短文ノック

「つまり仁神さんが悪かったんですよ」
「なんだなんだ、どうしたんだい」
 トガシくんが酔っている。その言葉に甘えがあるのははっきりしている。こうも柔らかい部分を丸出しにするのは珍しくて、なるべく傷つけないで扱ってやりたいと思う。この美しいひとが、何にも傷つけられないといいなと思う。トガシくんはグラスをゆらゆらゆらして見せながら、少し遠くを眺めて言う。
「仁神さんがあの時、小学生の俺を完膚なきまでにボロボロに負かしといてくれたらよかった。俺、あれまで他人と走って負けた記憶がないんですよ」
 あの時、が初めて会った時だと思い至るには一瞬が必要だった。あの頃の自分には荷が重いかな、と思いつつも、悪かったよ、と謝ってみる。すると、
「まあどっちも本気で最後まで走ったら俺のが速かったかも知れないですけどね!」やけっぱちみたいな大声だ。
 このやろう、と思って頭に手をのばせば、素直に下げたので撫でてやる。酔っている。彼も、自分も。
 彼の初めての敗北は、己の記憶にも鮮やかなところであって、自分が負けた時よりよっぽど気を揉んだ。それなのに平気そうな顔をして見せたから、それ以上踏み込むことはできなかった。あの時の答え合わせができる時が来るとは、思ってもなかったな、と思う。せめて今後に活かそう、と思うことくらいは許してほしい。
「あの時とか、いろんな瞬間、仁神さんにはすごく良くしてもらって、優しくしてもらって、仁神さんに限らず、なんでこんなにしてくれるんだろうと思って。他人のことじゃないですか」
「えっと……君のことが好きだからじゃないか?」
「違うんですよ、人ってみんな、きっと、いやみんなじゃないか、みんなじゃないかもしれないけど、いい人で居たいんですよ。いいひと因子みたいなものを持っていて、それが発揮される瞬間を待ってるんですよ」
 この後輩は持論に集中しすぎて俺の一世一代の告白もどきを無碍にしたことに気がついているのだろうか。気づかないでいてくれないかなと思う。下心ありきみたいに思われたら不本意で仕方がない。
「俺が小宮くんに走り方を少しだけ教えようとしたのも、きっとそれだ。結局彼は自分で速くなりましたけど」
「それは何か悪いことなのか?」
「きっと悪いことじゃないんですよ。でももしかしたら不純なのかもしれない。不純、イコール、悪ではないですけど、純粋なものの方が、眩しい気がする」
 俺からしたら走ることに対して純粋極まりないひとりがそう言って机に突っ伏す。
「憧れるんだ?」
「ああ、そうです。純粋なものに憧れる。だって綺麗だ」
「じゃあ君、ここで吐き出していきな。蒸留だ。感情を全部吐き出して、綺麗なものだけ集めて帰ったらいい」
 そうしたら、とトガシくんが頭をあげる。
「そうしたら、仁神さんは俺のこと嫌いになるかも。俺の脳内なんてくっちゃクチャのどろどろですよ」
「嫌いになんてならないよ。君の感情の吐き出したところを見られるなんて、光栄とすら思う」
「仁神さんてもしかして」
「なんだい」
「俺のこと好きなんですか」
 やっぱりさっき聞いてなかったんだな、と思って思わず笑いがこぼれた。
「好きだよ。それだけじゃ当然ないけど、君のことが好きだから、君にいいやつだと思われたいし、君の愚痴も聞きたいし、君の不純なところも見たい」
「それってずるい」
「ずるい?」
「仁神さんばっかり格好つく。俺だって不純さを持ち合わせつつかっこよくなりたい……」
 引かれなかった安心感と、手応えのなさで、俺はまた笑ってしまった。長期戦になりそうだ。
「俺が悪いでもずるいでもいいよ。唆されてくれないか。なんでも聞くよ。なんでもね」
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