星でもないのに
海の匂いがした気がして、トガシは改めて息を深く吸い込んだ。気のせいだ。ここには海なんてない。
それになんの意味もなくても走れる。なんの価値がなくても走れる。走ることが、好きだから。走る理由はそれだけで十分で、そうなると覿面、走れない自分が嫌になってくる。己には他に趣味もないし、没頭できるようなものはあれしか知らない。人生を賭けて走った。怪我を押して走ったことに、案外後悔はしていないし、もし時間が戻せたとしても同じことをするだろうと思う。それでも走れない現状に嫌気が差していたのは確かだ。後輩に発破をかけさせるような真似をするくらいには。
トガシはゆっくり深呼吸をしてからスマートフォンの画面を立ち上げた。録画であるし、結果もなんとなく知っている。だというのに。自分が走るでもないのに緊張している。人が走るところを見て緊張したことは……あるか。小宮が走るところはなぜだかいつもトガシの心をざわつかせてきた。彼が速いと知っているのに、何が自分の情動に影響を与えるのだか。
一瞬の競技を最大限に盛り上げるための前段として実況が喋る。聞きやすい言葉たちをそのまま聞き流しながらその時を待つ。静寂が訪れる。号砲。約十秒。詰めていた息を吐き出した。後輩——トガシは今も無所属であるから、元、とつけるのが正しいのかもしれないが——は今日も好調だった。
『見たよ。お疲れ様』
おめでとう、と打つか迷って、迷っている間に既読が付き、返信が来た。
『ありがとうございます』、『トガシさん来週火曜日空いてますか』。
何だろう、と少し疑問に思った。わざわざカレンダーアプリを開いて、わかりきった予定を確認してからメッセージを返す。
『空いてるよ』
この間の借りがあるから何をするとしても誘いは受けよう、怪我人にできる範囲において、と考える。
『ウチ来ませんか。たこ焼き焼きます』
想像した内容とはだいぶ違っていた。本当に自分宛てだろうか、としばし考え、まあ違ってもいいかもな、と思い是を返した。後輩の焼くたこ焼きに興味があった。
樺木の最寄駅の情報と時間のすり合わせをしてメッセージが途切れる。ベッドにごろ、と寝そべって、少しだけ笑った。
カバキくんとたこ焼きパーティだって。楽しみだ。
***
松葉杖から解放されて数週間が経った。近頃はひどく慎重に歩いている。歩き方にも正しいものがあって、それに沿おうとすると必然スピードは落ちる。これまで歩くという行為について、考えたことがなかったな、とトガシは思う。案外奥深い。走った方が早いけど。足元に平均台でもあるかのようにバランスを考えながら歩いている。
自動ドアが開けば、スーパーの背景音楽は今日も陽気だ。
ねぎらいとせめてもの先輩らしさとして、材料費を持たせてもらおうとしたのに、返事は『実家から大量に送られてきたんでいいです』だった。食い下がったらなんとかタコを買ってくる役目を仰せつかった。タコは確かにまあまあいい値段がするが、たこ焼き作成においてのトガシの役に立たなさを補填できるほどではないだろう。陳列された棚を見ながらしばらく考えて、酒を買うのはやっぱりやめる。果物売り場に行って、その場で一番高いシャインマスカットを手に取った。食物アレルギーはないと聞いているが、甘い物が好きそうなイメージも特にない。面倒になって考えるのをやめた。好きじゃないって言われたらトガシが持って帰ればいいだけだ。
エコバックは持ってこなかった。レジ袋は三円だったか五円だったか。袋に入れてから気が付く。向こうの最寄駅に着いてからスーパーに寄ればよかった。一応、足りないものがあったら言ってくれ、という旨のメッセージを送りつつ電車に乗る。少し揺れる度にカシャとビニールが鳴る。空いている時間帯でよかったな、とトガシは思う。
電車を降りて改札を抜ければ、すぐに樺木は見つかった。黒のキャップとマスク。いかにも、すぎる。雰囲気がある。目の前の学生がヒソヒソと視線を向けながら話していた。
「お待たせ」
「いいえ。ちょっと歩きますけどいいですか」
「もちろん」
タコ持ちます、と言って差し出された手を避ける。いやいいよ。はあ、ならお願いします。ボディバックだけ身につけた後輩は歩き出す。ゆっくりだな、と思って気が付く。歩くスピードを合わせられている。
「カバキくんてモテるんだろうね……」
「はあ?」
何なんですか、と言いたげな目線だったが、口に出されはしなかったので、特に掘り下げもせずに着いていく。直近の試合のねぎらい、怪我に関する近況報告、海棠のメディア露出……、特に盛り上がった訳でもないが、話していれば案外すぐ樺木のアパートに到着した。
「お邪魔します。たこ焼きパーティ、楽しみにしてたんだ」
「サシですけど、それでもパーティですか」
「たこ焼きって言ったらパーティじゃないの」
「実家から大量に送られてきてる材料の大消費会です。トガシさん当てがあるなら誰か呼んでくれてもいいですよ」
俺友達少ないからなあ、と返せば、そうですか、と特に興味もなさそうな返事が返ってきた。
「カバキくんこそ、呼ぶの俺でよかったの」
「関東にいる同期とはまた別日にやるんで。トガシさん時間あるなら丁度いいかなと思って。本当にありえない量の粉と天かす送られてきて……、酔ってたのか何なのか知らないですけど」
親御さんと仲良いんだね、と言ってから、踏み込みすぎたな、と思ったが、樺木は当然のように、はい、応援してもらってます、と言う。本当に家族仲が良好なのだろう。少し安心する。自分が家族にも恵まれていることで、うっかり相手の心情を踏みつけてしまうことはなさそうだ。
引き取られたタコはスムーズにカバキの部屋の冷蔵庫に入り、その過程でシャインマスカットも見つかった。
「好きなんですか」
「いやささやかなお礼のつもりで……。カバキくん好きじゃなかったら持って帰るから」
「そういうことなら俺のものです。あげません」
「了解」
少し笑いながら応える。よかった。
八畳間に入ると、テーブルの上にたこ焼き器が鎮座している。
「おー。思ったよりでかい」
「パーティサイズなんですよね」
「じゃあやっぱりたこ焼きパーティだ」
「トガシさん、はしゃいでますね」
とたん恥ずかしくなる。いい年して。でもはしゃぐようなものだろうとも思う。
「いいだろ、やったことないんだよ」
樺木は少し驚いたような顔をした。
「トガシさんて本当に友達少ないんですね」
「しみじみ言うのやめてくれる? 関東じゃたこ焼きなんてだいたいお店で食べるものだよ」
「関西でもその辺の店で食いますけどね」
「カバキくんは自分でたこ焼き作れるってことだろ。すごいよ」
「それはまあ。実家じゃ食べる専門でしたけどこっち来るにあたって一通り仕込まれました」
じゃあやりますか。俺タコ切るんでトガシさん生地作ってください。そう言われて少し慌てる。
「俺まじで作り方いっこもわからないよ」
「粉の袋に書いてある通りに混ぜてください。適当でいいですよ」
料理を全くしないと言うわけでもないが、不慣れなものの適当ほどわからないものもない。
「カバキくんなんか生地めちゃくちゃシャバシャバなんだけど」
「そういうものですよ。……本当にやったことないんですね」
「だからそう言ってるだろ」
なんなら憮然としてトガシがそういうと、樺木は少し笑った。笑うのか、と意外に思って追加の文句を噤む。
「材料は……まあ揃ってますね」
「これだけ?」
「これだけです。お好み焼きイメージしてませんか」
「あー、そうかも。お好み焼きは作ったことあるからかなあ」
「まあ色々流派ありますけど、俺の教わったたこ焼きはこれなのでこれでいきます。いいですか」
「もちろん。楽しみだな」
「ただのたこ焼き消費会ですよ。酒もないし」
「カバキくんって酒飲むの」
「まあ、付き合い程度には。特に好きではないです」
酒を買わなくてよかったな、と思いつつ、たこ焼き器にキッチンペーパーで油が敷かれていくのを見つめる。手際がいいから見ていて楽しい。
ぼんやり見つめていると、あ、と、急に樺木が少し大きい声を出した。
「あー、竹串忘れてました。この間切らしたのに。割り箸で、いや……」
「買ってこようか? 俺行くよ」
「リハビリ中でしょう、俺が行ってきます。留守番しててもらっていいですか」
「いいけど……、いいの? 俺のこと信用しすぎじゃない」
「なんかするんすか」
「本棚漁ったり……?」
「何もしないって言ってくださいよ。……まあ、この部屋にあるものだったら触ってもらって大丈夫です。向こうの部屋は入ったらわかるんで」
「警報器でもついてるの?」
「はい」
「マジ?」
「嘘です」
なんでだよ。意味も理由もわからない。しれーっとした顔で嘘をついた樺木は、ゴソゴソと鞄を漁ったと思うと、タブレットを取り出した。ロックを解除すると、映像ストリーミングアプリのアイコンをタップする。
「これでなんか見ててください」
「いやいやいや、これLINEとか入ってるだろ、不用心すぎるって」
「別に見られて困るもんそんなありませんよ。だったら交換条件としてトガシさんのスマホ預かりましょうか」
「意味わかんないって!」
「ウチテレビもないんで、他に暇潰せるようなもんもないし、トガシさん外で待たせんのも悪いし」
「ついていくんじゃダメなのか」
「時間かかるじゃないですか」
思わず黙った。樺木は走るつもりなのだろう。確かにそうなると今の走れない自分は足手纏いだ。
これでなんとか暇つぶしてください、とタブレットを再び渡される。なんでトガシの方が聞き分けが悪いみたいになっているのだか、さっぱりわからない。
「わかったよ、自分のスマホかなんか眺めてる、何にも悪いことしないから、留守は任せて……」
「じゃあお願いします。百均まで徒歩五分なんですぐ帰ってきます。自分で鍵開けるんでチャイム鳴ったら居留守使ってくださいね」
自分は何歳だと思われているのだろう。情けなさに襲われながらトガシは樺木の言う通りに頷く。
「行ってきます」
がちゃん。外から鍵が閉められる音がして、改めて樺木の防犯意識が心配になる。トガシは、自分と樺木がそこまでの仲だとは思っていない。このまま俺が金目のものとか漁ろうとしたらどうするんだ。そりゃあしないけど。勿論しないけど。タブレットはロックが解除されたままだ。開かれたアプリに見えるのも陸上関係の映像とたまにミュージックビデオ、と言う感じで、やましさは一切ない。だとしても、競技に関する連絡事項だとか、部外者に見せるものじゃないデータだって入ってるだろうに。機密保持に関するコンプライアンス研修とか忘れちゃったのかな、と失礼なことを考えていると、一つの動画が目に入った。シークバーの色は変わっている。『陸上日本選手権男子百メートル決勝』。
見なかったことにして、部屋をぼんやり見聞する。ものの少ない部屋だ。トガシだって他人のこと言えた部屋ではないが。本棚に漫画とCDがいくつか乱雑に入っているのを目にして、最近の子もCDとか買うんだな、と思う。みんなもうサブスクかと思ってた。
ため息のままに外を見やり、窓を開ける。このくらいの自分勝手は許され……ないかもしれないが、許されなかったらこれに懲りて樺木の防犯意識が少し高くなればいい。風は無闇矢鱈と爽やかで、ため息が深くなった。この中を走れたら、さぞ気持ちがいいだろう。ふと、足音が聞こえた気がして下を見やれば、樺木が走っていた。見下ろす角度だと余計速く見える。というか、あれほとんど全力疾走じゃないだろうか。きっとちゃんとコンクリートの硬さに耐える靴を履いているのだろうけど。
なんだか若さが眩しくて、笑ってしまった。聞こえないかな、と思いつつ、声を出してみる。
「カバキくーん」
樺木はすぐに気がついた。近くの道に車も通っているし、そんなに大きな声じゃなかったのに、耳がいい。樺木はふっとトガシの方を見上げ、少し顔を顰めてから手を振った。部屋の中に入れ、というジェスチャーだ。大人しく、言う通りにする。すぐに階段を駆け上がる音がして、鍵が開く。ドアが開いた。
「部屋ん中いてくださいよ」
「俺を信用して置いてった君の落ち度だよ。竹串買えた?」
「はい。恥ずかしいと思わなかったんですか」
「そんな大声出してないよ」
「そうですか?」
「うん。観てたよ。君が走ってるの」
樺木はなんとも言えない顔をした。強いていうなら少し嫌そうだ。
「はあ……。そうですか」
「俺も早く走りたい」
樺木がふっと目を大きくする。何か言おうとした様子で一瞬口を開いて、結局口を噤んだ。
「さあたこ焼きだ。俺もう食べるつもりしかないけど、いい?」
「いいですよ。やってみたかったら教えますけど」
「俺にもできる?」
「さあ?」
できるって言ってくれないんだな、とトガシは笑った。じゃあちょっとやってみたいな、と言うと、まず俺が作るところ見ててください、と樺木が言う。再びスイッチの入れられたたこ焼き器が熱を持ったのを確認して、樺木は生地の入ったボールとお玉を持った。生地の後に、手際よく具材が投入されていく。
「タコ切るの上手いね。均等だ」
「これも仕込まれたんで。時間測られて」
「スパルタだ」
ストップウォッチ片手にタコを切るところを監視されている様を想像した。シュールな光景だが、それは口に出さない。自分が思うより飛び抜けて、たこ焼きに対して真剣だ。
「この鉄板、ここに溝あるのわかりますか。この溝に沿ってそれぞれの個体の分を決めていきます」
竹串がつるつる動く。少し固まり始めた生地が切り分けられ、凹みの中に寄せられていく。個体……とトガシが復唱すると、はい、と返事が返ってくる。
「こう、丸め込んで行って、成形していく感じです」
くると樺木が手首で返すと、丸いたこ焼きが現れる。
「まんまるだ」
「たこ焼き見んの初めてですか?」
「作ってるところ、こんな間近で見るのは初めてだな。カバキくん、すごいね」
「どうも」
得意げでもなく、当然という顔をして樺木が言う。この後輩はいつもこんな感じだ。
しばらくそれぞれの〝個体〟の面倒をみてから、そろそろいいですね、と樺木は呟いた。
「皿持ってきます。⋯⋯トガシさん他人ん家の皿は嫌とかありますか」
もしあれだったら紙皿買って来ますけど、と言い出した樺木を慌てて止める。
「ないよ、ないない! 大丈夫! カバキくんの中で俺ってどういうイメージなの?」
「やや潔癖って感じですかね」
「なんで⋯⋯」
同じ鍋をつついた仲なのに! と大袈裟に嘆いて見せれば、それもそうでしたね、と樺木は皿を取りにキッチンに向かった。肩をなでおろす。またトガシを置き去りに百均まで走られたらどうしようかと思った。カバキくんこそ、自分のテリトリーに他人を入れて放って置く、とか絶対に嫌なタイプだと思ってたんだけどな。とトガシは樺木の印象を修整する。けっこう迂闊だ。もしかしたら、年相応に、という言葉が似合うようなくらいに。
「トガシさんの使ってるロッカーの様子見ちまったことがあるんすけど、」
皿を持って戻ってきた樺木がそう言い出したのを聞いてなんだかぎくりとする。他人にどう思われていようと自分がそうそう変わることはない、とこの四半世紀を生きてみて自分について知っているのに、どうもダメだ。他人からどう思われているのか、緊張する。
「トガシさんのロッカー、絶対全部まとまってて。この人いつでもすぐに全部片付けられるようにしてるんだなって」
「誰だってそうじゃないの」
「違いますよ」
競技場のロッカーなんて公共物だし、散らかしようもないだろうと思うのだが、樺木から見ると違うらしい。
「まあなんでもいいです。俺ん家の皿が嫌じゃないなら。食べましょう」
樺木がひょいひょいとプレートから皿にたこ焼きを移していく。ソースと鰹節をささっとかけて、マヨネーズと青のりどうしますか、と聞かれたので、おすすめで、と返す。すると青のりの新しい袋が開封されたので、咄嗟にやめときゃよかった、と思う。口には出さなかったので樺木には伝わっちゃいないだろうけど。
どうぞ、と差し出された皿をありがとうと言って受け取って、一旦机のうえに置く。
「いただきます」
「召し上がれ」
皿の上に綺麗に並んだ丸をトガシが箸で掴むのを見て、樺木も自分のぶんに箸をつけた。
少し冷ましてから口に入れる。
「うぁっ⋯⋯ち⋯⋯!」
思いの外熱かった。咀嚼も出来ずどうにか息を通すと、熱いすよ、と樺木が言う。先に言え。睨みつけると、明らかに面白がった顔をしていた。少し驚く。生意気だなこの後輩! 数秒見つめ合って、どちらともなく視線を外した。
ゆっくりゆっくり、どうにか飲み込むところまでたどり着いた。
「⋯⋯美味しい」
「どうも。熱さ以外わからなくなるかと思ってました」
「なんとかね⋯⋯」
なんだってこの後輩は今日こんなに意地が悪いんだ。この前の鍋の日の意趣返しか。だったら受け止める道理があるな、と思う。顔の前でパタパタと手を振って、おそらく赤くなっているであろう顔の熱を冷まそうとしてみる。樺木は自分の皿の分を口に運び満足げだ。
やられっぱなしは気に食わないので、口の中を冷やすためにコップを口に運びながら、思い出したことを言ってみる。
「カバキくんて自分の走ってるとこどのくらい見返すの」
「? なんすか、急に」
さっきちょっとユーチューブの画面見えちゃって。日陸の決勝が再生済みになってたからさ。経緯を説明すれば納得したようだった。
普段はデータ整理とフォーム確認くらいですけど、と樺木は話し始める。
「あれはトガシさんと小宮さんの競り合いが俯瞰だとどう見えたのか気になって、中継の映像探したんですよ」
「へえ。どうだった?」
途端嫌そうな顔をする。少し声のトーンを低めて話しだした。
「純粋な意地の張り合いって感じで、十秒なのにこうも競り合えるもんかと思いました。羨ましい」
「羨ましい⋯⋯」
思わず復唱した。確かに、あれほどの一本はここ数年無かったが。
「あとなんかやたらと楽しそうでしたね。トガシさんあのあとあんな痛がってたのに」
「あ、ああ⋯⋯。楽しかったんだよね。すごく、純粋に、走ることが」
「そうすか」
「羨ましい?」
「はい」
返事は早かった。当然のように肯定される。
「カバキくんって走るの好き?」
「は?」
「急にごめん、気になって」
樺木は一瞬かなり訝しげな顔をしたが、ゆっくりと話しはじめた。
「少なくとも、嫌いではないです。嫌いだったらここまで続けてない。勝ったらそれなりに嬉しいし、自己ベストを更新したら、心底気分がいい」
「勝っても〝それなり〟なの?」
「相手によるんじゃないですか」
おもむろに樺木は追いやられていたタブレットをテーブルの上に持ってきた。ロックを解除したと思うと、動画ストリーミングアプリを開く。検索バーに何かを打ち込んで、ひとつのサムネイルをタップした。
日陸の、準決勝。トガシも樺木も走っていないほうの。
財津の引退レースだ。
樺木の指先がすいすいとタイムスタンプを探し、タップすると、タブレットからの音が一瞬消えた。号砲。
国内トップ選手の中でも、財津、小宮、海棠のスタートは顕著に良かった。五〇メートルを超えたあたりで、海棠がさらに伸びた。それに対応するように、財津が落ちる。タブレットからの歓声を無視して、樺木が話しだす。
「たとえばここで一番速かったのが俺だったら、この一本はとびきりに特別になったでしょう。それは海棠さんや財津さん、小宮さんがとびきりのスプリンターだからです。ずっと勝ちたくて堪らないような」
動画が止まったのを確認して、樺木は目線を上げた。いつものような、何を考えているのか易易と伺えない表情だ。
「俺は誰相手だって勝ちたいです。財津さんにだって勝ちたかった。当たり前ですけど、財津選手の引退を惜しんでるのはメディアとファンだけじゃないんですよ」
格好いいな、と思わず呆けていると樺木が重ねて言う。
「トガシさん、復帰したら自己ベスト出してくださいよ。俺はそれに勝つんで」
「⋯⋯言うなあ」
勝つ気のない奴と走っても楽しくないでしょう、と樺木は言った。
「俺でいいの? 俺が君のお眼鏡にかなうの、なんだか不思議な感じがするな」
「まあ、日陸前のトガシさんにだったら、言わなかったかもしれないすね」
トガシは笑った。
「じゃあ、本気で走ってよかったなあ」
それに対して、樺木は満足そうに言う。
「早く万全に復帰してください」
***
それからなんとなく二人とも無言になって皿を空にした。外から、秋の予感をはらんだ風が吹く。
「じゃあトガシさん、焼いてみますか」
おもむろに樺木が言う。先ほどトガシがたこ焼きを焼いてみたい、と言ったことへの言葉だと一拍遅れて気がついた。
「さっき一回見ただけじゃあできないって」
「指示はしますよ」
言われた通りに油を敷き、生地を流し込み、具を投入し、先ほどの様子を思い出しながら言われた通りに生地を個体ごとに分けようとする。
悪戦苦闘。
「これ俺めちゃくちゃ下手だよね」
「初めてなんてこんなもんじゃないですか」
樺木は言うが、面白がっていることはわかる。
「スマホ構えないでよ」
「トガシさんの記念すべき初めてのたこ焼き製作なのに」
「俺やっぱ走る以外できないかも」
「極端すね」
樺木がリカバリーしますよ、と竹串を構えると、プレートの半数ほどは個体としての丸さを得た。
「えっなんで⋯⋯? 俺トガシさんが油敷いてるとこ見てましたよね? 何したんすか」
残り半数は樺木にも救えなかったらしい。
「言われた通りにしたつもりなんだけど⋯⋯」
「めっちゃ焦げ付いとる」
「ごめん⋯⋯」
「いやしょげんでいいですけど。これどうすっかな」
「責任持って俺が食べるよ」
「食べるんですか」
「勿体無いだろ」
「どうせなら美味いやつ食べてくださいよ」
「じゃあ俺の作ったこいつらは誰が食べてくれるの」
「愛着湧いてる……?」
若干。おっと呟いてカバキが個体の形を得られなかった塊をがりがりと剥がす。黒い。
「炭みたい。これ燃やしたら灰になるかな」
「他人の部屋で火事起こそうとしてます?」
財津の引退は一つ、理想的な形をしていた。後進として更なる理想を言うならあれが例えば小宮なんかによって為されればきれいな世代交代だったのだろうけど。それでも、トガシも樺木も小宮もあるいは新星森川なんかも、海棠を、そして財津の記録を越してゆくつもりだ。財津が君臨していた期間、栄光は他の誰の手に渡らなかったわけだが、芽は死なず、俺たちはここまで来た。
引退について考えていたすこし前の自分を思い出して、自嘲する。無理だな。まだ嫌だ。
ああも美しい終わりは手にできない。俺はまだ、まだ燻っている。燃やしきっちゃあいないだろうとこの脚が叫んでいる。
いつかきれいな灰になって尽きるまで、走るのをやめたくない。そう思う。
それになんの意味もなくても走れる。なんの価値がなくても走れる。走ることが、好きだから。走る理由はそれだけで十分で、そうなると覿面、走れない自分が嫌になってくる。己には他に趣味もないし、没頭できるようなものはあれしか知らない。人生を賭けて走った。怪我を押して走ったことに、案外後悔はしていないし、もし時間が戻せたとしても同じことをするだろうと思う。それでも走れない現状に嫌気が差していたのは確かだ。後輩に発破をかけさせるような真似をするくらいには。
トガシはゆっくり深呼吸をしてからスマートフォンの画面を立ち上げた。録画であるし、結果もなんとなく知っている。だというのに。自分が走るでもないのに緊張している。人が走るところを見て緊張したことは……あるか。小宮が走るところはなぜだかいつもトガシの心をざわつかせてきた。彼が速いと知っているのに、何が自分の情動に影響を与えるのだか。
一瞬の競技を最大限に盛り上げるための前段として実況が喋る。聞きやすい言葉たちをそのまま聞き流しながらその時を待つ。静寂が訪れる。号砲。約十秒。詰めていた息を吐き出した。後輩——トガシは今も無所属であるから、元、とつけるのが正しいのかもしれないが——は今日も好調だった。
『見たよ。お疲れ様』
おめでとう、と打つか迷って、迷っている間に既読が付き、返信が来た。
『ありがとうございます』、『トガシさん来週火曜日空いてますか』。
何だろう、と少し疑問に思った。わざわざカレンダーアプリを開いて、わかりきった予定を確認してからメッセージを返す。
『空いてるよ』
この間の借りがあるから何をするとしても誘いは受けよう、怪我人にできる範囲において、と考える。
『ウチ来ませんか。たこ焼き焼きます』
想像した内容とはだいぶ違っていた。本当に自分宛てだろうか、としばし考え、まあ違ってもいいかもな、と思い是を返した。後輩の焼くたこ焼きに興味があった。
樺木の最寄駅の情報と時間のすり合わせをしてメッセージが途切れる。ベッドにごろ、と寝そべって、少しだけ笑った。
カバキくんとたこ焼きパーティだって。楽しみだ。
***
松葉杖から解放されて数週間が経った。近頃はひどく慎重に歩いている。歩き方にも正しいものがあって、それに沿おうとすると必然スピードは落ちる。これまで歩くという行為について、考えたことがなかったな、とトガシは思う。案外奥深い。走った方が早いけど。足元に平均台でもあるかのようにバランスを考えながら歩いている。
自動ドアが開けば、スーパーの背景音楽は今日も陽気だ。
ねぎらいとせめてもの先輩らしさとして、材料費を持たせてもらおうとしたのに、返事は『実家から大量に送られてきたんでいいです』だった。食い下がったらなんとかタコを買ってくる役目を仰せつかった。タコは確かにまあまあいい値段がするが、たこ焼き作成においてのトガシの役に立たなさを補填できるほどではないだろう。陳列された棚を見ながらしばらく考えて、酒を買うのはやっぱりやめる。果物売り場に行って、その場で一番高いシャインマスカットを手に取った。食物アレルギーはないと聞いているが、甘い物が好きそうなイメージも特にない。面倒になって考えるのをやめた。好きじゃないって言われたらトガシが持って帰ればいいだけだ。
エコバックは持ってこなかった。レジ袋は三円だったか五円だったか。袋に入れてから気が付く。向こうの最寄駅に着いてからスーパーに寄ればよかった。一応、足りないものがあったら言ってくれ、という旨のメッセージを送りつつ電車に乗る。少し揺れる度にカシャとビニールが鳴る。空いている時間帯でよかったな、とトガシは思う。
電車を降りて改札を抜ければ、すぐに樺木は見つかった。黒のキャップとマスク。いかにも、すぎる。雰囲気がある。目の前の学生がヒソヒソと視線を向けながら話していた。
「お待たせ」
「いいえ。ちょっと歩きますけどいいですか」
「もちろん」
タコ持ちます、と言って差し出された手を避ける。いやいいよ。はあ、ならお願いします。ボディバックだけ身につけた後輩は歩き出す。ゆっくりだな、と思って気が付く。歩くスピードを合わせられている。
「カバキくんてモテるんだろうね……」
「はあ?」
何なんですか、と言いたげな目線だったが、口に出されはしなかったので、特に掘り下げもせずに着いていく。直近の試合のねぎらい、怪我に関する近況報告、海棠のメディア露出……、特に盛り上がった訳でもないが、話していれば案外すぐ樺木のアパートに到着した。
「お邪魔します。たこ焼きパーティ、楽しみにしてたんだ」
「サシですけど、それでもパーティですか」
「たこ焼きって言ったらパーティじゃないの」
「実家から大量に送られてきてる材料の大消費会です。トガシさん当てがあるなら誰か呼んでくれてもいいですよ」
俺友達少ないからなあ、と返せば、そうですか、と特に興味もなさそうな返事が返ってきた。
「カバキくんこそ、呼ぶの俺でよかったの」
「関東にいる同期とはまた別日にやるんで。トガシさん時間あるなら丁度いいかなと思って。本当にありえない量の粉と天かす送られてきて……、酔ってたのか何なのか知らないですけど」
親御さんと仲良いんだね、と言ってから、踏み込みすぎたな、と思ったが、樺木は当然のように、はい、応援してもらってます、と言う。本当に家族仲が良好なのだろう。少し安心する。自分が家族にも恵まれていることで、うっかり相手の心情を踏みつけてしまうことはなさそうだ。
引き取られたタコはスムーズにカバキの部屋の冷蔵庫に入り、その過程でシャインマスカットも見つかった。
「好きなんですか」
「いやささやかなお礼のつもりで……。カバキくん好きじゃなかったら持って帰るから」
「そういうことなら俺のものです。あげません」
「了解」
少し笑いながら応える。よかった。
八畳間に入ると、テーブルの上にたこ焼き器が鎮座している。
「おー。思ったよりでかい」
「パーティサイズなんですよね」
「じゃあやっぱりたこ焼きパーティだ」
「トガシさん、はしゃいでますね」
とたん恥ずかしくなる。いい年して。でもはしゃぐようなものだろうとも思う。
「いいだろ、やったことないんだよ」
樺木は少し驚いたような顔をした。
「トガシさんて本当に友達少ないんですね」
「しみじみ言うのやめてくれる? 関東じゃたこ焼きなんてだいたいお店で食べるものだよ」
「関西でもその辺の店で食いますけどね」
「カバキくんは自分でたこ焼き作れるってことだろ。すごいよ」
「それはまあ。実家じゃ食べる専門でしたけどこっち来るにあたって一通り仕込まれました」
じゃあやりますか。俺タコ切るんでトガシさん生地作ってください。そう言われて少し慌てる。
「俺まじで作り方いっこもわからないよ」
「粉の袋に書いてある通りに混ぜてください。適当でいいですよ」
料理を全くしないと言うわけでもないが、不慣れなものの適当ほどわからないものもない。
「カバキくんなんか生地めちゃくちゃシャバシャバなんだけど」
「そういうものですよ。……本当にやったことないんですね」
「だからそう言ってるだろ」
なんなら憮然としてトガシがそういうと、樺木は少し笑った。笑うのか、と意外に思って追加の文句を噤む。
「材料は……まあ揃ってますね」
「これだけ?」
「これだけです。お好み焼きイメージしてませんか」
「あー、そうかも。お好み焼きは作ったことあるからかなあ」
「まあ色々流派ありますけど、俺の教わったたこ焼きはこれなのでこれでいきます。いいですか」
「もちろん。楽しみだな」
「ただのたこ焼き消費会ですよ。酒もないし」
「カバキくんって酒飲むの」
「まあ、付き合い程度には。特に好きではないです」
酒を買わなくてよかったな、と思いつつ、たこ焼き器にキッチンペーパーで油が敷かれていくのを見つめる。手際がいいから見ていて楽しい。
ぼんやり見つめていると、あ、と、急に樺木が少し大きい声を出した。
「あー、竹串忘れてました。この間切らしたのに。割り箸で、いや……」
「買ってこようか? 俺行くよ」
「リハビリ中でしょう、俺が行ってきます。留守番しててもらっていいですか」
「いいけど……、いいの? 俺のこと信用しすぎじゃない」
「なんかするんすか」
「本棚漁ったり……?」
「何もしないって言ってくださいよ。……まあ、この部屋にあるものだったら触ってもらって大丈夫です。向こうの部屋は入ったらわかるんで」
「警報器でもついてるの?」
「はい」
「マジ?」
「嘘です」
なんでだよ。意味も理由もわからない。しれーっとした顔で嘘をついた樺木は、ゴソゴソと鞄を漁ったと思うと、タブレットを取り出した。ロックを解除すると、映像ストリーミングアプリのアイコンをタップする。
「これでなんか見ててください」
「いやいやいや、これLINEとか入ってるだろ、不用心すぎるって」
「別に見られて困るもんそんなありませんよ。だったら交換条件としてトガシさんのスマホ預かりましょうか」
「意味わかんないって!」
「ウチテレビもないんで、他に暇潰せるようなもんもないし、トガシさん外で待たせんのも悪いし」
「ついていくんじゃダメなのか」
「時間かかるじゃないですか」
思わず黙った。樺木は走るつもりなのだろう。確かにそうなると今の走れない自分は足手纏いだ。
これでなんとか暇つぶしてください、とタブレットを再び渡される。なんでトガシの方が聞き分けが悪いみたいになっているのだか、さっぱりわからない。
「わかったよ、自分のスマホかなんか眺めてる、何にも悪いことしないから、留守は任せて……」
「じゃあお願いします。百均まで徒歩五分なんですぐ帰ってきます。自分で鍵開けるんでチャイム鳴ったら居留守使ってくださいね」
自分は何歳だと思われているのだろう。情けなさに襲われながらトガシは樺木の言う通りに頷く。
「行ってきます」
がちゃん。外から鍵が閉められる音がして、改めて樺木の防犯意識が心配になる。トガシは、自分と樺木がそこまでの仲だとは思っていない。このまま俺が金目のものとか漁ろうとしたらどうするんだ。そりゃあしないけど。勿論しないけど。タブレットはロックが解除されたままだ。開かれたアプリに見えるのも陸上関係の映像とたまにミュージックビデオ、と言う感じで、やましさは一切ない。だとしても、競技に関する連絡事項だとか、部外者に見せるものじゃないデータだって入ってるだろうに。機密保持に関するコンプライアンス研修とか忘れちゃったのかな、と失礼なことを考えていると、一つの動画が目に入った。シークバーの色は変わっている。『陸上日本選手権男子百メートル決勝』。
見なかったことにして、部屋をぼんやり見聞する。ものの少ない部屋だ。トガシだって他人のこと言えた部屋ではないが。本棚に漫画とCDがいくつか乱雑に入っているのを目にして、最近の子もCDとか買うんだな、と思う。みんなもうサブスクかと思ってた。
ため息のままに外を見やり、窓を開ける。このくらいの自分勝手は許され……ないかもしれないが、許されなかったらこれに懲りて樺木の防犯意識が少し高くなればいい。風は無闇矢鱈と爽やかで、ため息が深くなった。この中を走れたら、さぞ気持ちがいいだろう。ふと、足音が聞こえた気がして下を見やれば、樺木が走っていた。見下ろす角度だと余計速く見える。というか、あれほとんど全力疾走じゃないだろうか。きっとちゃんとコンクリートの硬さに耐える靴を履いているのだろうけど。
なんだか若さが眩しくて、笑ってしまった。聞こえないかな、と思いつつ、声を出してみる。
「カバキくーん」
樺木はすぐに気がついた。近くの道に車も通っているし、そんなに大きな声じゃなかったのに、耳がいい。樺木はふっとトガシの方を見上げ、少し顔を顰めてから手を振った。部屋の中に入れ、というジェスチャーだ。大人しく、言う通りにする。すぐに階段を駆け上がる音がして、鍵が開く。ドアが開いた。
「部屋ん中いてくださいよ」
「俺を信用して置いてった君の落ち度だよ。竹串買えた?」
「はい。恥ずかしいと思わなかったんですか」
「そんな大声出してないよ」
「そうですか?」
「うん。観てたよ。君が走ってるの」
樺木はなんとも言えない顔をした。強いていうなら少し嫌そうだ。
「はあ……。そうですか」
「俺も早く走りたい」
樺木がふっと目を大きくする。何か言おうとした様子で一瞬口を開いて、結局口を噤んだ。
「さあたこ焼きだ。俺もう食べるつもりしかないけど、いい?」
「いいですよ。やってみたかったら教えますけど」
「俺にもできる?」
「さあ?」
できるって言ってくれないんだな、とトガシは笑った。じゃあちょっとやってみたいな、と言うと、まず俺が作るところ見ててください、と樺木が言う。再びスイッチの入れられたたこ焼き器が熱を持ったのを確認して、樺木は生地の入ったボールとお玉を持った。生地の後に、手際よく具材が投入されていく。
「タコ切るの上手いね。均等だ」
「これも仕込まれたんで。時間測られて」
「スパルタだ」
ストップウォッチ片手にタコを切るところを監視されている様を想像した。シュールな光景だが、それは口に出さない。自分が思うより飛び抜けて、たこ焼きに対して真剣だ。
「この鉄板、ここに溝あるのわかりますか。この溝に沿ってそれぞれの個体の分を決めていきます」
竹串がつるつる動く。少し固まり始めた生地が切り分けられ、凹みの中に寄せられていく。個体……とトガシが復唱すると、はい、と返事が返ってくる。
「こう、丸め込んで行って、成形していく感じです」
くると樺木が手首で返すと、丸いたこ焼きが現れる。
「まんまるだ」
「たこ焼き見んの初めてですか?」
「作ってるところ、こんな間近で見るのは初めてだな。カバキくん、すごいね」
「どうも」
得意げでもなく、当然という顔をして樺木が言う。この後輩はいつもこんな感じだ。
しばらくそれぞれの〝個体〟の面倒をみてから、そろそろいいですね、と樺木は呟いた。
「皿持ってきます。⋯⋯トガシさん他人ん家の皿は嫌とかありますか」
もしあれだったら紙皿買って来ますけど、と言い出した樺木を慌てて止める。
「ないよ、ないない! 大丈夫! カバキくんの中で俺ってどういうイメージなの?」
「やや潔癖って感じですかね」
「なんで⋯⋯」
同じ鍋をつついた仲なのに! と大袈裟に嘆いて見せれば、それもそうでしたね、と樺木は皿を取りにキッチンに向かった。肩をなでおろす。またトガシを置き去りに百均まで走られたらどうしようかと思った。カバキくんこそ、自分のテリトリーに他人を入れて放って置く、とか絶対に嫌なタイプだと思ってたんだけどな。とトガシは樺木の印象を修整する。けっこう迂闊だ。もしかしたら、年相応に、という言葉が似合うようなくらいに。
「トガシさんの使ってるロッカーの様子見ちまったことがあるんすけど、」
皿を持って戻ってきた樺木がそう言い出したのを聞いてなんだかぎくりとする。他人にどう思われていようと自分がそうそう変わることはない、とこの四半世紀を生きてみて自分について知っているのに、どうもダメだ。他人からどう思われているのか、緊張する。
「トガシさんのロッカー、絶対全部まとまってて。この人いつでもすぐに全部片付けられるようにしてるんだなって」
「誰だってそうじゃないの」
「違いますよ」
競技場のロッカーなんて公共物だし、散らかしようもないだろうと思うのだが、樺木から見ると違うらしい。
「まあなんでもいいです。俺ん家の皿が嫌じゃないなら。食べましょう」
樺木がひょいひょいとプレートから皿にたこ焼きを移していく。ソースと鰹節をささっとかけて、マヨネーズと青のりどうしますか、と聞かれたので、おすすめで、と返す。すると青のりの新しい袋が開封されたので、咄嗟にやめときゃよかった、と思う。口には出さなかったので樺木には伝わっちゃいないだろうけど。
どうぞ、と差し出された皿をありがとうと言って受け取って、一旦机のうえに置く。
「いただきます」
「召し上がれ」
皿の上に綺麗に並んだ丸をトガシが箸で掴むのを見て、樺木も自分のぶんに箸をつけた。
少し冷ましてから口に入れる。
「うぁっ⋯⋯ち⋯⋯!」
思いの外熱かった。咀嚼も出来ずどうにか息を通すと、熱いすよ、と樺木が言う。先に言え。睨みつけると、明らかに面白がった顔をしていた。少し驚く。生意気だなこの後輩! 数秒見つめ合って、どちらともなく視線を外した。
ゆっくりゆっくり、どうにか飲み込むところまでたどり着いた。
「⋯⋯美味しい」
「どうも。熱さ以外わからなくなるかと思ってました」
「なんとかね⋯⋯」
なんだってこの後輩は今日こんなに意地が悪いんだ。この前の鍋の日の意趣返しか。だったら受け止める道理があるな、と思う。顔の前でパタパタと手を振って、おそらく赤くなっているであろう顔の熱を冷まそうとしてみる。樺木は自分の皿の分を口に運び満足げだ。
やられっぱなしは気に食わないので、口の中を冷やすためにコップを口に運びながら、思い出したことを言ってみる。
「カバキくんて自分の走ってるとこどのくらい見返すの」
「? なんすか、急に」
さっきちょっとユーチューブの画面見えちゃって。日陸の決勝が再生済みになってたからさ。経緯を説明すれば納得したようだった。
普段はデータ整理とフォーム確認くらいですけど、と樺木は話し始める。
「あれはトガシさんと小宮さんの競り合いが俯瞰だとどう見えたのか気になって、中継の映像探したんですよ」
「へえ。どうだった?」
途端嫌そうな顔をする。少し声のトーンを低めて話しだした。
「純粋な意地の張り合いって感じで、十秒なのにこうも競り合えるもんかと思いました。羨ましい」
「羨ましい⋯⋯」
思わず復唱した。確かに、あれほどの一本はここ数年無かったが。
「あとなんかやたらと楽しそうでしたね。トガシさんあのあとあんな痛がってたのに」
「あ、ああ⋯⋯。楽しかったんだよね。すごく、純粋に、走ることが」
「そうすか」
「羨ましい?」
「はい」
返事は早かった。当然のように肯定される。
「カバキくんって走るの好き?」
「は?」
「急にごめん、気になって」
樺木は一瞬かなり訝しげな顔をしたが、ゆっくりと話しはじめた。
「少なくとも、嫌いではないです。嫌いだったらここまで続けてない。勝ったらそれなりに嬉しいし、自己ベストを更新したら、心底気分がいい」
「勝っても〝それなり〟なの?」
「相手によるんじゃないですか」
おもむろに樺木は追いやられていたタブレットをテーブルの上に持ってきた。ロックを解除したと思うと、動画ストリーミングアプリを開く。検索バーに何かを打ち込んで、ひとつのサムネイルをタップした。
日陸の、準決勝。トガシも樺木も走っていないほうの。
財津の引退レースだ。
樺木の指先がすいすいとタイムスタンプを探し、タップすると、タブレットからの音が一瞬消えた。号砲。
国内トップ選手の中でも、財津、小宮、海棠のスタートは顕著に良かった。五〇メートルを超えたあたりで、海棠がさらに伸びた。それに対応するように、財津が落ちる。タブレットからの歓声を無視して、樺木が話しだす。
「たとえばここで一番速かったのが俺だったら、この一本はとびきりに特別になったでしょう。それは海棠さんや財津さん、小宮さんがとびきりのスプリンターだからです。ずっと勝ちたくて堪らないような」
動画が止まったのを確認して、樺木は目線を上げた。いつものような、何を考えているのか易易と伺えない表情だ。
「俺は誰相手だって勝ちたいです。財津さんにだって勝ちたかった。当たり前ですけど、財津選手の引退を惜しんでるのはメディアとファンだけじゃないんですよ」
格好いいな、と思わず呆けていると樺木が重ねて言う。
「トガシさん、復帰したら自己ベスト出してくださいよ。俺はそれに勝つんで」
「⋯⋯言うなあ」
勝つ気のない奴と走っても楽しくないでしょう、と樺木は言った。
「俺でいいの? 俺が君のお眼鏡にかなうの、なんだか不思議な感じがするな」
「まあ、日陸前のトガシさんにだったら、言わなかったかもしれないすね」
トガシは笑った。
「じゃあ、本気で走ってよかったなあ」
それに対して、樺木は満足そうに言う。
「早く万全に復帰してください」
***
それからなんとなく二人とも無言になって皿を空にした。外から、秋の予感をはらんだ風が吹く。
「じゃあトガシさん、焼いてみますか」
おもむろに樺木が言う。先ほどトガシがたこ焼きを焼いてみたい、と言ったことへの言葉だと一拍遅れて気がついた。
「さっき一回見ただけじゃあできないって」
「指示はしますよ」
言われた通りに油を敷き、生地を流し込み、具を投入し、先ほどの様子を思い出しながら言われた通りに生地を個体ごとに分けようとする。
悪戦苦闘。
「これ俺めちゃくちゃ下手だよね」
「初めてなんてこんなもんじゃないですか」
樺木は言うが、面白がっていることはわかる。
「スマホ構えないでよ」
「トガシさんの記念すべき初めてのたこ焼き製作なのに」
「俺やっぱ走る以外できないかも」
「極端すね」
樺木がリカバリーしますよ、と竹串を構えると、プレートの半数ほどは個体としての丸さを得た。
「えっなんで⋯⋯? 俺トガシさんが油敷いてるとこ見てましたよね? 何したんすか」
残り半数は樺木にも救えなかったらしい。
「言われた通りにしたつもりなんだけど⋯⋯」
「めっちゃ焦げ付いとる」
「ごめん⋯⋯」
「いやしょげんでいいですけど。これどうすっかな」
「責任持って俺が食べるよ」
「食べるんですか」
「勿体無いだろ」
「どうせなら美味いやつ食べてくださいよ」
「じゃあ俺の作ったこいつらは誰が食べてくれるの」
「愛着湧いてる……?」
若干。おっと呟いてカバキが個体の形を得られなかった塊をがりがりと剥がす。黒い。
「炭みたい。これ燃やしたら灰になるかな」
「他人の部屋で火事起こそうとしてます?」
財津の引退は一つ、理想的な形をしていた。後進として更なる理想を言うならあれが例えば小宮なんかによって為されればきれいな世代交代だったのだろうけど。それでも、トガシも樺木も小宮もあるいは新星森川なんかも、海棠を、そして財津の記録を越してゆくつもりだ。財津が君臨していた期間、栄光は他の誰の手に渡らなかったわけだが、芽は死なず、俺たちはここまで来た。
引退について考えていたすこし前の自分を思い出して、自嘲する。無理だな。まだ嫌だ。
ああも美しい終わりは手にできない。俺はまだ、まだ燻っている。燃やしきっちゃあいないだろうとこの脚が叫んでいる。
いつかきれいな灰になって尽きるまで、走るのをやめたくない。そう思う。
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