星でもないのに

 どうやら樺木は他人からは冷めて見えるらしく、意外と言われたこともあるが、基本的にそれがなんであっても勝ちたい。負けたくない。学生時代、クラス対抗の合唱コンクールでは指揮と伴奏こそ上手いやつに譲ったものの場所の確保と練習時間のすり合わせはかなり真剣にやった。そうしたらコンクールの幹事役に据えられていた音楽部の後輩にめちゃくちゃ告白された。
「音楽部?」
「俺の母校だと合唱部がそういう名前だったんですよ。でも合唱だけじゃなくて。音楽系で、吹奏楽器じゃないやつはみんな音楽部入ってて、確か、たまにコンサートでバンドとかオーケストラみたいなこともしてました」
 軽音学部がなかったんですよ。吹奏楽部は吹奏楽部で部があったんですけどね。掛け持ちしてるやつも居ましたよ。そんな話をつらつら話す。トガシがカルチャーギャップだとつぶやく。
 トガシと仲良くなった。君はモテそうだよなあと言われて学生時代の一エピソードを話すくらいに。トガシは樺木の前でよく笑うようになったような気がする。
 なんだかなあ、と樺木は思う。
 笑った顔より真剣な顔を見れたほうが嬉しい。樺木はそう思う。だってこの人、研ぎ澄まされたとき、最上級に集中しているとき、そういう真顔になる。
 そういう顔を引き出すような話題はなかなか無い。自分がその手の話題を避けているんじゃないかと振り返って考え、そういうわけでもないなと思う。
 最近の自分達について、端的に言ってしまえば——馴れ合っているだけな気がする。ついこの間、実家からたこ焼きの材料が大量に仕送りされてきたので、その消費のために樺木のアパートに誘ったら簡単に誘われてくれた。ふたりでたこ焼きを作って食べた。傍から見た印象については考えたくない。
 今日は町中華で夕飯を共にした。奢られてしまった。駅前まで歩き、ありがとうございます、と丁寧に礼をして別れる。
 振り返ってもトガシの姿が見えないことを確認して、樺木はため息をついた。
 そんなつまらない関係に落ち着いてたまるか。

 トガシの経過は順調だという。まだ油断はできないし、全力疾走もそうそう許されていないらしいが、復帰に向けて、とトガシは言った。その言葉に思わずテーブルの下で拳を握った。戻ってくる。トガシが、あのトラックに。
 あの場所に立つためにどれだけ選ばれなければいけないのか、樺木はよく知っているけれど、きっとトガシは戻ってくるだろう。それだけの能力を持っていることを知っているし、何より、そうじゃなきゃ嫌だ。これは樺木のエゴだ。
 だってこの人とずっと走ってみたかった。初めてみた時から。あの時トガシは誰よりも速かった。そして樺木だって飛び抜けて足の速い一人だった。まだ狭かった樺木の世界に、先があることを印象付けたのは、トガシの走りだった。
 幼少期の印象なんてほとんど刷り込みだ。その後何を見たって、そう簡単に変わらない。精彩を欠く走りをするトガシをみて、樺木は思った。何度も思った。あんたそんな器じゃないだろう。
 実際そうではないことは日本選手権という舞台において見事に証明され、樺木は自分の見る目が間違ってなかったな、と思った。
 憧れ、と言ってしまえば簡単だ。そんなきらきらしいものではないような気もする。何を背負おうがどんな状態であろうが知ったこっちゃない。光ってくれなきゃつまらない。
 樺木は華々しい戦績を持っていて、学生無敗とも呼ばれる。確かに、嘘じゃない。それでも少しの欺瞞を感じることがある。樺木の高校二年次、インターハイが感染症の蔓延の影響で中止になったからだ。代替の大会は興されたが、観客は入らなかった。歓声もない。人の動きが少ないから、空気が止まっていた。号砲、そのあとはただひたすらに足音と呼吸だけが聞こえる。その中を、誰よりも速く、走った。練習は本番のように、本番は練習のように、とはどのジャンルでも言われる話らしいが、無観客というのは、それをやるにはもってこいな条件だろう。樺木の陸上経験の一つには、あれが大きく影響している。あの状況で、普段よりいいパフォーマンスができたという選手もいたし、逆もいた。樺木は違った。他の大会と変わらずに、誰よりも早く百メートルを駆けた。
 どんな状況であろうと、結局俺の記録は俺に由来する。誰かを背負うでもない。同世代において日本で一番百メートルを走るのが速いので、樺木は世界大会に招集されたことだってある。日本代表のユニフォームを身につけて、それでも、俺は俺のために走っているのだと思う。トガシはどうなのだか、聞いたことはない。

「トガシさん、なんか今日静かですね」
 定期的に食事を共にする。無所属となったトガシに、クサシノの中で一番会っているのはおそらく自分だ。馴れ合っているなあ、と思う。
「あれ、そんなつもりなかったんだけど……。いや、そうなのかな」
 今日、中学の先生のお葬式で、弔問にだけ行ったんだけど。トガシは言う。俺、落ちこんでるのかな。
「中学の陸上部の顧問だったんだ。俺は社会体育でコーチに指導してもらってたことの方が多いけど、まあ、お世話になった人だから。親に行き方聞いてさ」
 中学時代のトガシの恩師だと言うのなら、トガシのことはきっと忘れもしなかっただろうし、悼んでもらえて浮かばれるんじゃないですか、と思うだけ思って、流石に不謹慎すぎるな、と口には出さない。
「行ったら懐かしい同期とかにも会って。結婚したって。結婚式にも来てくれって言ってもらった」
 葬儀の場でその手の話をするのはマナー違反にはならないのだろうか。樺木にはよくわからない。
「それで落ち込んでるわけじゃないですよね?」
「そりゃあ、それについてはめでたいなあって思っただけだよ。先生聞いたら喜んだろうにとも思った」
 あーでも、とトガシは言葉を続ける。
「もう俺ってそんな歳かよとは思って、それで落ち込んでるのかもしれないな……。いや先生には、違うか、先生が亡くなるような歳にもなっちゃったんだなあって」
「加齢にダメージ負ってるんですか」
 トガシが笑う。ヘラヘラ笑うなよ。笑いたいわけでもないくせに。
「だって考えちゃうだろう。自分の賞味期限のことは」
「いつまで現役でいられるか、とかですか」
 そうだねえ、とトガシは言う。さっきから全然目が合わない。顎を引っ掴んでやろうか、と頭によぎる。
「俺は走るよ。走る。走れなくなるまで走る」
 声に出さずに唇がなぞった動きは、死ぬまで、に見えた。樺木は黙る。
「また走れるようになったら、ピークを過ぎても走るけど、その自分に、がっかりしないかって考える。俺の実力に一番期待してるのは多分俺だから」
「海棠さん呼んだらよかったですね」
「海棠さんの前でこんな話するわけないだろ」
 じゃあなんで俺の前でこんな話をするんだよ、と考える。心を許されている、とは特に思わない。
「今までは自分にがっかりして来なかったんですか」
「してきたに決まってる」
 答えは早かった。
「自分が負けても昨日の続きを生きていることに、安心してたよ。そんな自分が、心底嫌だったし、直視しないようにしてた」
「なんの解決にもならないじゃないですか」
「その通り」
 トガシの声がはっきりと通った。
「カバキくん、君はそれを許さないよな。それは俺にとっては結構ありがたい、し、眩しい」
 自分の眉間に皺がよった感覚がある。高校時代の先輩から、お前すぐに顔に出るんだから隠しとけ、と今の樺木の髪型に口を出されたことがある。役に立つもんだ。
「トガシさんのためじゃないですけどね」
「誰に対してもそうなの?」
「さあ……。自分じゃよくわかりません」
「疲れないか?」
 トガシさん、ダル絡みしてきてる自覚あんのかな、と少し考える。多分ないだろう。
「疲れる、と思ったことはないです。本気でやれよと思ってる。誰だって、いつだって、勝ちたいってわけじゃないってことは知ってますけど、それでも、舐めるな、っていうのが一番近いですかね」
 あはは! トガシが笑った。すぐに笑った顔がすとんと落ち着いて、遠くを——たとえば百メートル先を、見るような表情になる。
「俺さあ、中学でも高校でも後輩の方が多かったんだけど」
 それはそうだろうな、と思う。自分より速い後輩を見て辞めていく先輩を、樺木も知っている。あの小さな世界でだけ絶対性を持つたかだか一年二年の差は、翻って上のものを追い詰める刃にもなりうる。樺木は自分がその刃を手にしていることは早くから気がついていた。きっとこの人だってそうだったろう。
「俺の後輩の中に、君みたいなやつ他にいないよ」
「俺がいてよかったですね」
「そう思う」
 ふと思い出して、聞く。
「トガシさんって学校の合唱コンクールとか真面目にやりましたか?」
「いや、全然声出してなかった。練習には毎回参加するようにはしてたけど」
 だろうな、と思う。
「トガシさんのこと、俺同級生だったら無茶苦茶嫌いだったと思います」
「そっか。先輩でよかった」
 簡単に呟いて、一つぱちりと瞬きをした後、トガシがどこか遠くを眺めながら言う。
「カバキくんが同期だったらなあ、どうだろう。俺中学で陸上以外のこと始めてたかも」
「俺がいたら負けるから? 陸上、勝つから続けてたんですか」
「カバキくんが勝つ前提かよ」
「トガシさんが言い出したことじゃないですか」
 そうか? とトガシが首を傾げる。まあでも君、学生無敗だもんな、と結局頷いた。
「まああの時の俺は、走ることと勝つことがイコールだったから。勝てなかったら死ぬと思ってたな」
 傲慢さにくらくらする。中学時代の樺木はずっと、いつか憧れた中学時代のトガシと走ってみたかった。そして勝ちたかった。四歳差というのは絶対で、学生時代には在籍が重ならない。それをどうにももどかしく思ったことは数多ある。今日は初めて逆のことを思った。こんなむかつくやつと走っていたら、あの頃の樺木は何を叫んだかわからない。
「トガシさん、乾杯しましょう」
「え、今?」
「はい。四歳差に」
「あはは、そうだね、君が俺の後輩であることに」
 トガシが笑った。樺木も笑う。口角が上がる。ここまで来たことに。この人と同じ高さで走れるという幸甚に。
「トガシさん早く復帰してください。万全の状態で。それで自己ベスト出してください」
「相変わらず無茶言うなあ」
「年下の我儘ですよ。可愛いでしょう」
「君って……、君って本当に先輩に可愛がられてきただろう」
「先輩には恵まれました」
 自分より速い後輩、という存在を、後輩として丁寧に扱う先輩が樺木のそばにはいた。少しも甘く見ずに、絶対に全力で迎え撃とうとしてくれる先輩たちだった。フィールドが高みになればなるほど、周囲の人間も選別されていった。お前対人運いいよなあ、と言うのが、この間海棠に呆れたように言われた言葉だ。
「奇遇だね。俺も先輩にはとてもよくしてもらってきたから」
「後輩もよくしてやってるでしょう」
「カバキくんてそんなこと言うのかよ。知らなかった」
「トガシさんて俺のこと特に知らないんじゃないですか」
「そうかも」
 トガシが心底おかしそうにくつくつ笑う。何笑ってんだよと思う。樺木の運は実際いい。運も実力のうちという言葉があって、樺木の実力というのは特に疑われるべくもない。

「誰だっていつかは灰になるんだから、できるだけのことして死にたいよな」
 葬式のあった日に言うには随分と不謹慎なことをトガシは呟いた。
「合唱で声も出さねえ奴のできるだけってどんなもんですかね」
「喧嘩売ってる? そうだった。カバキくんて合コンガチ勢なんだった」
「買いますか? 喧嘩」
「まだ全力で走れないから、買わない。全快したら買おうかな。俺はこの足があれば、俺にできるだけの全てができるんだよ」
 すこし得意げと言ってもいいだろう表情でトガシが言う。走れるようになったら、トガシは喧嘩を買うらしい。その言葉に、満足する。
 ピーキーな人間だと思う。他人のことなんだと思っているんだよとも思う。それでも樺木はトガシに肩入れとも言っていい温度で付き合ってやるだけの動機がある。走ってくれればいい。トガシの最高の走りを見たい。横のレーンで。そしてそこで、千分の一秒の差で勝ちたい。この感情をなんと名づけたものだか、樺木は知らない。樺木は樺木のために走っていて、ガソリンは己の闘争心だ。
 たとえば自分の中にあるそれが憧れと名前のつくようなもので、その感情が己を曇らせ鈍らせるなら、完膚なきまでに打ちのめして殺してやる。樺木はトガシと走ったことが何度もあって、常にそのつもりだった。それでも、残光だけ残してくすんでいたトガシは、結局自分の足で競技場まで辿り着いた。そういう選手だ。
 どれだけ馴れ合っていたってあのトラックの上ではお互いを侵犯しようもない。そう言う競技に人生を賭けている。早く復帰しろ、とこっそり念じる。あの場所で会いたい。
 振り向いてもらう必要はない。追い抜けば自ずと視界に入れる。自分にはそれができる。できるはずだと信じている。
 そこに必要なのは、百メートルを誰よりも早く走るこの足、それだけだ。
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