短文ノック

 チーターを見に行こう、とトガシくんが言い出した。柄にもなく⋯⋯って言えるほどトガシくんのことを知らないのだけど、ワクワクした顔をしながら言うから僕もちょっと楽しい気分になって頷いた。電車をいくつか乗り継いで、少し遠くの動物園まで行く。窓の外に大きな川をいくつか見送った。体格が良くてシートを占領してしまうからか、僕も彼も席が空いててもなんとなく立ってしまう。トガシくんの乗り継ぎ案内は明瞭だ。予習してきたらしい。
「なんでチーターなの」
「知らないのか小宮くん」
「君の考えていることなんてわかんないけど」
「違うよ、チーターのこと。地上最速なんだ」
 それは知っていた。
「時速百キロだっけ?」
「知ってるじゃん」
 トガシくんの言う『じゃん』って、ものすごく親しい感じがして、なぜかちょっと怯んだ。トガシくんは楽しそうに、スマートフォンの画面を読み上げる。
「三秒で最高速に到達して、スタミナが保つのは三百メートルくらい。細身で尻尾が長いんだ。それで、肉食」
 すごいよなあ、とトガシくんは笑う。生き物が好きなイメージがなかったから意外だ。僕はトガシくんのことを何も知らないんだなと思う。それは別に嫌ではないけど、今日なんで僕を誘ったのか不思議で、そわそわと少し落ち着かない気分になる。さっき、なんでチーターなの、じゃなくて、なんで僕なの、って聞けばよかったな。
 実際に檻の中にいるその生き物は想像ほど輝いてなかった。檻の中は三百メートルもないし、小さい子供が二匹、親にじゃれついている。自分は走ってるところが見れることを期待していたらしい。
 トガシくんはどうなんだろ、と思って横を見ると、不思議そうな顔をしていた。言い出しっぺとは思えない感じの顔だ。
「写真とか撮ろうか?」
 遠くまで来るほど見たかったんだろう。檻の前に立つ写真でも撮ってあげようかな、と思ってスマートフォンを取り出すと、トガシくんは驚いた顔をする。
「小宮くん、自撮りできるの!?」
 できないよ、しない、君のことを撮ろうと思った……、みたいなことをなんとか説明していると、親切な他のお客さんが、「お二人の写真撮りましょうか?」と声をかけてくれた。咄嗟に断ろうとした僕よりも早く、トガシくんは答える。
「ありがとうございます! お願いしてもいいですか?」
 いかにも好青年、と言う感じだったので僕はちょっと怯んだ。トガシくんってこんな明るい声出るんだ。外向きの声ってことかな。ここ数年、インタビューも追ってなかったからわからない。あれが自分に向けられてたら怖かったな……とか考えていると、トガシくんは僕の腕を引っ掴んで寄ってくる。
「チーター入ってますか?」
「ちょっと遠目にですけどわかりますよ」
「ありがとうございます!」
 はいチーズ! 確認してもらっていいですか、と親切な人がスマートフォンを返してくれるので見る。咄嗟に作ったピースサインは指が曲がっていた。いいよね、とトガシくんが確認してくるから、なんとか頷く。なんでもいいよ。
 トガシくんはまたとてもハキハキした明るい声で礼を言い、僕もなんとかありがとうございますと言う。この写真、あとで送ってよ、とトガシくんは笑い、またチーターの檻に向き合った。
「どうしてそんなに見たかったの?」
 本当に聞きたかったのはなんで僕を誘ったのかだったけど、とりあえず聞いてみる。
「見たかったっていうか競争したかったんだよな。できなそうだけど」
 そりゃあ無理だろう。獲物もないのにチーターとスタートを合わせるなんて、できないだろ。僕らだってスターティングブロックもないしさ。
「追いかけられる方がまだありそうじゃない?」
「餌になるってこと? それはやだなあ」
 チーターの方がスタミナもあるもんな、とトガシくんは言う。まあ勝てるかって言ったら負けると思う。人間はチーターには勝てないんじゃないかな。
「でもあっちは四足歩行だから、勝手がちがうよなあ」
「そんなに競争したかったの?」
「うん」
「どうして」
 トガシくんは笑う。
「すごく速い相手に、圧倒されてみたかったんだ。そしたらお供に相応しいのは君だろ。誘われてくれてよかった」
 なぜかもう一つの疑問の答えももらってしまった。釈然としないけど。この前のシーズンのトガシくんは悪くない走りだったけど、本人はずっと納得していない顔をしていた。雑誌で見たことのある、中学生のトガシくんに似ていた。
「どうだったの。圧倒された?」
 僕はさっきから問いかけてばっかりだな、と思いながら言う。トガシくんは笑った。
「かわいかった! でもしなやかで綺麗だったな。新幹線みたい」
 トガシくんは新幹線を綺麗だと思う感性の持ち主らしい。また一つ新しく彼のことを知ってしまった。
「俺らも二足歩行なりによくやってるよな、多分」
 二足歩行の人間の中でこの国でだいぶ速い方の人間二人がするにはなんだか間抜けな会話な気がしたけど、頷いた。
「今日来てくれてありがとう。君との写真も撮れたし、おおむね満足だ」
「競争はできなかったけどね」おおむね、と胸の中で復唱しつつ、相槌を打つ。
 するとトガシくんは急に言った。
「ねえ、走ってくれない?」
 僕はそれを正しく受け取った。
「競争る気ってこと?」
「うん。できれば真剣で」
 嘘だろ、と思いつつ、応えなくてはと思った。この件については、一つ借りがある。
 トガシくんの運動場への乗り換えを調べる手つきは澱みなく、僕は靴のことを考える。これを愛用しているから特に考えることなく履いてきてしまったけど、クッションは強い。走れる靴だ。トガシくんは競争したがっていただけあって、言うまでもなく。
 多分チーターには敵わないけど、お眼鏡に適ったらしい。あ、もしかして。
「チーターの次善策として僕呼ばれたの?」
「え、違うよ。君なら速さにこれ以上なく真摯だから、チーターとどれくらい差がつくか間違いなく教えてくれると思って」
 ならいいや。僕はすこし、ワクワクしている。それに嬉しい。環境を最善に整えていないのは良くないけど。君と走るのは楽しみだ。きっとまた新しく痛みか光が見えるから。
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