりしているからあの煩さの中でもぐっすり眠っているのではないだろうか。隣室は日付が変わってもしばらくあの調子だろう。暗闇の中目に刺さる夜間灯の光を避けて、そのまま寮を出た。入学生募集のパンフレットでは寮での規則正しい生活を謳っていても結局はこんなものだ。早寝早起きのやつは少数だし、夜中に騒ぐやつはいるし、勝手に抜け出すことも容易だ。近年出来た女子寮はセキュリティが厳しく侵入者でもあれば警報が鳴り響くらしいが、男子寮は不審者の三人くらいなら素通しにするだろうと思う。
爆豪はどこへ行くともなしに歩を進めた。敷地は十人居れば十人同意するであろうだだっ広さだ。広ければいいってものじゃないと遅刻魔の同寮生はよく嘆く。本校舎まで徒歩で十五分くらいだが、そちらに行くのも気が向かない。
夜分の景色は同じ場所でも昼間とは違って見える。誰が作ったのかも何が表現されているのかもわからない青銅像が遠くの夜間灯を受けてうっすらと白っぽく光っていた。彫像の向こうの空はほぼ黒色に見えた。曇っているのか星も月も見えない。風が吹いてざわざわと暗い木々が揺れる。もうすぐ夏だと言うのに、首元に通った風が湿っていて冷たい。雨でも降りそうなのかもしれない。爆豪は首を竦めた。
いつもは直進する角で曲がってみる。道は細く、すぐにまた曲がっていた。見通しが悪い。ただでさえ暗いので、先はほとんど消えているように見えた。
すっきりしない。立ち止まる。何周かいつものコースを走ってから戻ろうか。しかし、敷地内ならば補導されることはないとしても、警備員に見つかるおそれがある。仕方なく寮の部屋に戻ろうと踵を返した、その瞬間だった。
身体がビクと強張る。今、誰かが地面を踏むような音が聞こえた。青っぽいものが視界の隅にうつった気がする。
警戒しながら後ろの気配を探る。振り返るのは声をかけられてからでいい。しかし、こんなところに誰が? 居るとしたらそれこそ寮監や寮父ではないだろうか。脳裏でなぜ今外にいるのか聞かれた場合の言い訳を探す。見つかるのは不味い。しばらく呼びかけられるのを待っていたが声はなく、爆豪はようよう後ろを振り返った。
暗い闇の中には常緑樹の林の続くばかりである。一周見回してみたが、誰もいなかった。
力が抜ける。どうせ猫かなにかだろう。生徒が勝手に餌をやっているやつが何匹だかいると聞いたことがある。
背筋が寒くなるのを無視して、爆豪は寮への道を戻った。一瞬だけ見えた影はまるで背の高い人間のようだったことに気が付かないふりをして。
爆豪の通う――正確には通っていない、暮らしているこの学校は、都会から隔絶された山奥に位置する。かつては完全男子校だったが、三年前より女子の入学を受け付け、共学校になった。案の定女子の入学希望者は少なく、クラスに何人かいるクラスといないクラスとがある。女子同士はいつも仲がよく密に情報を共有しているところがよく見られる。爆豪としてはよくこの学校に来ようなんて思ったなというのが正直なところだ。建てたばかりの新しい女子寮にはそれだけの魅力があったのだろうか。それともこのやたら凝った制服か。
歴史は長い。長いだけだ。昔は名の通った学校だったというが疑わしい。パブリックスクールのようなものを作ろうとしたのだろうが、現状とりたてて名門というわけでもなければ逆に荒れているというわけでもない。そもそも三年制だ。進学実績はそれなり。制服のデザインはやたらと洒落ていてほとんどの生徒がやや似合わない。施設だけはむやみに多い。乗馬場はあるが馬はいないし馬術部もない。劇場があるがほとんど演劇部の根城と化し文化祭の日くらいしか観客を入れることがない。植物園がどこにあるのか生徒の半分は知らない。講堂は二つあるが片方しか使わない。万事その調子だ。全寮制学校そのものに憧れを持つ一部の生徒や職員によってイベント事にそれらしい出来事を演出されることはある。やたらと全校生徒を集めた会が開かれるのもその一環だろう。生徒には名家の子息のようなやつもいることにはいる。しかし、生徒のほとんどはどこにでもいる男子高校生だ。特別なことに憧れているだけの。爆豪も含めて、大抵の生徒は退屈している。
全寮制ということは朝から夜まで他の生徒と一緒に生活しているということだ。それなりに息苦しい。部屋では地上波は見れないし、規則で持ち込み禁止のものも多いから、寮生の娯楽は自然自分たち生徒であるとか学校そのものであるとかに向く。人間関係が最上級のトピックになるのは主婦の井戸端会議だけじゃない。エネルギーを持て余した男子学生の集団だってそれなりのものだ。何組の誰それが誰とデキてるだとか誰だれは誰のことが好きだとか教師の誰と誰は結婚秒読みとか。どの寮にもそういった話に詳しいやつが一人は居るものだ。くだらないが、過去にその手のことで寮生間で大揉めが起きたことがあるらしく、痴情のもつれが発生したら中庭で決闘するルールになっているという。爆豪にはあまりに関係がないので聞き流した。あとは学校そのものに対する噂もよく流れる。三年前の共学への方向転換は経営母体の意向が絡んでいるとか、旧校舎はあとどれくらいで崩れそうだとか。生徒数の減少による予算不足がどうとかこうとか。どれもとくに爆豪の興味を惹く話ではない。平和と言えば聞こえはいいが窮屈で、退屈だ。よく似合う言葉は閉塞だ。
学校には七不思議と言っていいものもあって、それは概ねどこかで聞いたことのあるようなやつである。情緒を持て余した生徒たちの間で醸成されただけあって、いかんせん量が多いのが特色だ。三十強不思議くらいはあるはずだ。その中でも最近聞くものとしては被服室の幽霊話と開かずのロッカー、旧校舎の影なんかがあげられる。
そして今まさに話題になっているのは、触るものが皆怪我をするという体育倉庫の呪いのバスケットボールだ。話には悲嘆に暮れ自死を遂げた生徒が絡んでいて、憑かれるとか何とか。その生徒のディティールは話が回る度に細かくなっている。下らない噂にすぎないが、バスケ部の副キャプテンが転んで腕を折ったことで大流行した。怪我をした当の本人が嬉々として自分が階段で転んだ顛末を話すものだから、余計話題は尽きない。教師から散々注意を受けつつも話すのをやめないその神経を爆豪はなんなんだと思っている。
放課後爆豪は声をかけられるより先に教室を出た。万年部員不足のバスケ部は一人怪我をしたことで練習までスムーズに立ち行かなくなったらしく、教室で隣席の生徒から放課後の部活動への参加を散々誘われる。公式の試合に出るわけでもない相手と練習してどの程度実になるのかは疑問だが、具体的に高い目標を目指しているわけでもないというから、そんなものなのかもしれない。
大声で名前を呼ばれた。思わず振り返ると、例の隣のクラスメイトが手を振っている。つい顔を顰めた。
「なあ頼むよ爆豪。お前がいると練習になるんだよぉ」
「勝手にやってろや。自分たちだけで練習も出来ねえの晒して恥ずかしくねえのかよ」
「センパイがずうっと喋るんだよ。でも爆豪が居るとおとなしくてさ」
呆れた。ここで言うセンパイとは例の怪談話の流行りの起点になった、階段から落ちた副キャプテンのことだ。何がどうして後輩にここまで迷惑をかける振る舞いをしているのか。というかおとなしいらしい爆豪の参加した練習でも散々だったように思うが。
「どーしちまったんだよセンパイ。幽霊に頭やられたんか」
「そうだったらいい、……いや全然よくないんだけどさ。なんかほんとは部内の誰かに階段で押されたんじゃないかって」
「噂でもあんのか?」
「って、センパイが思ってるんじゃないかって部員がみんな思ってる。あれだけ言うから」
「疑心暗鬼。それ俺行っても変わんねえだろ」
「そうなんだけどさー、部外者に居てほしいっていうか」
結局その日は押しきられ、爆豪は体育館履きでバスケ部の放課後練習に参加した。別に何か他の用があるわけでもなかった。例のセンパイはあとどれくらいで骨がくっついてどれくらいで復帰できるだのという話をコートサイドから見たアドバイスに混ぜて話した。アドバイスはまともだったんだからそれに専念したらいいだろうにと思う。
「それと爆豪くん、やっぱ動きいいよね、うちの部入ったら?」
「入んねーっすわ」
部外者をとりあえず褒めておくというのはどの集団でも変わらないものだなと思う。爆豪はバスケは得意だが、褒められて特別嬉しく思ったりはしない。当然だろと思うだけだ。
散々絡まれて帰りが遅くなった。この時間になると運動部の面々で食堂が途方もなく込み合う。少し億劫な気持ちになって、どうせなら皆が食べ終わったあとに行こうと考える。生活リズムが乱れるのは気に食わないが、先に入浴を済ませた。食堂を覗けばまだ混んでいるので、そのまま寮の玄関から出た。まだ消灯時間は遠いから、見咎められることもない。風はほとんどない。
先週夜中に寮の周りを歩いたことを思い出し、その道筋をたどった。ゆっくりと辺りを見回す。道の先にはやっぱり誰も――何も、いない。気のせい、だった、と思えばどうにも腹立たしい。今度こそ舌打ちをして、爆豪は身を翻した。つまらない。寮に戻る。
翌日は七限までの日だった。声をかけられる前に校舎から出ることに成功した。と、思ったら遠くから爆豪を呼ぶ声が聞こえる。バスケットボールは嫌いじゃないが使われている感がいただけない。今日なんて大して時間も取れないというのに。他の奴を誘え。撒いてしまおうと思い、校舎裏に回る。首もとのネクタイをほどいて、第二ボタンまで開ける。夏服だと言うのにこの制服は布地が多いのだ。歩く度にはためいた。誰も見ていない場所では、少しの解放感がある。学校の敷地内は樹がやたらと植えてあって、どこを歩いても景色に代わり映えがない。退屈だ。
そのまましばらく歩けば、目の前には旧校舎が現れた。
旧校舎は正面から日差しが当たっているにもかかわらず、ずいぶんと暗い印象を持つ。外壁の淀んだ色味のせいかもしれない。一続きのベランダの、古びた柵には何かの意匠が凝らされていたが、何を表現しているのかはわからなかった。周辺も手入れされていない。やたらと育った植え込みで一階の窓は完全に覆われてしまっている。正面玄関口につながる一本道だけが不自然なくらいきれいに開けていた。
好奇心からその道を歩く。たどり着くのは両開きのガラスドアだ。開くと思った訳じゃないが押してみる。ガタと鍵の掛かっている感触があった。
当然だ、と思いドアから離れる。遠回りしたがここまで来ればもう追いかけては来ないだろう。寮に帰ろう。と歩きだした。そういえば旧校舎には幽霊話があったな、と何の気なしに振り返る。
三階の右端の教室から、外に向かってカーテンがたなびいていた。
思わず目を剥く。さっき――本当についさっき、爆豪が来たときにはなかった。風が吹きはじめただけか? いや、そんなはずはない。窓が開いていたら気付く。植え込みが伸びているなと見上げたのだ。
誰かいる。もしくは、何か。そいつが窓を開けたのだ。
今度は足早になって、爆豪はもう一度玄関に近づいた。
やはり開かない。壊してしまおうかと思ったが、使っていないとはいえ学校の設備だ。見回すと逆側に非常階段を見つけた。三階のベランダにも接続している。全体にひどく錆が浮いていた。昇る。心拍数が上がる。踊り場ごとに鍵の掛かった柵があったが、容易く乗り越えられた。着いた。三階だ。
見間違いの可能性を打ち消すように、視線の先ではカーテンがはためいていた。ベランダに乗り移る。ほとんど駆け上がってきたというのに、急に足音が気になりだした。なるべく音を殺して歩く。
カーテンの布地が目の前になったところで立ち止まった。思わず息を止める。三、ニ、一、で布地を捲りあげる。――誰も、いない?
窓からなるべく静かに、教室の中へ入る。特別教室のようだった。黒板は白っぽくくすんではいたが何も書かれていない。廊下側の壁にはポスターが所狭しと貼られていた。黒板の逆側に埃を被ったミシンがずらりと並んでいる。爆豪が乗り込んできた窓側には棚があり、布地が巻かれて入っていた。
化かされた、という言葉が頭に浮かんで、一瞬緊張がほどけた。その瞬間だった。
「お客さんかな?」
その声に、すぐさま爆豪は振り返った。