星でもないのに
残像ばっかりぴかぴか光りやがってと思っていたら、本体も光源としての輝きを取り戻していた。
トガシの話だ。
樺木にとっての、と付け加えるとより正確である。今までの、どこか精彩を欠く姿は見る影もなく、トガシはかの大会の決勝で華々しく衆目を集めてみせた。怪我の悪化とともに。妙にセンセーショナルに取り上げられて、話題になっている。
少なくとも今シーズンはもう走れないと噂で聞いた。少なくとも。しかも噂で、だ。現状、樺木はトガシの状態について詳しく知ることのできる立場にない。せいぜいがメディアを通した情報を得るくらいだ。
最悪の場合はどうなるのか、当人に聞こうとした指がずっと画面の上で迷っている。『大丈夫ですか』?『お大事に』? 違うだろう。違うはずだ。『いつ走れるようになりますか』――駄目だ。やめにする。スマートフォンを投げるようにしてテーブルに置いた。
あの十秒を思い出す度にまだ高揚感が胸を震わせる。瞼の裏にはチカチカと光が残っている気がする。
誰しも調子の良し悪しというのはあって、日本選手権の決勝において間違いなくトガシはここ数年――もしかしたら十数年――で一番だった。樺木だって悪くはなかったが、ああも実力以上に走れるような一本ではなかった。海棠はきっと準決勝のほうがベストコンディションだったろう。小宮は常に淡々と好タイムを出す選手だが、走り終わってあんな気持ちの良さそうな顔をしたのを見たのは初めてだった。
あの場にいられたことが嬉しい。だがそれ以上に悔しくてたまらない。樺木はあのトガシと競り合いたかったのだ。予選と準決勝では一本ずつ獲りあった。三本目がこれなら今回は樺木の敗けだ。心底悔しい。同時にそうでなきゃなとも思う。そうでなきゃ、食いでがない。
頭を整理するために、走るか、と思ってジョギング用のウェアに着替える。Tシャツの襟口に頭を通したところで、テーブルの上に放置したスマートフォンがびいと鳴った。なんだと思ったら通知にはトガシの名前がある。内容が何も想像できなかった。少し焦りさえしてチャットを開くと、なんだかのんきにも見えるメッセージの全文が表示される。
『カバキくん、どっか時間取れそうだったら飯でも行かないか? ゆっくり話そうよ』
勢いで既読を付けてしまったので、まず初めに思い浮かんだ言葉を返信する。
『どういう風の吹きまわしですか』
『時間が有り余ってるんだ』、『難しかったら大丈夫だよ』、『急だっただろ。ごめんね』。
吹き出しがポコポコと浮き上がる。あの人案外打つの早いんだな、使い所少なそうなのに、とどうでもいいことを思った。
『無理ではないです』
あとで日程調整しましょう、と送ってアプリを閉じると、ありがとう、忙しいところ悪いね、と通知のポップアップが見える。とりあえず着替えの続きをする。
ひどく心臓が鳴っている。自分がメッセージに変なことを送る前に落ち着かなくては。感情を整理するにも、予定を確認するにも、一度走ってしまった方が早い。そう長くはならないはずだ。靴紐を縛りなおして、ドアを開けると、日はもうとっぷり暮れている。
待ち合わせは駅だった。松葉杖を付いた背の高い美丈夫はそれはもう目立った。こんなところでも目立つのかと思う。声をかけられているところを見つめていると、トガシがこちらを見た。助かった! と言う顔をして、こちらに向かって進んでくる。松葉杖の人間に歩かせて自分は待っているわけにもいかないなと思って近づいていくと、来てくれてありがとう、とまず言われる。
「もしかしてちょっと待った?」
「いえ。来たら絡まれてんなぁと思って見てました」
「気付いたなら助けてくれよ。俺普段あんまり声かけられないんだけどな」
ポスターになったとかでもないし、みんなそんな日本選手権見てたのかな、とトガシが言う。どう考えても目を惹く松葉杖の人間を見て付け込む隙がありそうだと思って声をかけてただろ、ということは言わない。この人自分のことどう見えているんだろうか。さっぱりわからない。トガシは両手で松葉杖を持っているにもかかわらず、器用にICカードを改札にかざして抜けていく。それについていく。ペースはゆっくりで、少しもどかしくもある。
晴れててよかったね、とトガシが少し話しかけてこようとしたタイミングで、電車がホームに滑り込んできた。この辺で生きている人って終電以外の電車の時間を気にしたことあるんだろうか。乗り込む。冷え冷えとした色をした座面だな、といまだに思う。
優先席って初めて座ったかも。帰宅ラッシュ前のまばらな席の埋まり方をした車内で、トガシはそう言って笑う。窓からの西日が眩しくて目を細めた樺木に、カバキくん座らないの、と聞いてくる。確かにこの車両内で立っているのは樺木だけだ。優先席も空いているし、座ったっていいのだろうけど、結局立ったままいることにした。座ったらなにか話さなければいけないと思ったからだ。これから食事をして話をしに行くのに、まだなにか怖じ気づいている。松葉杖を見るのが怖いのかもしれない。とんだ弱虫だな。電車は粛々と定刻通りに二人を目的地へと運んでいく。どこかの河川敷が窓の外を流れていった。
何を話すでもなく、いくつかの駅を過ぎた。
「あ、次だ」
何の気なしにトガシは立ちあがろうとする。あんた松葉杖なのに、と思ったがトガシはそのまま危なげなく立った。どこか拍子抜けするような気分と、自分が何か下に見ていた気がして後頭部が熱くなる。電車はそこまで揺れずに、すぐに次の駅に到着した。
駅からほとんど歩かないところに、その店はあった。見るからに居酒屋だが、今まで名前を聞いたことはなかった。チェーン店ではないのだろう。
「ここのもつ鍋が旨いんだって」
苦手なものがないか聞かれた後、すぐに店のリンクが送られてきたものだから、行きつけか何かだと思っていたが、この言いようを見るに違うようだ。
「予約してくれたんですよね? 初めてなんですか」
「この店? うん。高校の時の先輩が教えてくれた。美味しいらしいよ」
確かトガシは根っから関東の人間であるから、高校時代の人間関係も無理せずとも繋いでいけるのだろう。少し羨ましい気分になりながら、頷く。
「そこまで言うなら不味かったら許しません」
「厳しいなあ」
扉を開く。開いたまま押さえていると、トガシは軽やかにありがとうと言いながら通り抜ける。
「二名で十七時から予約したトガシです」
マジでサシなのかよ、と改めて驚く。お近づきになることを望む謎の第三者を紹介される可能性だってあると思っていた。
鍋。夏。シーズン中。樺木はスポーツ栄養士にわざわざ相談したし、お友達とですか? 楽しんでくださいね! という言葉をもらってここにいるが、トガシはどうなのだろうか。というか鍋が有名な店らしいことはレビューを見て察していたが、本気でこの季節に鍋を食べるつもりなのだろうか。ぐるぐる考え口を噤む樺木に、トガシは世間話のトーンで聞く。カバキくんってシメは麺派? 雑炊派? マジで鍋みたいだ。しかももつ鍋かよ。ちゃんこ鍋とかだったら対戦相手のコンディションに対するそういうネガティブな作戦だと解釈してたが、微妙なラインだ。
「あ、もしかしてカバキくん鍋好きじゃない? それ以外にしようか」
「⋯⋯鍋は好きです」
ツッコミどころを数えていただけで。
「トガシさんのほうが好きじゃないと思ってました。いつも小鉢がたくさんある定食選んでるイメージです」
「ええ、よく見てるなあ。鍋は普通に好きだよ。この時期は珍しいけど」
あんたがオールシーズン鍋大好き野郎の可能性だって考えていたのに! なんなんだよこの人。あのトラックのうえであんなに輝いていたというのに、差し向かいで話してるとしみじみ意味のわからない人だ。
「実家じゃあんまりやらなかったけど、トロトロのネギとか好きなんだ」
ひとまずの注文を済ませてトガシが言う。まだそう混んでいないっていうのもあるけど、よく通る声で店員を呼んだ。モバイルオーダーのためのQRコードは目に入らなかったらしい。次から俺が頼みますよ、と言えば、恥ずかしげに笑う。
「おすすめされてからずっと来てみたかったんだ。一人鍋は外じゃなかなか無理だろ。カバキくんが呼ばれてくれてよかった」
「はあ」
どうも、と言うのもなんだか違う気がする。だってさっき言っていた『先輩』と行けばいい話だ。
「トガシさん」
呼びかける。目が合う。正面に座っているのだから当然だ。
「そんな話するために俺を呼んだんじゃないですよね」
「お待たせしましたー!」
ちょうどそのタイミングで、ガスコンロと鍋本体が運ばれてきた。二人とも視線を逸らして、少し身を引く。誰だよ鍋なんてチョイスしたの。この人だ。トガシだ。
トガシは言う。
「カバキくんと普通に喋ってみたかったっていうのもある」
普通に、という言葉にひどく引っ掛かりを覚えて、首を傾げる。どういう含意だ。競技者としてでなく、という意味だろうか。
そんな会話、する意味あるか?
ほんとうはトラックの上でだけでいいだろうと樺木は思う。あそこに、すべてがある。俺のここまでの軌跡すべてが。トガシだってそうだろうと思う。そうに決まっている。だってこの人が、あの距離を走るのに全てを費やす生き方をする人だってことを知っている。
飛躍したことを言えば、ほんとうはもっと美しい生き物なのに人間ぶってる、そんな感じがする。想像を振り払うように少し首を振る。この人はスプリンターだ。そういう生き物だ。樺木の様子を見ていたトガシが少し首を傾げた気配がしたが、気にしない。
「どんなこと喋ればいいんですか」
「……最近どう?」
「ありえない振り方ですね。最近のクサシノの内部事情とか喋りましょうか。トガシさんがいた頃とさほど変わらないと思いますけど」
「いや、ごめん、俺が悪かった。ちょっとなんて言ったらいいかな……。最近人生を見つめ直してて、人間関係は大事にした方がいいなと思って、つい声かけちゃったんだけど」
小学生か? と思いながら適当にグラスに口をつければ、乾杯し忘れたな、とトガシが呟く。
「じゃあトガシさんの成人してようやっとの気づきに乾杯しましょうか。これまでどうやって生きてたんですか」
「走ってた」
つい、声を忘れた。そりゃそうだよ、と頭のどこかが叫ぶ。樺木だってそうだ。走れば、走るのが速ければ、なんとかなる。そういうシーンが実は世界にはたくさんあって、それを誰よりも速く駆け抜けることで樺木だって人生を乗りこなしてきた。海棠に聞かれたら若造が何言ってると笑われそうだが、事実なのだ。
じゃあまた走ればいいじゃないですか、と喉元まで迫り上がった言葉が、椅子にもたれ掛けさせた松葉杖をみて下がっていく。今、この人は、走れるのか?
「俺はさ、走り方はあれしかわからない。全力疾走しか」
トガシが喋り始める。
「それ以外に意味がない……とまではいかないけど、俺はあの景色が、時間が、距離が、至上なんだ。あれ以上のものがあると思ったことがない」
言葉を一つも取りこぼしたくなくて、グラスを置いた。鍋は煮え始めているが、それどころじゃない。
「だから、今、それを取り戻すのが難しいって言われていて、打ちのめされている。だからこれまで出会った人にちょっとずつ縋ったりしてみてる。そのうちの一人が君ってわけだ」
悪いね。とトガシは言った。自己完結的で内省的すぎて謝られている気が微塵もしなかった。
「難しいんですか」
「不可能ではないって言われた。でもそう上手くいくと思うのは楽観的すぎる、ともね」
「諦めてはいないんでしょう」
「知ったように言うね。まあただ……どうにもならないのだったら、引退して後進育成に……っていうのも、無しではないのかなって」
無しだろ。
無しに決まってる。
口には出さずに睨むと、語気はだんだん弱まっていく。
「鍋、いい感じかも」
トガシが明確に話を変えようとしたのを見て、お玉に伸ばされた手を思いっきり掴む。
星でもないのに、光って、強く光って、それで最後にしようだなんて、――許すか、そんなもん!
「走るんですよ。他にない」
知ってるだろう。知っているんだろう、あんた! 走るしかない。俺たちには、それが許されているのに! 放棄するなんて、有り得ない!
「復帰が望み薄でも?」
「ゼロじゃないんでしょう」
「俺がもう競技人生のピークは過ぎているとしても?」
「今年の海棠さんの走り見てもう一回それが言えるなら考えますよ」
「君は俺が走れると思うのか」
「思う」
熱よ伝われ、と思うし、伝わったら恥ずかしくて仕方がない、とも思う。でも信じていると言っていい強さで思っている。トガシという一人のスプリンターは、まだ走れる。だってまだ、俺はあんたに勝ち切っていない! 走れ。走れよ。走ってくれよ。あんたと走りたい。
ポツリと落とすようにトガシがごめん、と言った。先ほどとは違って、感情が乗っていた。
「ごめん。俺はそう言って欲しくて今日誘ったのかもしれない」
君は俺のことを、もっとやれると思っていてくれる。前から。トガシが言う。ふっと顔に上がってきた熱を、鍋のせいにする。もう火を止めてもいいかもしれない。
「知りませんよ。トガシさんの限界なんて。知らないけど、まだ先でしょう。だって俺はまだまだ走れるんだから」
「君と俺の走りに何か関係が」
「何にも有りませんよ。ただたまに、隣で走るだけです。平行線です。一生交わらない」
ふ、とトガシが笑う。鍋食べようか、とお玉を掴みなおした。今度は樺木も止めない。
「だからせいぜい復帰までくらいは待ちますよ」
自分の分も取り分けている姿を見ながら言えば、どこか光る瞳と目があった。
「待たないで。待ってなくていいよ。すぐに追いつく」
「なら、……期待してます」
「あは。うん。いいね。気合いが入る」
取り分けてもらった皿をありがたく受け取って、いただきます、と声に出した。口をつければ熱い。体温が上がってそのまま冷めなさそうだ。
この店エアコン壊れてんじゃねえかな、と樺木はうっすら思う。
「小宮さんにはなんか話に行ったんですか」
「うぇ?!」
ふと思い出して言えば、トガシは声をひっくり返して驚いた。人間関係っていうなら、小宮だって対象範囲に入るんじゃないだろうか。
「トガシさんと小宮さん、タメじゃなかったでしたっけ」
「あ、ああ……、そうだよ。同学年。でもなあ」
「なんですか」
「小宮くんの前だと俺、かっこつけたいからなあ」
小宮くん、と呼ぶところを初めて聞いた。選手、と呼んでいたところなら見たことがあるが。国内トップ選手だろうと、学生の時から接点があるだろうし、樺木が知るより、親しい関係なのかもしれない。
「俺の前ではいいんですか。カッコつけなくて」
「だって知ってるだろ、君は。俺が安心しきって腑抜けてた時のことだって」
確かに知っている。なかなか奮わなかった時だって、興味の薄そうな顔をして栄光をかっさらっていった時期だって、樺木は見ていた。トガシのことを。
「あと小宮くんの連絡先知らないんだよね」
前言撤回。トガシが変なだけで、別に親しくもなんともないのかもしれない。どちらにせよ、樺木にはあまり関係ない。どちらも倒すだけだ。あの百メートルという選ばれた距離で。
腹がくちくなって、少し口も緩む。
「トガシさんは、走ることに、みっともなくしがみついて、もがいて、足掻いてください」
樺木の価値観だってちょっと変わったのだ。
「それが一番、かっこういいと思うんで」
トガシは笑う。笑うときらきらしいと思う。愛想笑いなら見たことがあるし、調子が良い時のしてやったという笑顔も見たことがあるが、それとはまた違う。そこから光るみたいな勢いのある笑い方だ。
「任せてよ。俺が走って、怪我して、いい歳で、みんなすわ引退かって囁いてる。そうなったら断然、今、俺に一番期待してるのは俺だからね」
トガシが軽やかに言う。俺がどれだけ待ち望んでいるか知らないのか、と樺木は思う。知るはずもない、とも思う。言ってしまおうかと少し迷って、結局やめにした。いつかあなたが気がつくまで、こちらから教えてやる筋合いもないだろう。
肉体派の人間二人だ。鍋は締めまで休憩を挟まずに進んでいった。雑炊は樺木が作る。
「今日はありがとう。本当に。またトラックで会おう。たまにはまた、トラックの外でも」
鍋をかき混ぜていると、トガシが言った。トラックの外、が意外で、顔を上げた。目があって、離せなくなる。
「君と話すのは、いい刺激になる」
ぴりりと光る瞳の中に、確かに熱があるのを感じる。背中にすこし鳥肌が立ったのに気がついて、意識してトガシの視線を振り切った。体温が上がっている。熱は伝播する。
視界の下端でガスコンロの火が光る。銀色の松葉杖がその光を反射していた。熱を伴ってひかり輝くなら、そこにはきっと、炎の一字がふさわしい。
トガシの話だ。
樺木にとっての、と付け加えるとより正確である。今までの、どこか精彩を欠く姿は見る影もなく、トガシはかの大会の決勝で華々しく衆目を集めてみせた。怪我の悪化とともに。妙にセンセーショナルに取り上げられて、話題になっている。
少なくとも今シーズンはもう走れないと噂で聞いた。少なくとも。しかも噂で、だ。現状、樺木はトガシの状態について詳しく知ることのできる立場にない。せいぜいがメディアを通した情報を得るくらいだ。
最悪の場合はどうなるのか、当人に聞こうとした指がずっと画面の上で迷っている。『大丈夫ですか』?『お大事に』? 違うだろう。違うはずだ。『いつ走れるようになりますか』――駄目だ。やめにする。スマートフォンを投げるようにしてテーブルに置いた。
あの十秒を思い出す度にまだ高揚感が胸を震わせる。瞼の裏にはチカチカと光が残っている気がする。
誰しも調子の良し悪しというのはあって、日本選手権の決勝において間違いなくトガシはここ数年――もしかしたら十数年――で一番だった。樺木だって悪くはなかったが、ああも実力以上に走れるような一本ではなかった。海棠はきっと準決勝のほうがベストコンディションだったろう。小宮は常に淡々と好タイムを出す選手だが、走り終わってあんな気持ちの良さそうな顔をしたのを見たのは初めてだった。
あの場にいられたことが嬉しい。だがそれ以上に悔しくてたまらない。樺木はあのトガシと競り合いたかったのだ。予選と準決勝では一本ずつ獲りあった。三本目がこれなら今回は樺木の敗けだ。心底悔しい。同時にそうでなきゃなとも思う。そうでなきゃ、食いでがない。
頭を整理するために、走るか、と思ってジョギング用のウェアに着替える。Tシャツの襟口に頭を通したところで、テーブルの上に放置したスマートフォンがびいと鳴った。なんだと思ったら通知にはトガシの名前がある。内容が何も想像できなかった。少し焦りさえしてチャットを開くと、なんだかのんきにも見えるメッセージの全文が表示される。
『カバキくん、どっか時間取れそうだったら飯でも行かないか? ゆっくり話そうよ』
勢いで既読を付けてしまったので、まず初めに思い浮かんだ言葉を返信する。
『どういう風の吹きまわしですか』
『時間が有り余ってるんだ』、『難しかったら大丈夫だよ』、『急だっただろ。ごめんね』。
吹き出しがポコポコと浮き上がる。あの人案外打つの早いんだな、使い所少なそうなのに、とどうでもいいことを思った。
『無理ではないです』
あとで日程調整しましょう、と送ってアプリを閉じると、ありがとう、忙しいところ悪いね、と通知のポップアップが見える。とりあえず着替えの続きをする。
ひどく心臓が鳴っている。自分がメッセージに変なことを送る前に落ち着かなくては。感情を整理するにも、予定を確認するにも、一度走ってしまった方が早い。そう長くはならないはずだ。靴紐を縛りなおして、ドアを開けると、日はもうとっぷり暮れている。
待ち合わせは駅だった。松葉杖を付いた背の高い美丈夫はそれはもう目立った。こんなところでも目立つのかと思う。声をかけられているところを見つめていると、トガシがこちらを見た。助かった! と言う顔をして、こちらに向かって進んでくる。松葉杖の人間に歩かせて自分は待っているわけにもいかないなと思って近づいていくと、来てくれてありがとう、とまず言われる。
「もしかしてちょっと待った?」
「いえ。来たら絡まれてんなぁと思って見てました」
「気付いたなら助けてくれよ。俺普段あんまり声かけられないんだけどな」
ポスターになったとかでもないし、みんなそんな日本選手権見てたのかな、とトガシが言う。どう考えても目を惹く松葉杖の人間を見て付け込む隙がありそうだと思って声をかけてただろ、ということは言わない。この人自分のことどう見えているんだろうか。さっぱりわからない。トガシは両手で松葉杖を持っているにもかかわらず、器用にICカードを改札にかざして抜けていく。それについていく。ペースはゆっくりで、少しもどかしくもある。
晴れててよかったね、とトガシが少し話しかけてこようとしたタイミングで、電車がホームに滑り込んできた。この辺で生きている人って終電以外の電車の時間を気にしたことあるんだろうか。乗り込む。冷え冷えとした色をした座面だな、といまだに思う。
優先席って初めて座ったかも。帰宅ラッシュ前のまばらな席の埋まり方をした車内で、トガシはそう言って笑う。窓からの西日が眩しくて目を細めた樺木に、カバキくん座らないの、と聞いてくる。確かにこの車両内で立っているのは樺木だけだ。優先席も空いているし、座ったっていいのだろうけど、結局立ったままいることにした。座ったらなにか話さなければいけないと思ったからだ。これから食事をして話をしに行くのに、まだなにか怖じ気づいている。松葉杖を見るのが怖いのかもしれない。とんだ弱虫だな。電車は粛々と定刻通りに二人を目的地へと運んでいく。どこかの河川敷が窓の外を流れていった。
何を話すでもなく、いくつかの駅を過ぎた。
「あ、次だ」
何の気なしにトガシは立ちあがろうとする。あんた松葉杖なのに、と思ったがトガシはそのまま危なげなく立った。どこか拍子抜けするような気分と、自分が何か下に見ていた気がして後頭部が熱くなる。電車はそこまで揺れずに、すぐに次の駅に到着した。
駅からほとんど歩かないところに、その店はあった。見るからに居酒屋だが、今まで名前を聞いたことはなかった。チェーン店ではないのだろう。
「ここのもつ鍋が旨いんだって」
苦手なものがないか聞かれた後、すぐに店のリンクが送られてきたものだから、行きつけか何かだと思っていたが、この言いようを見るに違うようだ。
「予約してくれたんですよね? 初めてなんですか」
「この店? うん。高校の時の先輩が教えてくれた。美味しいらしいよ」
確かトガシは根っから関東の人間であるから、高校時代の人間関係も無理せずとも繋いでいけるのだろう。少し羨ましい気分になりながら、頷く。
「そこまで言うなら不味かったら許しません」
「厳しいなあ」
扉を開く。開いたまま押さえていると、トガシは軽やかにありがとうと言いながら通り抜ける。
「二名で十七時から予約したトガシです」
マジでサシなのかよ、と改めて驚く。お近づきになることを望む謎の第三者を紹介される可能性だってあると思っていた。
鍋。夏。シーズン中。樺木はスポーツ栄養士にわざわざ相談したし、お友達とですか? 楽しんでくださいね! という言葉をもらってここにいるが、トガシはどうなのだろうか。というか鍋が有名な店らしいことはレビューを見て察していたが、本気でこの季節に鍋を食べるつもりなのだろうか。ぐるぐる考え口を噤む樺木に、トガシは世間話のトーンで聞く。カバキくんってシメは麺派? 雑炊派? マジで鍋みたいだ。しかももつ鍋かよ。ちゃんこ鍋とかだったら対戦相手のコンディションに対するそういうネガティブな作戦だと解釈してたが、微妙なラインだ。
「あ、もしかしてカバキくん鍋好きじゃない? それ以外にしようか」
「⋯⋯鍋は好きです」
ツッコミどころを数えていただけで。
「トガシさんのほうが好きじゃないと思ってました。いつも小鉢がたくさんある定食選んでるイメージです」
「ええ、よく見てるなあ。鍋は普通に好きだよ。この時期は珍しいけど」
あんたがオールシーズン鍋大好き野郎の可能性だって考えていたのに! なんなんだよこの人。あのトラックのうえであんなに輝いていたというのに、差し向かいで話してるとしみじみ意味のわからない人だ。
「実家じゃあんまりやらなかったけど、トロトロのネギとか好きなんだ」
ひとまずの注文を済ませてトガシが言う。まだそう混んでいないっていうのもあるけど、よく通る声で店員を呼んだ。モバイルオーダーのためのQRコードは目に入らなかったらしい。次から俺が頼みますよ、と言えば、恥ずかしげに笑う。
「おすすめされてからずっと来てみたかったんだ。一人鍋は外じゃなかなか無理だろ。カバキくんが呼ばれてくれてよかった」
「はあ」
どうも、と言うのもなんだか違う気がする。だってさっき言っていた『先輩』と行けばいい話だ。
「トガシさん」
呼びかける。目が合う。正面に座っているのだから当然だ。
「そんな話するために俺を呼んだんじゃないですよね」
「お待たせしましたー!」
ちょうどそのタイミングで、ガスコンロと鍋本体が運ばれてきた。二人とも視線を逸らして、少し身を引く。誰だよ鍋なんてチョイスしたの。この人だ。トガシだ。
トガシは言う。
「カバキくんと普通に喋ってみたかったっていうのもある」
普通に、という言葉にひどく引っ掛かりを覚えて、首を傾げる。どういう含意だ。競技者としてでなく、という意味だろうか。
そんな会話、する意味あるか?
ほんとうはトラックの上でだけでいいだろうと樺木は思う。あそこに、すべてがある。俺のここまでの軌跡すべてが。トガシだってそうだろうと思う。そうに決まっている。だってこの人が、あの距離を走るのに全てを費やす生き方をする人だってことを知っている。
飛躍したことを言えば、ほんとうはもっと美しい生き物なのに人間ぶってる、そんな感じがする。想像を振り払うように少し首を振る。この人はスプリンターだ。そういう生き物だ。樺木の様子を見ていたトガシが少し首を傾げた気配がしたが、気にしない。
「どんなこと喋ればいいんですか」
「……最近どう?」
「ありえない振り方ですね。最近のクサシノの内部事情とか喋りましょうか。トガシさんがいた頃とさほど変わらないと思いますけど」
「いや、ごめん、俺が悪かった。ちょっとなんて言ったらいいかな……。最近人生を見つめ直してて、人間関係は大事にした方がいいなと思って、つい声かけちゃったんだけど」
小学生か? と思いながら適当にグラスに口をつければ、乾杯し忘れたな、とトガシが呟く。
「じゃあトガシさんの成人してようやっとの気づきに乾杯しましょうか。これまでどうやって生きてたんですか」
「走ってた」
つい、声を忘れた。そりゃそうだよ、と頭のどこかが叫ぶ。樺木だってそうだ。走れば、走るのが速ければ、なんとかなる。そういうシーンが実は世界にはたくさんあって、それを誰よりも速く駆け抜けることで樺木だって人生を乗りこなしてきた。海棠に聞かれたら若造が何言ってると笑われそうだが、事実なのだ。
じゃあまた走ればいいじゃないですか、と喉元まで迫り上がった言葉が、椅子にもたれ掛けさせた松葉杖をみて下がっていく。今、この人は、走れるのか?
「俺はさ、走り方はあれしかわからない。全力疾走しか」
トガシが喋り始める。
「それ以外に意味がない……とまではいかないけど、俺はあの景色が、時間が、距離が、至上なんだ。あれ以上のものがあると思ったことがない」
言葉を一つも取りこぼしたくなくて、グラスを置いた。鍋は煮え始めているが、それどころじゃない。
「だから、今、それを取り戻すのが難しいって言われていて、打ちのめされている。だからこれまで出会った人にちょっとずつ縋ったりしてみてる。そのうちの一人が君ってわけだ」
悪いね。とトガシは言った。自己完結的で内省的すぎて謝られている気が微塵もしなかった。
「難しいんですか」
「不可能ではないって言われた。でもそう上手くいくと思うのは楽観的すぎる、ともね」
「諦めてはいないんでしょう」
「知ったように言うね。まあただ……どうにもならないのだったら、引退して後進育成に……っていうのも、無しではないのかなって」
無しだろ。
無しに決まってる。
口には出さずに睨むと、語気はだんだん弱まっていく。
「鍋、いい感じかも」
トガシが明確に話を変えようとしたのを見て、お玉に伸ばされた手を思いっきり掴む。
星でもないのに、光って、強く光って、それで最後にしようだなんて、――許すか、そんなもん!
「走るんですよ。他にない」
知ってるだろう。知っているんだろう、あんた! 走るしかない。俺たちには、それが許されているのに! 放棄するなんて、有り得ない!
「復帰が望み薄でも?」
「ゼロじゃないんでしょう」
「俺がもう競技人生のピークは過ぎているとしても?」
「今年の海棠さんの走り見てもう一回それが言えるなら考えますよ」
「君は俺が走れると思うのか」
「思う」
熱よ伝われ、と思うし、伝わったら恥ずかしくて仕方がない、とも思う。でも信じていると言っていい強さで思っている。トガシという一人のスプリンターは、まだ走れる。だってまだ、俺はあんたに勝ち切っていない! 走れ。走れよ。走ってくれよ。あんたと走りたい。
ポツリと落とすようにトガシがごめん、と言った。先ほどとは違って、感情が乗っていた。
「ごめん。俺はそう言って欲しくて今日誘ったのかもしれない」
君は俺のことを、もっとやれると思っていてくれる。前から。トガシが言う。ふっと顔に上がってきた熱を、鍋のせいにする。もう火を止めてもいいかもしれない。
「知りませんよ。トガシさんの限界なんて。知らないけど、まだ先でしょう。だって俺はまだまだ走れるんだから」
「君と俺の走りに何か関係が」
「何にも有りませんよ。ただたまに、隣で走るだけです。平行線です。一生交わらない」
ふ、とトガシが笑う。鍋食べようか、とお玉を掴みなおした。今度は樺木も止めない。
「だからせいぜい復帰までくらいは待ちますよ」
自分の分も取り分けている姿を見ながら言えば、どこか光る瞳と目があった。
「待たないで。待ってなくていいよ。すぐに追いつく」
「なら、……期待してます」
「あは。うん。いいね。気合いが入る」
取り分けてもらった皿をありがたく受け取って、いただきます、と声に出した。口をつければ熱い。体温が上がってそのまま冷めなさそうだ。
この店エアコン壊れてんじゃねえかな、と樺木はうっすら思う。
「小宮さんにはなんか話に行ったんですか」
「うぇ?!」
ふと思い出して言えば、トガシは声をひっくり返して驚いた。人間関係っていうなら、小宮だって対象範囲に入るんじゃないだろうか。
「トガシさんと小宮さん、タメじゃなかったでしたっけ」
「あ、ああ……、そうだよ。同学年。でもなあ」
「なんですか」
「小宮くんの前だと俺、かっこつけたいからなあ」
小宮くん、と呼ぶところを初めて聞いた。選手、と呼んでいたところなら見たことがあるが。国内トップ選手だろうと、学生の時から接点があるだろうし、樺木が知るより、親しい関係なのかもしれない。
「俺の前ではいいんですか。カッコつけなくて」
「だって知ってるだろ、君は。俺が安心しきって腑抜けてた時のことだって」
確かに知っている。なかなか奮わなかった時だって、興味の薄そうな顔をして栄光をかっさらっていった時期だって、樺木は見ていた。トガシのことを。
「あと小宮くんの連絡先知らないんだよね」
前言撤回。トガシが変なだけで、別に親しくもなんともないのかもしれない。どちらにせよ、樺木にはあまり関係ない。どちらも倒すだけだ。あの百メートルという選ばれた距離で。
腹がくちくなって、少し口も緩む。
「トガシさんは、走ることに、みっともなくしがみついて、もがいて、足掻いてください」
樺木の価値観だってちょっと変わったのだ。
「それが一番、かっこういいと思うんで」
トガシは笑う。笑うときらきらしいと思う。愛想笑いなら見たことがあるし、調子が良い時のしてやったという笑顔も見たことがあるが、それとはまた違う。そこから光るみたいな勢いのある笑い方だ。
「任せてよ。俺が走って、怪我して、いい歳で、みんなすわ引退かって囁いてる。そうなったら断然、今、俺に一番期待してるのは俺だからね」
トガシが軽やかに言う。俺がどれだけ待ち望んでいるか知らないのか、と樺木は思う。知るはずもない、とも思う。言ってしまおうかと少し迷って、結局やめにした。いつかあなたが気がつくまで、こちらから教えてやる筋合いもないだろう。
肉体派の人間二人だ。鍋は締めまで休憩を挟まずに進んでいった。雑炊は樺木が作る。
「今日はありがとう。本当に。またトラックで会おう。たまにはまた、トラックの外でも」
鍋をかき混ぜていると、トガシが言った。トラックの外、が意外で、顔を上げた。目があって、離せなくなる。
「君と話すのは、いい刺激になる」
ぴりりと光る瞳の中に、確かに熱があるのを感じる。背中にすこし鳥肌が立ったのに気がついて、意識してトガシの視線を振り切った。体温が上がっている。熱は伝播する。
視界の下端でガスコンロの火が光る。銀色の松葉杖がその光を反射していた。熱を伴ってひかり輝くなら、そこにはきっと、炎の一字がふさわしい。
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