傷口
いつまでも塞がらない生傷のような記憶を抱えている。
痛みには慣れてしまって、意識せずに日常を過ごすことだってできる。けれど確かにそこにある。ときどき触れて、消えていないことを確認する。
そういうことが、習慣になっている。
朝起きてぐうと伸びをする。あくびをした拍子にこぼれた涙が掛け布団に落ちて、染み込んでいった。前に布団を洗濯したのいつだったっけ。結構前だ。ここ最近は大変で忙しかったから。今日は久しぶりに現場じゃない。今日も現場は忙しいだろうと思う。そこを抜けるのってちょっとストレスだ。自分に出来ることがあるのにって。でも全体の士気は上々だし、私がずっと出ずっぱりだとみんなも休みにくくなるから今日は全部おまかせだ。オフってわけじゃないけど。
スタジオに向かう。ずっと慣れたけど、まだすこし緊張はある。写真てだって残るやんな。デクくんのオールマイトコレクションみたいにさ。
でもカメラマンにあっという間に乗せられて、撮影自体は思ったよりずっとスムーズに終わった。スタッフさんたちのおかげだ。カメラマンて女の人でもカメラマンって呼ぶのかな。ヒーローは男女ともヒーローだけど。
今日の私の役目はもう一つ。インタビューに答えなきゃ。時間はまだ先だから控え室でしばらく待つ。
控え室には先代の献血キャンペーンポスターが張ってあった。キャッチコピーを眺める。あなたの勇気が誰かの命に繋がります。勇気、に敬意を表するようなつもりで、ポスターに向かって、少し礼をした。このポスターをはがしたら、次の献血ポスターに写っているのは私だ。ちょっと照れるけど、なかなかいい写真になったんじゃないかと思います。全国的にって思うとヒエーッって感じだけど。まあヒーローですから。ありがたいことに人気もある。これでちょっとでも献血へのハードルを下げられたなら、いいことだ。
ヒーローは基本的に集めた血を使う側だ。もちろんみんなじゃないけど。私は輸血を受けた身体だから、もう献血にはいけない。あの時、彼女の血が私の命を繋いだのだ。彼女の持っていた、彼女自身のものとそれから少しの私の血。あそこに十分な輸血用血液と資材があれば、繋げただろうか? いやそれは、難しかっただろう。あの時彼女はわかってた。決めていた。血があれば、でも、そういうことじゃなくて、私、やっぱり遅くって、追い付けなかったんだ。彼女に。
そうして私は生きていて、それはちょっとびっくりしちゃうくらい確かなことだ。そして彼女はいない。あーあ。ため息が出ちゃう。ひどいやつだ。
私は彼女に捕まって欲しかった。私に? そうだね、私に。私が捕まえたかった。もっと話したかった。そうしたら、生きていけたら。そうやって思った。
結局傷だけが確かだ。
腹部の傷痕は残っている。消すこともできるらしかったけど、消さないでいいと私が言った。あの時は手当て待ちのヒーローや市民がたくさん居て、今も傷痕を持っている人はたくさん居る。私も特にコスチューム的に隠れちゃう位置だし、傷痕はほぼそのままだ。見る人が見ればひと目で何が起きたのかわかってしまう。今日の撮影もコスチュームでやったから問題ない。見たことのある人はそういないけど、ここに傷があるのを知っている人はままいる。あの大戦での映像記録はそこかしこに残っているのだ。
あの戦いのあと、さんざん検査された。私の中に流れる血について。結果、私の血は、私の血であるという。そうだね。そりゃそうだ。
ワン・フォー・オールは相手のDNAを身体に取り込むことで受け継がれると言う。彼女は血を飲むことで他人に変身し、そして他人の個性を使用することができた。だったら、と思う。思うだけだ。私が誰かの血を飲むことはない。飲みたいとも思わない。だから結局、彼女が私に遺していったものは、いくつかの言葉と、笑顔と、この傷痕と。
勇気。先代のポスターを眺める。あなたの勇気が誰かの命に繋がります。自分の血を誰かに渡すっていうのは、勇気が必要だ。確かに。こんな職業してても自分から血が出るのってやっぱり怖いしね。でも彼女にとっては、血はやり取りの一つだったのかもしれない。溢れそうな好意を表すための、ありふれた行為。例えば、キスみたいな。一方的だと怖いのは一緒だ。結局確かめることはできない。
彼女の自然を特別を、私は知っているわけじゃない。少しくらい触れることができたとしても。だけど、例えばあのとき、私が彼女に手を伸ばして、彼女が私の手を取るのには、あの場には、必死なくらい、人生でいちばんの勇気っていうものがあったと思うのだ。少なくとも、私の側にはあった。
自分を抱き締めて、鼓動に耳をすます。どくん、どくんと一定の間隔をもって鼓動がなる。心臓によって隅から隅まで血液が運ばれていく。ひとつの鼓動だ。当然に。それがちょっとさみしい。あの時は、あんなに近くにもう一つ、鼓動があったのにな。
インタビューは恙無く終わった。事前に知らされていた質問内容と違うものも特になくて、ほとんどこのまま文面になるんじゃないかと思う。最後に、聞いていた通り麗らかな方でした、と言われて、盛大に照れた。その瞬間も写真に撮られた。恥ずかしいからその写真は載せないでほしい。
明日はまた現場に戻る。数ヶ月前に起きた大規模な地震の痕はまだ色濃い。瓦礫やなんかが雨晒しのままになっていたり、倒れた家屋をその家の人が呆然とした顔で眺めていたりする。あの戦いからずっと、ヒーローのやることは多い。手は足りている、と言える場所は少ない。ヒーロー飽和社会の方がよかった、と嘆く声があるなかで、足りていないのはヒーローじゃなくてシステムだ、と言ったのは校長だ。システム。ヒーローを運用するためのシステム。ヒーロー無しでも社会が回るようにするためのシステム。ヒーローが手の届かない場所をなくすための、ヒーローじゃなくても何かを傷つけたり損なわせたりせずに、手が届くようにするための。実際できるようになるには時間がかかるだろうとも言っていた。だからここが踏ん張りどころだ。これからずっと踏ん張りどころな可能性もあるけど、それくらいはやってやろうと思う。信頼できる人たちは居るし、出来ることは出来ると思うから。
ヒーローも色々に変わりつつある。ホークスなんかは私は今の方が好きだ。ものすごく忙しそうで世間からの声も大きくて大変そうなのに、エンデヴァーやツクヨミとか、好きなヒーローを隠しもしなくて楽しそうだ。好きなヒーローの話って好きだ。誰もがヒーローを好きなわけではないって言うのは肝に銘じておかないといけないけど。
一日ぶりに目にした現場は、人が増えていた。その中に見たことのある顔を見つけてはっとする。こちらに気づいて、笑顔で手を振っている。その手首には薄く×状の傷痕が見えていた。
その子に会ったのは私が高校三年生の時の、極めて短い長期休暇のことだ。グリーフケアに関する講演を聞きに行った帰りだった。聞いたことを咀嚼して、自分自身に当てはめたりしていた。公園でしばらく黄昏れて、ようやっと、帰るか、と気持ちが落ち着いた。周りはすっかり夕暮れ色になっていた。ブランコから立ち上がる。公園を出て、すこし歩いたら、ゴミ捨て場のネットの前にしゃがみこんでいる女の子がいた。制服を着ている。慌てて、大丈夫、どうしたのと声をかけた。
その子はふっと顔を上げて、驚いた表情をした。私のことを知っていたんだろう。そして、大丈夫です! と笑った。ずいぶん明るい声だった。
大丈夫そうには見えなかった。私は声掛けの言葉を間違った。目は一瞬合ったけど逸らされた。
すみません、こんなところで、しゃがみこんじゃって、貧血かなあ、とその子は言葉を続けた。ずっと口角を上げていた。立ち上がろうとして、手首が見えた。まだ新しい傷が、手首に細く、赤いラインを描いていた。一瞬目線がはっきりとそこに留まってしまって、その子は私が気がついたことに気づいた。失態だ。手首を私の目線から隠して、その子は言った。
「あっ、大丈夫です。このくらいではね、死んだりしないの。だから大丈夫だよって、お医者さんが言ってた。私大丈夫だよ」
私が何か言う前にその子は大丈夫、という言葉で、私の感情を拒絶する。判で押したような笑いかたをしている。あはは、と笑った。笑い声がやけに響いた。大丈夫の鎧はもうボロボロで、雨もしのげやしないだろうに。
「でもとても辛そうに見える」
私の口から溢れたのはそんな言葉だった。言ってすぐやってしまった、と思う。その子は表情を落とした。
しばらく黙っていた。私も、その子も。
「痛そうにみえるよ」
沈黙に耐えられなくなったのは私の方だった。
その子は首を横に振った。
「そんなに、痛くないんですよ。一瞬だけ。あの、」
そこで言葉が止まった。しばらく、その子の呼吸音に耳を傾けていた。
「傷口から血がぷくって膨らんで、それがぷちんて弾けるでしょ。そうすると、ちょっと頭の中がすうっとするの。別に死にたいとかじゃなくて、本当に、大丈夫なんです。大丈夫だから……」
話している途中から涙声になっていた。ぽた、ぽたと目から雫が落ちる。持っていたティッシュを差し出す。一瞬躊躇してから、その子はそれを受け取った。
「すいません」
首を振る。
「このティッシュ、昨日もらいたてなの。全部使ってもいいよ」
その子はふ、と空気が抜けるようにすこし笑った。すいません、ともう一度言った。
「生きるために、頑張っているんだね」
死なない、死にたいとかじゃない、とその子は言った。ずっと自分に言い聞かせてきたんだろうと思った。その子の目に涙がまたみるみる溜まっていくのが見えた。泣かせてしまった。泣きながら、ごめんなさい、と言って、腰を下ろそうとして、
「こんな、ゴミ捨て場、汚いぃー、」
えーん、と漫画みたいな大泣きになった。立ち上がろうとしてよろけたその子の身体を抱き締める。人の身体って水気がある。汗も涙も、元は血液だ。
「勝手に触ってごめんなさい」
重心の安定したその子が自分の力で立つのを確認して、謝った。その子は首を横に振った。
「転びそうなの助けてくれたんですよね。ありがとう」
泣き止むまで待って、話してくれてありがとう、また切りたくなった時は、私に連絡して、とメッセージアプリの連絡先を渡した。何か責任が取れるわけじゃないし、抱え込める度量があるとも言えないのだから、あまりそういうことはしない方がいいと知っていたけど、何もせずに帰ることができなかった。今思うと未熟だ。素人のお悩み相談はご法度だ。初めて会った人ならなおさら。結果オーライ、で済ますには軽率だったと思う。
その子はその時あまりピンと来ていない様子だったけど、何度かやりとりをした。また切っちゃった、というメッセージのこともあったし、もう無理、と落ち込んだ様子でいくつかメッセージが入っていたこともあった。ある時これ以上迷惑はかけられないから病院に行くことにした、という連絡があって、その後先生と合わないと大泣きしているその子と通話したこともある。諦めてほしくなくて、必死で話をした。それからもいくつか当たってみたらしく、今度はいいカウンセラーかも、というメッセージがあって、しばらく連絡は途絶えがちになっていた。きっと良い方向に向かったと信じて少しホッとしたのを覚えている。
その子から久しぶりに送られてきたメッセージは衝撃だった。
『トガヒミコさんて知ってますよね』
急にどくどくと鳴り出した鼓動を押し込むようにして、知っているけど急にどうしたの、と返す。刺々しくならないようにしようと思ったのに何度打ち直してもそれ以上にはならなかった。
『すいません。詮索とかじゃなくて』
『私みたいな子の間で流行っているというか』
『ちょっと前の私みたいな』
話を聞くところによると、居場所がなくて苦しんでいる子たちの間で、彼女がアイコンのようになっているみたい、という話だった。革命的なカリスマの、世界を、自分を害するものをぐちゃぐちゃにして、でも最後にはすっかりいなくなってしまう、そんな女の子として。
怒りというよりやるせないような気持ちがあった。私は彼女がただの、好きなものが沢山ある女の子だったことを知っている。その痛みを、悲しみを知っている。足掻いていたのを知っている。あの時話してくれた分だけ。そんな彼女に何か理想を見てしまう子がいっぱいいるというのがやるせなかった。
彼女と私とに関係があることは一度あの映像を見ればわかることだった。だからその子は伝えようと思ったのだという。
迷った末に先生に相談した。まずちょっと怒られた。素人が親身になりすぎて諸共身を滅ぼすケースについて知っているはずだろう、と。その後にでもよく頑張った、と言われて、相談の中心議題に入った。麗日はどうしたいんだ、と言われて、私は答えた。その、今苦しい子たちが、苦しくなくできる場所を作りたい。そういう場所が必要だと思う。
先生は二日後くらいに、一人の女の人を紹介してくれた。居場所がない女の子の支援活動をしている人だということだった。その人は、あなたが背負い込んで旗印になる必要はない、と言った。あなたはすでに顔が知れているから、崇拝みたいにされてしまうかも知れない。でも少し手伝ってもらうくらいならできるかも、と。
何日か、その人のところで手伝いをした。そこにはヒーローが誰もいなかった。ヒーローの話も特に聞かなかったと思う。ちょっと遠目に見られた。聞くと、そういう場所にしたんだ、と言われた。
「ヒーローにできることにも限界があるし、ヒーロー以外は何もできないわけじゃない。私はヒーローのこと好きだけど、世界はヒーローが全てみたいになるのはよくないと思った」
そう言われたのを今もよく覚えている。
メッセージをくれたその子に連絡した。
「久しぶり」
「お久しぶりです」
少し困ったような顔をしていた。世間話をして、最近のことを聞くと、その子は言った。
「最近は何とかやれてます。元気じゃない時もあるけど、これはそういう時なんだなって思う」
私は数日間手伝わせてもらった活動について話した。その子は必要なことだと思うけど、うまくハマるかは人によるんじゃないかなあ、と言った。あの時は私あんまり自分が苦しいってこと知られたくなかった、だからあっても行けなかったかも、と言う。そっか、と相槌を打った。少し沈黙が落ちる。
「あの時はあなたじゃなかったら私はダメだったかも知れないから」
言いにくそうに、その子が言った。
「トガヒミコ……さんのこと、すいません。そこまで大事じゃないかも知れないんですけど、なんか」
「いーや、教えてくれてありがとうね。ああいう話って着火するととても大きくなることがあるから」
「何かできることってありますかね」
うーん、と首を傾げる。正直に言うことにした。
「あまりそこまで考えられてなかった」
「じゃああの、変なこと聞いていいですか。トガヒミコさんてどんな人でしたか」
思わずちょっと黙った。その子は慌てて付け足した。
「いやすみません。こういうの、よくないですね、忘れてください」
「笑顔の素敵な女の子だったよ」
彼女のことを、もしかしたら一生誰にも話さないんじゃないかと思っていたから、言った瞬間に話しすぎたなと思った。それを聞いてその子はふうん、と頷いた。
「トガヒミコさんはあの子たちの話の中だとそれこそカリスマで神様って感じですけど、そう聞くと、普通の子みたい」
「神様なんかじゃなかったよ」
普通を探してた、一人の女の子だった。
その子は流行りを止めるのは無理かもだけど、居合わせたら話を変えるくらいは頑張ってみる、と言って拳を握ってみせた。無理はしないでね、と言って別れる。
細々と脈々と、彼女はそれ以降も崇拝されているという。でも最近はもうほとんど聞かない。時間は経った。私は少し思うのだ。どこにも居場所がない誰かの隣に、あんな人たちどうでもいいですよ、と寄り添う空想上の彼女の姿を。それで救われる誰かがいることを。
私のところには来てくれないのは、ちょっと寂しい。
その時ぶりにその子に会った。聞けば、災害現場の片付けをするスタッフとして来たらしい。
「なんか言い方あったんですけど忘れちゃった。こういうわかりやすく人のためっぽいことすると、ちょっと楽になるんです」自己満足ですけど、少しは役に立てば、と笑う。
すっかり跡になった手首の傷はもう隠さないらしい。かなり薄くなってるし、面倒臭いから、とその子は言った。
「ぎょっとされることもありますけど、なんか自分はこう言うところがあるんだって、それはあんまり変わらないので。相手の反応でどういう人なのかちょっとわかりますよ。便利かも」
あんまり普通そうに言うので、ちょっと笑ってしまった。
「元気でいてくれてよかった」
「こちらこそです。いつもテレビとかでみて、心の支えにしてます」
大好きです、とその子は笑った。人が好きなヒーローの話をする時の表情が好きだな、と思う。好きな人、好きなもの、そういう事について話している姿が好きだ。眩しいと思う。
その子の手首が目に入って、コスチューム越しに自分の傷跡をなぞった。一瞬隠さなくてもいいかな、と思うけど、そうなると水着とかだな。なしでいっか。見せない秘密の傷跡でいいや。
「献血のポスターやるんですよね。私も行けるかなー」
「詳しいなあ」
「好きなので!」
いつまでも塞がらない生傷のような記憶を抱えている。
時折腹部を眺めて、傷痕が消えていないことを確認する。そして夢想する。あなたのことを。
その時、もう塞がっているこの傷から滲み、滴り落ちた透明な血の流れる先に、あなたがいたらいいと思うのだ。
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