短文ノック

 そんな悲観的な話ではない。多分。
 諸行無常というわけで、引退を決めた。
 怪我のせいではあるけど、それがすべてでもない。自分に走る以外の生きる手段があるのだと気がついてしまったから、全力で走れるのはあと何本もないな、と思った。引退に伴う諸手続きはどれも笑ってしまうくらいスムーズだった。
 海棠さんにはお前くらいの年の頃俺はまだ自己ベストを更新してたぞと笑われた。財津でもあるまいし。とかなんとか言うので、ああも泰然自若とした雰囲気を出したかったものですけどね、と笑えば、そんなこと思っちゃいないだろうと言われた。まあ俺はああはなれないし、特になりたいと思ったことがあるわけでもないので、海棠さんの言う通りだ。
 今シーズンいっぱい、と決めて走れば、これまでのブレが嘘みたいに調子がいい。ふざけてんなあと思う。
 結局俺は死ぬつもりで崖に追われないと走れない奴だったってことなんだろうか。それは⋯⋯なんとも悔しい話である。どうにか反証の機会を得よう。たとえば今日、このあとの一本で。
 百メートルあれば周りからの視線の意味をがらりと変えてしまうには十二分だ。それから、自分を変えてしまうのにも。
 本番のある日っていうのは、朝、起きてから、スタート時刻が近づいてくるにつれて、少しずつ空気が色を変えていく。ここでしか見られない、特別な光がある。

 全員が位置について、走り出すまでの静寂。その後の十秒に負けず劣らず特別な時間。俺は百メートルしか知らないけど、弓が引き絞られていく瞬間だとか、指揮者が構えて振り出す前とか、もしかしたら全く違うフィールドでも同じ景色を見ているんじゃないかな、なんて考える。あの一瞬。すうと焦点が定まって、崩されるための張力が生じる。

 控室周りを歩く。この裏側にこうやって居るのも、あと何回もないと思えば何となしに面白い。どこの競技場も違うのに、共通する匂いがある。あとはほらたまに、こうやって他の選手と会ったりもするし。
 後輩はこちらを見ていた。目が合った。ふいと逸らされる。おや、と思えば、すたすたと数歩こちらに歩いてくる。
「本当に引退するんですか」
「そうだね」
 カバキくんはフンと不遜に息をついた。このやり取りも何度目かだ。惜しまれているのかな、と思いつつもそれをバカ正直に聞いてしまうのは恥ずかしいので真意は謎のままである。否定されたらなんか悲しいしね。誰にどう思われようとやることは変わらないのだからいちいち心を揺らすのは無駄っちゃ無駄なんだけど、自分の心持ちっていうのは案外馬鹿にならない。少なくとも、負けてもいいと思って――自分に言い聞かせて――走っているのと、そんなの知らねえ俺が速いんだって思って走っているのとは違う。単純なのだ。俺っていうやつは。
「今日、俺が勝ちます」
 カバキくんは予言じみた確かさでそう言うと踵を返した。流石だ。
「させないよ」
 届かせるつもりもそんなにない声の大きさで言う。カバキくんは振り返りもせずに、でも少しだけ動きを止めて、結局そのまま歩いていく。
 小宮くんはまだ走り続けるそうだけど、次の世代の注目選手といえばカバキくんだろう。新時代のエースだとか、財津小宮に続くモンスターとか、あとなんか面白い名前でも呼ばれていたんだけど忘れてしまった。それは重たいだろうけど、カバキくんはたぶんそれを背負うのが苦じゃないタイプだ。なんとも頼もしい。
 カバキくん以外にも、今日は森川さんとは走らないけど、彼みたいなこの先に物凄い期待を持たれている選手もいる。そしてきっと――これは俺の予感でしかないのだけど――彼らはその期待に応えるだろう。
 うん、だから、やっぱり、そんな悲観的な話ではない。

 フィールドに出る。風が吹いている。追い風だ。
 髪を揺らす風に、今までで一番速く走れそうだな、とつい笑う。追い風参考記録になりそうだけど。
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