星でもないのに



 飛行機の音がする。トガシが見上げると、空を移動していく光がある。星じゃないなあ、と眺める。速度からしても、あれが音の源の飛行機だろう。東京の空は狭いが、場所によっては案外と星も飛行機も見える。空で星以外のものが光るようになって久しい。かつての人が見上げた空には宇宙ステーションも飛行機もいなかったのだろうと思うと、人間は随分遠くまで行くようになったなあと思う。たしか去年には月の裏側に人間が到達したというニュースも見た。なんだかどこにでも行けるものなのだなあと思う。
 自分はどこまで行くのだろうなと思う。手を伸ばしてみる。指の隙間から見える飛行機の光はチカと小さくて、それでも光っている。触れられないけど届くのだから不思議だ。あそこまで走ったら、どのくらいかかるんだろうな。
 それになんの意味もなくても走れる。なんの価値がなくても走れる。走ることが、好きだから。走る理由はそれだけで十分で、そうなると覿面、走れない自分が嫌になってくる。己には他に趣味もないし、没頭できるようなものはあれしか知らない。人生を賭けて走った。怪我を押して走ったことに、案外後悔はしていないし、もし時間が戻せたとしても同じことをするだろうと思う。それでも走れない現状に嫌気が差していたのは確かだ。後輩に発破をかけさせるような真似をするくらいには。

 去年のはじめ、今年一年は療養に専念したほうがいい、と言われた。ショックだった。一度は引退だって考えたくせに、なぜだかすぐに戻って来られると思っていた。だが、言われてみればそれはそうだ。意識した楽観視をして、一年頑張れば戻って来られる、と、必死で自分に言い聞かせて、信じた。行けるはずだ。大丈夫だ、と。時折樺木と食事をした。食事は口実で、あの世界の空気を吸うのが目的だった。樺木はどうしてだか、トガシが戻ってくることを当然だと思っているみたいな態度をするから、それに合わせる。助かっていた。
 思い返せばあっという間でもある。人生は年々加速していって、あれだけ蛞蝓のように生きていた日々も過ぎ去ればありふれた過去のような顔をしている。
 主治医から、走ってもいいですよ、と言う言葉をようやく引き出してからが長かった。苦しかった。走りたいと思っていたから、余計。
 コーチに見つめられながら、走る。走ることが許されてからどれくらいかは、いくら走っても足が重かった。ゾッとした。ここから、日本のトップ層と競り合えるところまで戻せるだろうか。戻す、どころか、だ。一昨年での日陸でのあの三本を背水の陣による奇跡みたいなものだと考えるなら。百パーセントじゃなく、百二十パーセントのところまで持っていかなくちゃいけない。無限に湧き出てくる不安を、戻せる、行ける、と言い聞かせた。あそこまで行けなくたって死ぬわけじゃないし、と囁く脳の片隅を無視した。あそこに行きたい。必死で走りたい。本気で走りたい。走りたい。そう思った。
 最近はきっと戻す、という段階まではできている。長かった。あの一番上に届くところまで行けたのか、は、今日試す。

 主治医から許可が出てすぐ。せっかくだから、走れるようになったことを小宮くんに伝えたいな、と思ったが、連絡先を知らない。知ってそうな心当たりもないな、と思っていたら、樺木が、知ってますよ、教えていいのかわからないんで言ってませんでしたけど、と言った。
「なんで?」
「国際大会で一緒した時に、ちょっと」
「俺だって昔小宮くんと大会一緒になったことあるけど」
「いやんなの知りませんよ……。トガシさん大事な話にあんまりスマホ使わないじゃないですか。だから必要ないと思ったんじゃないですか? トガシさんと俺との会話メシの予定つける時だけですよ」
「そうだっけ」
「そうです」
 小宮くんて案外連絡先教えたりしてくれるんだ。じゃあ次小宮くんと会った時に聞いてみるかな、と呟く。
「俺が小宮さんに連絡先教えていいか聞いたほうが早くないですか」
「そしたらカバキくんが小宮くんに俺が走れるようになったよってメッセージ送るのが一番早くない?」
「おかしいでしょ。それは早さのためになんか犠牲にしてますよ。情緒とか」
 まあ次会った時でいいか、と言えば、後輩は意味のわからないものをみる顔をして、それでいいならいいですけど、と何かを飲み込んだ。
「トガシさん」
 樺木が言う。さっきまでレバニラの盛られていた皿は空になっている。よく食うなあと当たり前のことを思う。
「競技解禁おめでとうございます。早く万全のコンディションで会いましょう」
「がんばります」
 なんすかその返事、と後輩は不満げだったが、まあいいです、と話題は次のものに移った。
 一度肉離れを押して走ったので、コーチからは耳が痛くなるくらいひっきりなしに無理をするのはやめろと言われている。わかっています、と答えると、本当に? とさらに聞かれたのでややうんざりする。一年無職で通院しながら過ごしたので、貯金は着々と目減りしていって、あの頃ほど自分が無趣味なことに感謝したことはないだろうと思う。どうにか生きている。怖い。あの時の方が怖かっただろうと思うのに、そうでもない。あのときは、たった三本走れれば、それで死んでもいいと思っていたから。
 死にたくないのか、俺は、と思ってなんだか笑えた。どうにだってこの命は賭けられるというのに。走ることに、どこまでも賭けたいのに。そのやり方を、知っているはずだろう、と思う。

 流星群のニュースが流れていた。数ヶ月前の、まだ春と呼んでいい時期のことだ。
「流星って星って呼ぶの嘘じゃない?」
「はあ? なんですか」
 怪訝な顔を隠しもしないで後輩が言う。炒飯を口に運ぼうとしていたレンゲを戻した。悪いことしたな、と咄嗟に思う。
「だってあれ、隕石が大気圏突入するときの光なんだろ? 隕石って星じゃなくない?」
 そうすかね、と樺木は言った。別に星でもよくないですか。
「逆にどうしてたらトガシさん的には星って認めるんすか」
「そりゃあその……、自分から燃えて光ってたら」
「それじゃあ流星こそ星じゃないですか。地球も月もトガシさん的には星じゃないんですか」
 思わず黙った。
「……そんなことは、ないなあ」
「はあ。他人の受け売りですけど、地球が星で、宇宙にあって、人間も地球の物質からなってるから、俺ら人類も宇宙人で、星の子どもらしいですよ」
「それは、ずいぶん、ロマンチックな」
「ロマンチックですかね? まあ俺が言い出したことじゃないんで、どうだっていいですけど」
 樺木はスマートフォンで何かを調べだした。野菜炒めが冷めそうだな、となんとなく眺めながら、水を飲む。
「宇宙塵……チリ? ええと天体……天体って星やないんかな……、が大気圏、上空百キロぐらいを通過するときに放つ光が流星らしいですよ。俺からすれば宇宙飛んでれば全部星じゃねえのって思いますけど」
「どこからが宇宙?」
「ええ知らん……。大気圏より上とかじゃないですか。星があるとこ。トガシさん的には光ってなきゃ嫌らしいですけど」
「そこまでは言っていないだろ」
「言ってました。もう全部空を飛んでれば星でいいでしょ。流星も、ロケットも、飛行機も、鳥も、スーパーマンも」
 なんでそんなに投げやりなんだ。どういう意味かわからなくて、聞き返す。
「スーパーマン?」
「知らないすか」
 まじでエンタメに興味ないんですね、と言われる。引かれている。後で読もう、とスマートフォンの検索エンジンにスーパーマン、と入れてみる。
「スーパーマンって空飛ぶんだ」
 そっから⁉︎ と樺木は驚いた顔をした。スーパーマンてそうそう走らないんですよ、飛べるから。と言う。なるほど、飛行機もそうだけど、その手段が取れるなら、たいてい空を飛んだ方が速いんだろう。トガシは陸路のほうが好きだが。
「普通の人間は飛べないもんなあ」
「跳躍が〝飛ぶ〟に含めるなら俺らはそこそこ空飛んでることになるんですけどね」
「……走ってる最中ってこと?」
「つまんないこと言いました。忘れてください」
 なんとなく忘れ難かったので、いまだに時々反芻する。
 ラダーを垂直に掛けてみたら、今まで走ってきた距離は上空どこまで行くのだろうか。大気圏が上空百キロメートルなら、宇宙には行けるだろう。三十八万キロメートル先の、月には届かないだろうか。大気圏まで走って行けば、流星の光を間近で見られるのだろうか。そこから重力に引き摺られて落ちてくれば、その時自分は光っているのか。

 流星は秋の季語らしい。ちょうどシーズンということだ。いくら季節ものといえど、百メートル、は普遍的すぎて季語にはならないんだろうなあなんて考えてみる。百メートル、約十秒。流星みたいじゃないか? 実際流星塵が光りながら燃え尽きるまで、何十キロメートルもの距離を移動するわけだけど。時速三十八キロメートルなんて目じゃない速度で空を飛ぶわけだけど。太陽やライトを反射して光るか、高温で光るかは、きっと全然話が違うのだろうけど。でも樺木の又聞きを信じるなら、人間だって星の一面を持つということだ。光り続ける恒星になれなくとも、たった一瞬を光ることはできそうな気がする。あの決勝は、そういうものだった気がする。
 そして一回できたなら、もう一度、同じことができたっておかしくはないだろうと思う。何と言ったってトガシは一人のアスリートなわけだから。奇跡に頼って生きているわけじゃない。それまでの自分の積み重ねた蓄積、鍛え上げた身体と磨いてきた経験を以てトラックに立つ。
 誰もが見上げるような空で、夜を明るくするような光を放ちながら、燃え尽きる。格好いいな、とも思う。百メートルを誰よりも速く走れば、流星みたいかなあと考えて、そんなこともないのかなと考え直す。駆けて行って、飛行機のようにどこまでも加速していけば、人も飛べるのだろうか? そんな速度は未到に決まっているのだけど、考えるのは自由だ。何せ百メートルをこの世で一番速く走れば、人類最速なわけだ。
 トガシを拾ってくれた企業は、また赤いユニフォームだ。それがすこし嬉しい。光るなら赤がいい。目に残る、去っても尾を引く色だから。

 松葉杖が取れてすこしした頃、樺木に呼ばれて二人でたこ焼きを作って食べた。俺とカバキくんってこんなに仲良かったんだ、と思ったものだから、無駄に印象深く覚えている。二人で財津の引退レースを見返した。
 動画ストリーミングアプリの画面の上、樺木の指先がすいすいとタイムスタンプを探し、タップすると、タブレットからの音が一瞬消えた。号砲。
 国内トップ選手の中でも、財津、小宮、海棠のスタートは顕著に良かった。五〇メートルを超えたあたりで、海棠がさらに伸びた。それに対応するように、財津が落ちる。見る度に、海棠の会心の走りに感心する。財津の引退は、ある種の理想的な形だなと思った。後進として更なる感想を言うならあれが例えば小宮なんかによって為されればきれいな世代交代だったのだろうけど。それでも、トガシも樺木も小宮も、海棠を、そして財津の記録を越してゆくつもりだ。つい数年前に、新星と注目集まる森川は財津の大会記録を更新してみせた。財津が君臨していた期間、栄光は他の誰の手に渡らなかったわけだが、芽は死なず、俺たちはここまで来たわけで。
 財津選手のような、ああも美しい終わりはそうそう手にできないだろう。まして俺はまだ、まだ燻っている。燃やしきっちゃあいないだろうとこの脚が叫んでいる。
 いつかきれいな灰になって尽きるまで、走るのをやめたくない。そう思う。そう思うし、灰になっても自分は未練がましくそこらを飛び散るんじゃないかなとも思う。
 タブレットからの歓声を無視して、樺木が話しだす。
「たとえばここで一番速かったのが俺だったら、この一本はとびきりに特別になったでしょう。それは海棠さんや財津さん、小宮さんがとびきりのスプリンターだからです。ずっと勝ちたくて堪らないような」
 動画が止まったのを確認して、樺木は目線を上げた。いつものような、何を考えているのか易易とは伺えない表情だ。
「俺は誰相手だって勝ちたいです。財津さんにだって勝ちたかった。当たり前ですけど、財津選手の引退を惜しんでるのはメディアとファンだけじゃないんですよ」
 カバキくんて格好いいな、と思わず呆けていると樺木が重ねて言う。
「トガシさん、復帰したら自己ベスト出してくださいよ。俺はそれに勝つんで」
「⋯⋯言うなあ」
 勝つ気のない奴と走っても楽しくないでしょう、と樺木は言った。
「俺でいいの? 俺が君のお眼鏡にかなうの、なんだか不思議な感じがするな」
「まあ、日陸前のトガシさんにだったら、言わなかったかもしれないすね」
 トガシは笑った。
「じゃあ、本気で走ってよかったなあ」
 それに対して、樺木は満足そうに言った。
「走り方はそれしか知らないんでしょう。早く万全に復帰してください」
 一年と半年ほど前のことだ。

 ここまで来た。二年ぶりに、ここまで来た。ここまでは来られた。これからだ。日本陸上選手権大会、予選。興味本位で見た前評判で、注目選手として自分が挙げられていて笑ってしまった。財津か小宮。誰も彼も口を揃えてそう言っていたというのに、観客はみんな随分波乱を期待するようになったようだ。

 ロッカールームから出て、バックヤードを歩く。挨拶したい相手が何人かいる。小宮くんはどこかにいるだろうか。今連絡先聞くのは変だよな。そんなことを考えていると、挨拶したい相手の一人——格好のいい後輩に会った。目が合う。その眼差しは、いつだってまっすぐこちらを見ている。
 いつかみたいだな、と少し笑う。
「お待たせ」
 待ち合わせてもいないけど、言ってみる。
「待ってはいませんよ。トガシさんが言ったんだ。待たなくていいって」
 樺木がフンと笑う。
「せいぜい追いついてください。その脚で」
 届くでしょう、と知っているような目をしているから、思わず頷く。俺こそ信じている。
「じゃあ、トラックで」
 いつかと同じ挨拶をして、トガシは身を翻した。
 じりじりと、熱が身を焼くような心地がする。スタートが近づくにつれて、少しずつ、温度は上がっていく。
 この空気が好きだ。焦がれてきた。
 小さな頃はいつも、後続を引き離してひとりで走っていた。いつから追いかける側になったのか。わかっている。雨の日は今でも気分が沈むことがある。
 でも気分がどうであれ、いつだってやることはとびきりにシンプルだ。走ればいい。ただ走ればいい。それしかできないし、それなら得意だ。休養中からずっと、後輩に散々ベストを尽くせと強請られている。見とけよ、と思う。彼の前を走らなければ、見せられない。やってやろうじゃないかと思う。
 存在を、証明しよう。
 行くべき地点は百メートル先。
 スターティングブロックを蹴り出して、すこしだけ空を飛ぶ。着地。タータンを蹴る。加速する。最高速度に乗る。そのままもっと加速していって、たとえば時速二万八千キロメートルを超えてずっと走る。そうしたら、俺だって、空でも光るだろう。そんなことを考えて少し笑う。行けるところまで行こう。手を伸ばしても届かないもの、そんなものはこの世にいくらでもある。ただトガシの場合、走るなら届く、そういうものもたくさんあるのだ。
 さあ、たった十秒、全力でいこう。


 オンユアマークス。セット。
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