偽りのカンパネラ
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「近藤さんよ、今夜キャバクラでも行かねぇか?」
炊き立ての白飯にマヨネーズで蜷局を築き上げる土方を、口に頬張っていた煮物をそのままに近藤は固まる。
穏やかな朝餉の時間には到底似つかわしくない発言に、一瞬それを理解出来ないでいた。
噛み砕く余裕もなく一気にそれを飲み込むと、お膳をひっくり返さんばかりの勢いで身を乗り出す。
「……えっ、ちょっと待って!今何て言ったの!?」
「だから、キャバクラ行かねぇかって言ったんだよ」
聞き返してもまだ信じられないといった様子で、近藤は口をあんぐり開けた。
あの土方が女遊びに自ら誘って来る日が来ようとは。
「トシ…お前もついに……!うんうん!行こう!!」
驚き以上に喜びが勝り瞳を潤ませる近藤に、土方は眉を潜めたままマヨネーズだらけの白飯をかっ込んだ。
(この俺が、好きでキャバクラなんぞに行くかっての!)
昨日、沖田の部屋で偶然見てしまった光景を思い出し、再びじわりと額に浮かぶ汗。
沖田ときせ、抱き合う二人の姿が脳裏に焼け付き離れない。
(いつからだ…やっぱ男だらけでむさ苦しいのがマズかったか?)
自問すれど答えは出ない。
沖田がそっち系へと走り出してしまったと誤解した土方は、なんとか真っ当な道へと引き戻そうと、昨夜は一人寝ずに打開策を打ち立てていた。
このまま関係が進展してしまったら、沖田の唯一の肉親に申し訳が立たない。
上京して男に目覚めましたと申告するくらいなら、潔く腹を斬った方がましだ。
結論。
女と接する機会を与えてやれば良い。
想いを寄せるキャバ嬢への手土産をあれこれ考える近藤の向かいで、土方は黙々と作戦を立てていた。
日の沈んだかぶき町は、月が昇ると同時に夜の顔を露にした。
店先のネオンが点灯し、何処からともなく客引きの男達が道に屯し始める。
土方は、日中の職務を終え待ち合わせたキャバクラの前まで来ると、遅れてやってきた沖田を目にし愕然とした。
「お待たせしやしたぁ」
「何で神凪と二人仲良く連れ立って来てんだ!!!」
平服を装った沖田の数歩後ろに付き添うきせは、きょとんと目を丸くしている。
土方の意図を知らない沖田も、何故そんなにも怒っているのか分からないといったふうに首を傾げた。
「だって、飲みに行くなら人数いた方が盛り上がるじゃん」
「今から行く場所が何処だか分かってて言ってんのかテメェは‼︎‼︎」
沖田ときせの関係を修復しようと目論んでのキャバクラだというのに、これでは何の意味も無い。
反射的に土方の拳が振り上げられると、近藤が慌ててそれを制した。
「まぁまぁ。連れて来ちゃったもんは仕方ないさ」
尚も掴み掛かろうとする土方に、近藤は場を宥めようと軽快な声を発した。
「そういう問題じゃねェ!十五歳の子供をキャバクラに連れて行けるか!!」
黙って事の成り行きを見守っていたきせだったが、土方の発した言葉にギョッと顔を強張らせた。
「キ、キャバクラ!?」
「なんだ、訊いてなかったのか?」
「はい、あ、あの、そ、そういう事でしたら、僕は遠慮させてもらいます!」
真っ赤になったり青くなったりと大忙しのきせは、しどろもどろに言葉を紡ぎながら来た道を慌てて引き返そうとする。
だが。
「まぁ待てやサド丸」
きせの肩に腕を回すと、沖田は悪戯めかしく笑みを浮かべた。
「何事も経験って言うだろ?ここまで来て何も無しで帰ったら男が廃るぞ」
「いや、でも、僕は」
「何でィ。成人男子だなんて勢いづいてたくせに、やっぱりガキには早過ぎたか?」
きせの顔から赤みが退き、ピクリと眉が釣り上った。
(あぁ、やられた)
土方は盛大な溜息を吐き捨てながら頭を抱える。
あそこまで言われて、自尊心の高いきせが引き下がるはずもない。
「行きます、行きますとも!」
「そうこなくっちゃな」
満足そうに笑う沖田と対照的に、想定外の展開を向かえてしまった土方はガックリと項垂れている。
双方を見据え、近藤は一人苦笑しながら先導きってキャバクラの扉を開いた。
光を発散するシャンデリアに、塵一つ無い美しい絨毯。
一歩足を踏み入れたそこは、まさに別世界だった。
高級感ある店内では、たわいない話に笑顔で相槌を打つキャバ嬢が、可愛らしい笑い声をあげている。
「ここがキャバクラ…」
色香漂うその空気に圧倒され、きせは店の入り口でさっそく怖じ気づいてしまったようだ。
「いらっしゃいませ。お席にご案内致します」
身形の整った紳士に連れられて、近藤達は慣れた様子で店内奥へと入って行く。
風俗の知識が乏しいきせにとって、キャバクラとは男女のいかがわしい交流の場、と飛躍した認識しか持っていない。
大人の男ともなれば、こういった付き合いの場もあるのだと頭では理解していたが、自分には縁のない世界と、何処かでそう思っていた。
挑発に乗って勢いで着いてきてしまったが、それを早くも後悔する。
だが、引き返すには時既に遅し。
きせは置いていかれないよう、最後尾を監獄に投獄されるような気分で着いて行った。
「あぁっ!お妙さぁぁん‼︎見ぃぃつけたぁぁ‼︎」
お目当てのキャバ嬢を見つけるなり、彼女が他の客に付いているにも関わらず、近藤は語尾にハートマークを付け大声量で両手を振る。
そのあまりの声の大きさに、俯いていたきせは驚き顔を上げた。
店内の視線が一斉に集まってしまい、居たたまれずにこそっと沖田の背に隠れる。
そんなきせに気付き、沖田が密かに得意気な笑みを浮かべたとも知らずに。
「あら、近藤さん。珍しいですね、土方さんに沖田さんもご一緒だなんて」
すっと優雅に立ち上がった妙を、きせは沖田の背から覗き見る。
茶色の髪を一括りに結い上げ、清楚で優しそうなその面持ちに亡くなった姉の顔が重なった。
そして、今まで見た事も無いくらい腰砕けの近藤に唖然とした。
「いやぁ~トシの奴がね、どうしてもここに来たいって言うもんですから」
「まぁ、そうなんですか」
全力で否定したい土方だったが、あながち間違いでもない事からここは押し黙る。
これも沖田を真っ当な道に戻す為だ。
上品に口元に手を当て笑う妙に見とれていたきせは、ふと視線を逸らした先、妙が同席していた客と目が合った。
互いに目を合わせ、あっと口を開ける。
「よぉ!きせちゃんじゃないの」
「坂田さん!」
酒に顔を火照らせた銀時が、にこやかに手を振ってくる。
瞬間、沖田の顔色が変わった。
長い付き合いでなければ読み取れないほど微小の変化だが、気付ける間柄の土方はそれどころではない。
「何でてめェがここに居るんだよ」
ご機嫌な銀時とは対照的に、先程から苛々し通しの土方は溜まった鬱憤の捌け口が見つかったとばかりに声を荒げた。
「あぁ?居ちゃ悪いかよ」
「悪いに決まってんだろうが。だいたい、年中金欠の万事屋がキャバクラに来る事自体烏滸がましいんだよ」
「んだとこの税金泥棒が」
「ち、ちょっと、副長も坂田さんも!そんな恐い声出したら他の方にご迷惑ですよ」
険悪な雰囲気の二人に、きせがいつもより弱腰で制止をかけた。
そこで妙は初めて沖田の背に隠れていたきせに気付く。
「あら、そちらは?」
「え⁉︎あ、あの…!は、初めまして!…一番隊隊士、神凪きせと、申します……」
妙の視線を真っ直ぐ受け、きせは恥ずかしそうに縮こまると、語尾を掻き消しながら挨拶した。
すっかりキャバクラ独特の空気に呑まれてしまったらしい。
猛威を振るう攘夷浪士に恐れず立ち向かうきせが、刀を持たない女に臆している姿はまさに一興。
沖田が必死に堪えくつくつと喉奥で笑う度に、体が小刻みに震える。
その背に縋って隠れていたきせには、当然振動が伝わったようで。
悔し紛れに眼を細め睨み上げた。
「まぁ、可愛らしい隊士さん!こっちにいらっしゃいな」
「えっ!?で、でも、僕は…っ」
きせの容姿と初々しさが妙の中でヒットしたようだ。
パタパタと裾を翻しながら駆け寄り、きせの手を取る。
「銀さんと知り合いなんでしょう?だったらいいじゃない」
「そうそう。きせちゃんは銀さんのお隣にお座りなさい」
妙に口添えする銀時は、すっかり酒に酔われているのか上機嫌にソファーをポンポンと叩いている。
(ナイスアシスト万事屋‼︎)
啀み合っていたはずの土方は、差し出された救いの手に掌返して称賛する。
「え!あの…!」
妙に半ば強引に手を引かれるきせが、助けを求めるように沖田へと視線を向けて来た。
無論、沖田はきせを自分の側から離すつもりは無い。
馴れ馴れしく“ きせちゃん”などと呼び、隣に座れなどと厚かましいにも程が有る。
きせ救出に手を伸ばしかけた沖田へ、土方はすかさずその肩を抱き待ったをかけた。
「総悟っ!!俺達も座ろう!!な!?」
「へ、へぇ…」
必死の形相をした土方に意表を突かれ、沖田は思わず頷いてしまう。
しかし、沖田という男はここで退くような輩ではない。
「はいはい、ちょっくら失礼しますよ」
「ぐぇっ」
酔いに任せてきせの肩に手を回していた銀時の顔に手を付き押し退けると、そのまま間に割って座る。
銀時、沖田、きせの並びに、土方は当然不満に打ち拉がれる。
(そこに座ったら意味無ぇだろうが!!)
心の叫びも虚しく、土方は妙以外のキャバ嬢を目で捜してみる。
誰でもいい、誰でもいいから沖田の相手を。
だが、毎度お騒がせな万事屋と真選組を相手にしたがる女はおらず、みな見て見ぬ振りを決め込んでいた。
「お~き~た~くぅん、男の嫉妬は見苦しいよ?うっとおしいよぉぉ?」
張り手を喰らった銀時は、平静を装いながらも内なる怒りに頬をヒクつかせる。
「その様子じゃ、まだ何の進展もないようだな」
「何の話っすか」
ニヤニヤとグラスを傾ける銀時に、沖田はその意味を考えるも、所詮は酔っ払いの戯言と流す事にした。
「いいのか〜?のんびり構えてっと、横から掻っ攫われちまうぞ?」
「旦那、酒が足らないようですぜィ。なんなら、潰れるまで相手してやりましょうか」
「上等だコノヤロー」
「あ、あの……」
かち合う目から稲光を発した銀時と沖田を真横に見据え、その居心地の悪い席にきせはたまらず項垂れる。
そして、向かいの席。
「お妙さぁぁぁん、俺もお相手して下さぁぁい」
恥ずかし気もなく猫撫で声を上げる近藤に、意気消沈。
きせは、一刻も早く何か理由をつけて、この場から立ち去る決意を密かに固めたのだった。
「……で、俺は一体何の為にキャバクラなんぞに来たんだっけか」
覚束ない手で煙草を口にくわえる土方へ、すかさず妙がライターに火を点けて寄越した。
「珍しいですね土方さん、だいぶ酔っていらっしゃいます?」
「んん~、そうでもねェよ?」
いやいや、十分酔っているよときせは心の中で突っ込みを入れる。
厠を言い訳に席を立ち、そのままソファーの端に陣取りを成功したきせは、ちびちびと珈琲牛乳を飲みながら溜息をついた。
誰にも気づかれずこっそり帰ろうとも考えたが、下っ端が上司を残して無断で帰宅するわけにもいかず。
沖田と銀時は不敵な笑みを浮かべ、睨み合ったまま酒盛りの真っ最中。
頼りの土方も、どうやら酒に呑まれてしまったようで話にならない。
この状況にどう収集つければいいのか検討もつかず、やはり来るべきではなかったと本日何度目かの後悔を胸に抱く。
顔を真っ赤にした近藤が、一升瓶を抱きしめたまま絨毯の上で気持ち良さげに爆睡している様を、きせはただ静かに眺めた。
「きせ君、お代わりはいかがかしら」
妙はきせの隣に移動し、空のグラスに珈琲牛乳を並々と注いだ。
もう何杯目か分からぬ珈琲牛乳に、きせは失笑する。
正直いえばこれ以上飲みたくないのだが、せっかく注いでくれたのだからと水分で膨れたお腹に無理矢理流し込む。
「モテ過ぎるのも罪ねぇ。まぁ、銀さんはただ悪ノリしているだけみたいだけど」
「あはは」
何と答えていいか分からず、きせは乾いた笑いを零した。
「くぉらぁサド丸ぅ~!ぬわぁ~にデレデレしてんでィ!」
「そうだぞきせ~!未来の旦那候補差し置いて、そんな貧乳雌ゴリラなんぞに愛想振りまいてんじゃねェぞ!」
「さ、坂田さん何て事を…っ⁉︎」
未来の旦那候補とはなんぞやと突っ込みを入れる以前に、きせはヒヤリと傍らから発せられた殺気に言葉を失う。
そろりと妙を見上げれば、彼女の笑顔に隠された恐ろしいまでの憤怒を感じ取り、ゴクリと生唾を飲む。
「んもぅ銀さんてば、少し飲み過ぎですよ」
顔は美しい笑みを浮かべていようと、目は笑っておらず鬼が宿っていた。
すっと音も立てずに立ち上がると、妙は銀時の頭を鷲掴みにするなり、山盛りの氷が入ったアイスペールの中へと叩き込んだ。
「お水を飲んだ方がいいんじゃないかしら?」
「ごぶっごばっ!!!」
「あわわっ!妙さん落ち着いて‼︎」
止めに入ろうとしたが、何者かが横からきせの体を拘束した。
驚き振り返ったきせは、鼻につく酒の匂いに眉間に皺を寄せる。
出来る事なら鼻をつまんでしまいたい。
だが、自分の直属の上司にそんな無礼は働けないと押し留める。
「お、沖田隊長、離れて下さい」
「やだ」
「何を子供みたいに…」
「俺以外の奴にしっぽ振るような真似は許さねェって、前に言っただろうが」
出来る事なら突き飛ばしてしまいたい。
だか、やはりそんな無礼は働けないと、さらに己を押し留めた。
酒の匂いに呼吸もままならないきせは、そんな約束は知らない知らないと首を横に振る。
実際、前に言ったといってもきせが眠りこけている時、一方的に沖田が約束をしていたため覚えているはずが無いのだが。
「ならお仕置きが必要だな」
にんまり笑う沖田は、テーブルからグラスを引ったくると、それをきせに突き出した。
「一気飲みしなせぇ」
「これを、ですか?」
見れば、それはきせが先程まで飽きる程飲んだ珈琲牛乳。
「分かりました。でも、これ飲んだら僕は先に帰りますからね」
探し求めたこの場を逃げ出す口実。
きせはグラスを傾け一気に喉の奥に流し込んだ。
「おぉ〜いい飲みっぷりじゃん」
「……?」
何かおかしい。
先程まで飲んでいた珈琲牛乳とは何処か味が違う気がする。
体中が熱を帯び、意識が朦朧とする。
「…なんか、へん……」
きせの困惑した声に気づいた妙が、空のグラスを確認して顔色を変えた。
「これカルーアミルクだわ」
飲み易く口当たりが良いが、アルコール度数は決して低くない、立派な酒である。
「もう、沖田さんったら!悪ノリが過ぎるわ」
悪びれた様子も無くきせの腰に腕をまわしたままの沖田に叱咤すると、その手からグラスを取り上げ妙は心配そうに顔色を伺う。
「きせ君、大丈夫?」
「…………」
「サド丸ぅ?」
「……………………………………………ぃ」
項垂れたきせの小さな声に、妙と沖田は聞こえたかと互いに問うように見つめ合う。
「お~いサド丸?」
「お水持ってきましょうか?」
「うるっっさぁぁぁ~~~~い!!!!」
ガバッと立ち上がったきせは、両拳を天井に掲げ大声量で叫んだ。
かと思いきや、そのまますとんと座りぼぅとして焦点が合わない。
「まさか…」
「一杯で酔っぱらっちまったのか?」
きせは徐に沖田へと向き直ると、その胸ぐらを掴んで背凭れに押し付けた。
「この程度でよっぱらっちゃぁ~いません!ってばよぉ」
完全に酔っている。
妙は急いで水を取りに席を離れた。
「まぁまぁ、少し落ち着こうなサド丸」
残された沖田は、目が合えば誰にでも喧嘩をふっかけそうなきせの手綱を捜す。
しかし、掴んだのは手綱ではなく地雷だったようだ。
「んもぉぉ~~~!!!サド丸じゃないってばっっ!なんかい言えばわかるんですかぁぁぁ!!!!」
己の膝の上に股がって睨みを利かせるきせに、沖田は酔いなどとっくの昔に醒めてしまったと眼を細める。
「酒一杯でこりゃ、とんでもねぇ酒乱だわ」
「はっ‼︎おきたたいちょー‼︎まさか僕のなまえ覚えてないんですか⁉︎」
しゅんと眉尻を下げ大人しくなったかと思いきや、今度は涙眼で鼻を啜りだした。
「うっうっ!ひどい‼︎あんまりです‼︎」
(今度は泣き上戸かよ)
うぐうぐと止めどなく大粒の涙を流すきせは、キッと沖田を睨み空に向かって高らかに叫ぶ。
「僕のなまえはぁぁっっ!神凪~~~!!!きせでぇぇぇありまぁぁぁす!!!!」
とんでもない酔っぱらいが現れたと、周囲からは失笑が零れて来る。
己が巻き起こした事とはいえ、沖田は堪らず頭を抱えた。
「覚えてるよ。だから……」
「じゃあよんでみて下さい」
「え……」
沖田の鼻先すれすれの位置からきせが直視してくる。
「……いま?」
「いま」
「いや、それは…」
きせの潤んだ瞳は期待に満ちている。
改めて言われると、何やら気恥ずかしい。
煮え切らない沖田に、きせはムッと睨みつけ口を尖らせる。
「言ってくれなきゃ、ちゅーしちゃうぞ」
ガンっと、頭に衝撃が走る。
鉄の盥が落ちたのかと錯覚したくらいに。
理解が追いつかず、今一度確かめてみる。
「もう1回言って?」
「ん?……ちゅーしちゃうぞ?」
ガンっと、再び鉄の盥が沖田の頭上に落下した。
小首を傾げ、二度三度と長い睫毛を上下させるこの悪魔的可愛らしい生き物はなんだ。
「おきたたいちょー!はぁ〜やぁ〜くぅ〜」
凄んでおねだりするきせに、沖田は如何様にしたものか考えてみる。
しかし、完全に目の座ったきせに説得は馬の耳に念仏。
「分かったよ。1回しか言わないから良く聞け」
深々と息を吐き捨てると、馬乗りになっているきせの腰を抱き寄せ、そっと耳に囁く。
「きせ」
「ひゃぅ!ふふふ」
くすぐったそうに、それでいて嬉しそうに笑うきせ。
「なんだよ、名前くらいで変な奴だな」
「えへへ」
頭をガシガシ撫でると、また嬉しそうに笑った。
いつもなら、撫でられると膨れて怒るのだが。
案外、撫でられるのは嫌ではないのかもしれない。
「さて…」
ぐいっときせの腰をさらに引き寄せ、間合いを詰める。
「ちゃんと言えたご褒美は?」
「こほーび?」
その顔には、いつもの不敵な笑みが浮かんでいる。
沖田という男は、ただ言われるまま弄ばれる男ではない。
反撃開始である。
「キス、してくれるんだろ?」
艶っぽく低い掠れた声でおねだりする沖田に、はてさてそんな約束だったかときせは頭を捻る。
しかし、酒の回った頭で考えるも答えは見つからず。
ほんの少し前の記憶すらあやふやなのだろう、困り顔で何度も首を傾げた。
そんな様子を間近で見て楽しんだ沖田は、そろそろ御開きにするかと膝の上に乗ったきせを下ろそうとする。
しかし。
「わかりました!ごほーびですね!」
「いや、冗談だって…」
きせは沖田の首に両腕を回すと、瞳を閉じ少しだけ開かれた唇に己の唇をあてがった。
「‼︎‼︎」
驚きに目を見開く沖田に構わず、きせはぐいっとその体を押し付けてきた。
しかも、触れるだけの口づけかと思いきや。
「…っんぅ⁉︎」
きせは沖田の唇をこじ開け、躊躇無く舌を滑り込ませてきた。
その動きに、たまらずぞくぞくと背筋が震える。
(こいつ、上手いし…!)
百戦錬磨のような接吻。
何処で、誰を相手にと問いただしてやりたいが、生憎口は塞がって言葉は出ない。
くちゅくちゅと卑猥な音をたてながら、きせは角度を変えて何度も口付けて来る。
「……ふ…んぅ……」
乱れた呼吸が異様なまでに色香を引き出し、鼻にかかった甘ったるい声を漏らすきせ。
されるがままだった沖田の欲情に火がつく。
きせの後頭部に手を添え、もっと深く合わさるように手前へと引き寄せた。
そしてーー…。
「……んぁ…俺ぁ寝てたのかぁ……?」
ズキズキと傷む顳かみを抑えながら、いつの間にか眠っていた土方は突っ伏していたテーブルから顔を上げた。
吸っていたはずの煙草は灰皿の中で消失。
目の前には、アイスペールの中に頭を突っ込んだまま身動き一つしない銀時の姿。
「…何やってんだ、こいつは」
自分の足下では、寝言を口走りながら眠り続ける近藤。
真横には、無を顔に張り付けた妙が立ち尽くしている。
「…ねぇ、私何を見せられているのかしら…」
「あぁ?」
彼女の視線の先。
向かいの席では、膝抱っこしたきせと熱い抱擁を交わす沖田。
まじまじとその光景を見据え、次第に血の気が引いて行く土方は状況を理解し悶絶する。
(頼む、誰か夢だと言ってくれ……)
鈍器で頭を殴られたかのように、土方はその場に血の涙を流しながら再び崩れ落ちた。
翌日。
「あたま痛い……」
きせは青ざめた顔色でズキズキと傷む頭に氷水を押し当てる。
「完全に二日酔いだな」
沖田が用意した薬を水で流し込み、油断すると吐き気が催す最悪な体で、きせは重々しく溜息をついた。
「昨夜は酔っ払いに付き合わされるし、今朝は早朝鍛錬には参加出来ないしで、もう散々です」
いやいや、一番酔って暴れたのはお前だと、沖田は明後日の方角見据え失笑する。
「そういえば、僕はどうやって屯所に戻って来たんですか?」
「覚えてないのか?」
「面目ないです…」
カルーアミルクを飲んでからの記憶が一切無く、気付いたら沖田の部屋で一夜を明かしていた。
しかも、部屋の主を差し置いて、ちゃっかり布団でぐっすりと眠っていたのだ。
「帰って来たのは深夜だったしな。他の連中はみんな寝てるし、めんどくせーから俺の部屋に連れてった」
「何から何まで本当申し訳有りませんでした」
畳に額を擦り着けんばかりに頭を下げると、きせは再び沖田を見上げて来た。
「他に何かご迷惑おかけしていませんか?」
醜態を晒してしまったのではと不安気に見上げて来るきせに、沖田は一瞬言葉に詰まる。
(俺とキスしたって言ったら、コイツどんな顔すっかな…)
あの後、満足いくまで口づけを交わすと、きせはそのままズルズルと沖田の胸になだれ込み寝入ってしまった。
(おかげでこちとら大変だったぜ…)
店に騒ぎを謝罪し、潰れたきせを担ぎ、燻る熱を持て余しで、なかなか散々な想いをした。
ちなみに、近藤は土方が連れ帰った。
人の気も知らずに、布団で幸せそうに眠るきせに腹も立ったが、元を辿れば全て自分が発端であり、これは自業自得というやつだろう。
「…あの、沖田隊長?」
やはり何かやらかしてしまったのではと、今にも謝罪してきそうなきせに、沖田は反省の念を込めて首を横に振った。
「お前、あの後すぐに寝ちまったから何もしてねェよ」
「そ、そうですか」
安堵してみせるきせに、沖田は昨夜の事を当面己の胸の内にしまって置く事を決意した。
「あぁ、一つ命令しとく。酒を飲む時は必ず俺が居る時にしろな」
「?はい、分かりました」
「近藤さんよぉ……今度は吉原にでも行かないか」
同じく二日酔いの近藤は、たった一晩で何故か激痩せした土方の発した言葉に耳を疑う。
「トシ!?お前本当にどうしちゃったのっ!?」
炊き立ての白飯にマヨネーズで蜷局を築き上げる土方を、口に頬張っていた煮物をそのままに近藤は固まる。
穏やかな朝餉の時間には到底似つかわしくない発言に、一瞬それを理解出来ないでいた。
噛み砕く余裕もなく一気にそれを飲み込むと、お膳をひっくり返さんばかりの勢いで身を乗り出す。
「……えっ、ちょっと待って!今何て言ったの!?」
「だから、キャバクラ行かねぇかって言ったんだよ」
聞き返してもまだ信じられないといった様子で、近藤は口をあんぐり開けた。
あの土方が女遊びに自ら誘って来る日が来ようとは。
「トシ…お前もついに……!うんうん!行こう!!」
驚き以上に喜びが勝り瞳を潤ませる近藤に、土方は眉を潜めたままマヨネーズだらけの白飯をかっ込んだ。
(この俺が、好きでキャバクラなんぞに行くかっての!)
昨日、沖田の部屋で偶然見てしまった光景を思い出し、再びじわりと額に浮かぶ汗。
沖田ときせ、抱き合う二人の姿が脳裏に焼け付き離れない。
(いつからだ…やっぱ男だらけでむさ苦しいのがマズかったか?)
自問すれど答えは出ない。
沖田がそっち系へと走り出してしまったと誤解した土方は、なんとか真っ当な道へと引き戻そうと、昨夜は一人寝ずに打開策を打ち立てていた。
このまま関係が進展してしまったら、沖田の唯一の肉親に申し訳が立たない。
上京して男に目覚めましたと申告するくらいなら、潔く腹を斬った方がましだ。
結論。
女と接する機会を与えてやれば良い。
想いを寄せるキャバ嬢への手土産をあれこれ考える近藤の向かいで、土方は黙々と作戦を立てていた。
日の沈んだかぶき町は、月が昇ると同時に夜の顔を露にした。
店先のネオンが点灯し、何処からともなく客引きの男達が道に屯し始める。
土方は、日中の職務を終え待ち合わせたキャバクラの前まで来ると、遅れてやってきた沖田を目にし愕然とした。
「お待たせしやしたぁ」
「何で神凪と二人仲良く連れ立って来てんだ!!!」
平服を装った沖田の数歩後ろに付き添うきせは、きょとんと目を丸くしている。
土方の意図を知らない沖田も、何故そんなにも怒っているのか分からないといったふうに首を傾げた。
「だって、飲みに行くなら人数いた方が盛り上がるじゃん」
「今から行く場所が何処だか分かってて言ってんのかテメェは‼︎‼︎」
沖田ときせの関係を修復しようと目論んでのキャバクラだというのに、これでは何の意味も無い。
反射的に土方の拳が振り上げられると、近藤が慌ててそれを制した。
「まぁまぁ。連れて来ちゃったもんは仕方ないさ」
尚も掴み掛かろうとする土方に、近藤は場を宥めようと軽快な声を発した。
「そういう問題じゃねェ!十五歳の子供をキャバクラに連れて行けるか!!」
黙って事の成り行きを見守っていたきせだったが、土方の発した言葉にギョッと顔を強張らせた。
「キ、キャバクラ!?」
「なんだ、訊いてなかったのか?」
「はい、あ、あの、そ、そういう事でしたら、僕は遠慮させてもらいます!」
真っ赤になったり青くなったりと大忙しのきせは、しどろもどろに言葉を紡ぎながら来た道を慌てて引き返そうとする。
だが。
「まぁ待てやサド丸」
きせの肩に腕を回すと、沖田は悪戯めかしく笑みを浮かべた。
「何事も経験って言うだろ?ここまで来て何も無しで帰ったら男が廃るぞ」
「いや、でも、僕は」
「何でィ。成人男子だなんて勢いづいてたくせに、やっぱりガキには早過ぎたか?」
きせの顔から赤みが退き、ピクリと眉が釣り上った。
(あぁ、やられた)
土方は盛大な溜息を吐き捨てながら頭を抱える。
あそこまで言われて、自尊心の高いきせが引き下がるはずもない。
「行きます、行きますとも!」
「そうこなくっちゃな」
満足そうに笑う沖田と対照的に、想定外の展開を向かえてしまった土方はガックリと項垂れている。
双方を見据え、近藤は一人苦笑しながら先導きってキャバクラの扉を開いた。
光を発散するシャンデリアに、塵一つ無い美しい絨毯。
一歩足を踏み入れたそこは、まさに別世界だった。
高級感ある店内では、たわいない話に笑顔で相槌を打つキャバ嬢が、可愛らしい笑い声をあげている。
「ここがキャバクラ…」
色香漂うその空気に圧倒され、きせは店の入り口でさっそく怖じ気づいてしまったようだ。
「いらっしゃいませ。お席にご案内致します」
身形の整った紳士に連れられて、近藤達は慣れた様子で店内奥へと入って行く。
風俗の知識が乏しいきせにとって、キャバクラとは男女のいかがわしい交流の場、と飛躍した認識しか持っていない。
大人の男ともなれば、こういった付き合いの場もあるのだと頭では理解していたが、自分には縁のない世界と、何処かでそう思っていた。
挑発に乗って勢いで着いてきてしまったが、それを早くも後悔する。
だが、引き返すには時既に遅し。
きせは置いていかれないよう、最後尾を監獄に投獄されるような気分で着いて行った。
「あぁっ!お妙さぁぁん‼︎見ぃぃつけたぁぁ‼︎」
お目当てのキャバ嬢を見つけるなり、彼女が他の客に付いているにも関わらず、近藤は語尾にハートマークを付け大声量で両手を振る。
そのあまりの声の大きさに、俯いていたきせは驚き顔を上げた。
店内の視線が一斉に集まってしまい、居たたまれずにこそっと沖田の背に隠れる。
そんなきせに気付き、沖田が密かに得意気な笑みを浮かべたとも知らずに。
「あら、近藤さん。珍しいですね、土方さんに沖田さんもご一緒だなんて」
すっと優雅に立ち上がった妙を、きせは沖田の背から覗き見る。
茶色の髪を一括りに結い上げ、清楚で優しそうなその面持ちに亡くなった姉の顔が重なった。
そして、今まで見た事も無いくらい腰砕けの近藤に唖然とした。
「いやぁ~トシの奴がね、どうしてもここに来たいって言うもんですから」
「まぁ、そうなんですか」
全力で否定したい土方だったが、あながち間違いでもない事からここは押し黙る。
これも沖田を真っ当な道に戻す為だ。
上品に口元に手を当て笑う妙に見とれていたきせは、ふと視線を逸らした先、妙が同席していた客と目が合った。
互いに目を合わせ、あっと口を開ける。
「よぉ!きせちゃんじゃないの」
「坂田さん!」
酒に顔を火照らせた銀時が、にこやかに手を振ってくる。
瞬間、沖田の顔色が変わった。
長い付き合いでなければ読み取れないほど微小の変化だが、気付ける間柄の土方はそれどころではない。
「何でてめェがここに居るんだよ」
ご機嫌な銀時とは対照的に、先程から苛々し通しの土方は溜まった鬱憤の捌け口が見つかったとばかりに声を荒げた。
「あぁ?居ちゃ悪いかよ」
「悪いに決まってんだろうが。だいたい、年中金欠の万事屋がキャバクラに来る事自体烏滸がましいんだよ」
「んだとこの税金泥棒が」
「ち、ちょっと、副長も坂田さんも!そんな恐い声出したら他の方にご迷惑ですよ」
険悪な雰囲気の二人に、きせがいつもより弱腰で制止をかけた。
そこで妙は初めて沖田の背に隠れていたきせに気付く。
「あら、そちらは?」
「え⁉︎あ、あの…!は、初めまして!…一番隊隊士、神凪きせと、申します……」
妙の視線を真っ直ぐ受け、きせは恥ずかしそうに縮こまると、語尾を掻き消しながら挨拶した。
すっかりキャバクラ独特の空気に呑まれてしまったらしい。
猛威を振るう攘夷浪士に恐れず立ち向かうきせが、刀を持たない女に臆している姿はまさに一興。
沖田が必死に堪えくつくつと喉奥で笑う度に、体が小刻みに震える。
その背に縋って隠れていたきせには、当然振動が伝わったようで。
悔し紛れに眼を細め睨み上げた。
「まぁ、可愛らしい隊士さん!こっちにいらっしゃいな」
「えっ!?で、でも、僕は…っ」
きせの容姿と初々しさが妙の中でヒットしたようだ。
パタパタと裾を翻しながら駆け寄り、きせの手を取る。
「銀さんと知り合いなんでしょう?だったらいいじゃない」
「そうそう。きせちゃんは銀さんのお隣にお座りなさい」
妙に口添えする銀時は、すっかり酒に酔われているのか上機嫌にソファーをポンポンと叩いている。
(ナイスアシスト万事屋‼︎)
啀み合っていたはずの土方は、差し出された救いの手に掌返して称賛する。
「え!あの…!」
妙に半ば強引に手を引かれるきせが、助けを求めるように沖田へと視線を向けて来た。
無論、沖田はきせを自分の側から離すつもりは無い。
馴れ馴れしく“ きせちゃん”などと呼び、隣に座れなどと厚かましいにも程が有る。
きせ救出に手を伸ばしかけた沖田へ、土方はすかさずその肩を抱き待ったをかけた。
「総悟っ!!俺達も座ろう!!な!?」
「へ、へぇ…」
必死の形相をした土方に意表を突かれ、沖田は思わず頷いてしまう。
しかし、沖田という男はここで退くような輩ではない。
「はいはい、ちょっくら失礼しますよ」
「ぐぇっ」
酔いに任せてきせの肩に手を回していた銀時の顔に手を付き押し退けると、そのまま間に割って座る。
銀時、沖田、きせの並びに、土方は当然不満に打ち拉がれる。
(そこに座ったら意味無ぇだろうが!!)
心の叫びも虚しく、土方は妙以外のキャバ嬢を目で捜してみる。
誰でもいい、誰でもいいから沖田の相手を。
だが、毎度お騒がせな万事屋と真選組を相手にしたがる女はおらず、みな見て見ぬ振りを決め込んでいた。
「お~き~た~くぅん、男の嫉妬は見苦しいよ?うっとおしいよぉぉ?」
張り手を喰らった銀時は、平静を装いながらも内なる怒りに頬をヒクつかせる。
「その様子じゃ、まだ何の進展もないようだな」
「何の話っすか」
ニヤニヤとグラスを傾ける銀時に、沖田はその意味を考えるも、所詮は酔っ払いの戯言と流す事にした。
「いいのか〜?のんびり構えてっと、横から掻っ攫われちまうぞ?」
「旦那、酒が足らないようですぜィ。なんなら、潰れるまで相手してやりましょうか」
「上等だコノヤロー」
「あ、あの……」
かち合う目から稲光を発した銀時と沖田を真横に見据え、その居心地の悪い席にきせはたまらず項垂れる。
そして、向かいの席。
「お妙さぁぁぁん、俺もお相手して下さぁぁい」
恥ずかし気もなく猫撫で声を上げる近藤に、意気消沈。
きせは、一刻も早く何か理由をつけて、この場から立ち去る決意を密かに固めたのだった。
「……で、俺は一体何の為にキャバクラなんぞに来たんだっけか」
覚束ない手で煙草を口にくわえる土方へ、すかさず妙がライターに火を点けて寄越した。
「珍しいですね土方さん、だいぶ酔っていらっしゃいます?」
「んん~、そうでもねェよ?」
いやいや、十分酔っているよときせは心の中で突っ込みを入れる。
厠を言い訳に席を立ち、そのままソファーの端に陣取りを成功したきせは、ちびちびと珈琲牛乳を飲みながら溜息をついた。
誰にも気づかれずこっそり帰ろうとも考えたが、下っ端が上司を残して無断で帰宅するわけにもいかず。
沖田と銀時は不敵な笑みを浮かべ、睨み合ったまま酒盛りの真っ最中。
頼りの土方も、どうやら酒に呑まれてしまったようで話にならない。
この状況にどう収集つければいいのか検討もつかず、やはり来るべきではなかったと本日何度目かの後悔を胸に抱く。
顔を真っ赤にした近藤が、一升瓶を抱きしめたまま絨毯の上で気持ち良さげに爆睡している様を、きせはただ静かに眺めた。
「きせ君、お代わりはいかがかしら」
妙はきせの隣に移動し、空のグラスに珈琲牛乳を並々と注いだ。
もう何杯目か分からぬ珈琲牛乳に、きせは失笑する。
正直いえばこれ以上飲みたくないのだが、せっかく注いでくれたのだからと水分で膨れたお腹に無理矢理流し込む。
「モテ過ぎるのも罪ねぇ。まぁ、銀さんはただ悪ノリしているだけみたいだけど」
「あはは」
何と答えていいか分からず、きせは乾いた笑いを零した。
「くぉらぁサド丸ぅ~!ぬわぁ~にデレデレしてんでィ!」
「そうだぞきせ~!未来の旦那候補差し置いて、そんな貧乳雌ゴリラなんぞに愛想振りまいてんじゃねェぞ!」
「さ、坂田さん何て事を…っ⁉︎」
未来の旦那候補とはなんぞやと突っ込みを入れる以前に、きせはヒヤリと傍らから発せられた殺気に言葉を失う。
そろりと妙を見上げれば、彼女の笑顔に隠された恐ろしいまでの憤怒を感じ取り、ゴクリと生唾を飲む。
「んもぅ銀さんてば、少し飲み過ぎですよ」
顔は美しい笑みを浮かべていようと、目は笑っておらず鬼が宿っていた。
すっと音も立てずに立ち上がると、妙は銀時の頭を鷲掴みにするなり、山盛りの氷が入ったアイスペールの中へと叩き込んだ。
「お水を飲んだ方がいいんじゃないかしら?」
「ごぶっごばっ!!!」
「あわわっ!妙さん落ち着いて‼︎」
止めに入ろうとしたが、何者かが横からきせの体を拘束した。
驚き振り返ったきせは、鼻につく酒の匂いに眉間に皺を寄せる。
出来る事なら鼻をつまんでしまいたい。
だが、自分の直属の上司にそんな無礼は働けないと押し留める。
「お、沖田隊長、離れて下さい」
「やだ」
「何を子供みたいに…」
「俺以外の奴にしっぽ振るような真似は許さねェって、前に言っただろうが」
出来る事なら突き飛ばしてしまいたい。
だか、やはりそんな無礼は働けないと、さらに己を押し留めた。
酒の匂いに呼吸もままならないきせは、そんな約束は知らない知らないと首を横に振る。
実際、前に言ったといってもきせが眠りこけている時、一方的に沖田が約束をしていたため覚えているはずが無いのだが。
「ならお仕置きが必要だな」
にんまり笑う沖田は、テーブルからグラスを引ったくると、それをきせに突き出した。
「一気飲みしなせぇ」
「これを、ですか?」
見れば、それはきせが先程まで飽きる程飲んだ珈琲牛乳。
「分かりました。でも、これ飲んだら僕は先に帰りますからね」
探し求めたこの場を逃げ出す口実。
きせはグラスを傾け一気に喉の奥に流し込んだ。
「おぉ〜いい飲みっぷりじゃん」
「……?」
何かおかしい。
先程まで飲んでいた珈琲牛乳とは何処か味が違う気がする。
体中が熱を帯び、意識が朦朧とする。
「…なんか、へん……」
きせの困惑した声に気づいた妙が、空のグラスを確認して顔色を変えた。
「これカルーアミルクだわ」
飲み易く口当たりが良いが、アルコール度数は決して低くない、立派な酒である。
「もう、沖田さんったら!悪ノリが過ぎるわ」
悪びれた様子も無くきせの腰に腕をまわしたままの沖田に叱咤すると、その手からグラスを取り上げ妙は心配そうに顔色を伺う。
「きせ君、大丈夫?」
「…………」
「サド丸ぅ?」
「……………………………………………ぃ」
項垂れたきせの小さな声に、妙と沖田は聞こえたかと互いに問うように見つめ合う。
「お~いサド丸?」
「お水持ってきましょうか?」
「うるっっさぁぁぁ~~~~い!!!!」
ガバッと立ち上がったきせは、両拳を天井に掲げ大声量で叫んだ。
かと思いきや、そのまますとんと座りぼぅとして焦点が合わない。
「まさか…」
「一杯で酔っぱらっちまったのか?」
きせは徐に沖田へと向き直ると、その胸ぐらを掴んで背凭れに押し付けた。
「この程度でよっぱらっちゃぁ~いません!ってばよぉ」
完全に酔っている。
妙は急いで水を取りに席を離れた。
「まぁまぁ、少し落ち着こうなサド丸」
残された沖田は、目が合えば誰にでも喧嘩をふっかけそうなきせの手綱を捜す。
しかし、掴んだのは手綱ではなく地雷だったようだ。
「んもぉぉ~~~!!!サド丸じゃないってばっっ!なんかい言えばわかるんですかぁぁぁ!!!!」
己の膝の上に股がって睨みを利かせるきせに、沖田は酔いなどとっくの昔に醒めてしまったと眼を細める。
「酒一杯でこりゃ、とんでもねぇ酒乱だわ」
「はっ‼︎おきたたいちょー‼︎まさか僕のなまえ覚えてないんですか⁉︎」
しゅんと眉尻を下げ大人しくなったかと思いきや、今度は涙眼で鼻を啜りだした。
「うっうっ!ひどい‼︎あんまりです‼︎」
(今度は泣き上戸かよ)
うぐうぐと止めどなく大粒の涙を流すきせは、キッと沖田を睨み空に向かって高らかに叫ぶ。
「僕のなまえはぁぁっっ!神凪~~~!!!きせでぇぇぇありまぁぁぁす!!!!」
とんでもない酔っぱらいが現れたと、周囲からは失笑が零れて来る。
己が巻き起こした事とはいえ、沖田は堪らず頭を抱えた。
「覚えてるよ。だから……」
「じゃあよんでみて下さい」
「え……」
沖田の鼻先すれすれの位置からきせが直視してくる。
「……いま?」
「いま」
「いや、それは…」
きせの潤んだ瞳は期待に満ちている。
改めて言われると、何やら気恥ずかしい。
煮え切らない沖田に、きせはムッと睨みつけ口を尖らせる。
「言ってくれなきゃ、ちゅーしちゃうぞ」
ガンっと、頭に衝撃が走る。
鉄の盥が落ちたのかと錯覚したくらいに。
理解が追いつかず、今一度確かめてみる。
「もう1回言って?」
「ん?……ちゅーしちゃうぞ?」
ガンっと、再び鉄の盥が沖田の頭上に落下した。
小首を傾げ、二度三度と長い睫毛を上下させるこの悪魔的可愛らしい生き物はなんだ。
「おきたたいちょー!はぁ〜やぁ〜くぅ〜」
凄んでおねだりするきせに、沖田は如何様にしたものか考えてみる。
しかし、完全に目の座ったきせに説得は馬の耳に念仏。
「分かったよ。1回しか言わないから良く聞け」
深々と息を吐き捨てると、馬乗りになっているきせの腰を抱き寄せ、そっと耳に囁く。
「きせ」
「ひゃぅ!ふふふ」
くすぐったそうに、それでいて嬉しそうに笑うきせ。
「なんだよ、名前くらいで変な奴だな」
「えへへ」
頭をガシガシ撫でると、また嬉しそうに笑った。
いつもなら、撫でられると膨れて怒るのだが。
案外、撫でられるのは嫌ではないのかもしれない。
「さて…」
ぐいっときせの腰をさらに引き寄せ、間合いを詰める。
「ちゃんと言えたご褒美は?」
「こほーび?」
その顔には、いつもの不敵な笑みが浮かんでいる。
沖田という男は、ただ言われるまま弄ばれる男ではない。
反撃開始である。
「キス、してくれるんだろ?」
艶っぽく低い掠れた声でおねだりする沖田に、はてさてそんな約束だったかときせは頭を捻る。
しかし、酒の回った頭で考えるも答えは見つからず。
ほんの少し前の記憶すらあやふやなのだろう、困り顔で何度も首を傾げた。
そんな様子を間近で見て楽しんだ沖田は、そろそろ御開きにするかと膝の上に乗ったきせを下ろそうとする。
しかし。
「わかりました!ごほーびですね!」
「いや、冗談だって…」
きせは沖田の首に両腕を回すと、瞳を閉じ少しだけ開かれた唇に己の唇をあてがった。
「‼︎‼︎」
驚きに目を見開く沖田に構わず、きせはぐいっとその体を押し付けてきた。
しかも、触れるだけの口づけかと思いきや。
「…っんぅ⁉︎」
きせは沖田の唇をこじ開け、躊躇無く舌を滑り込ませてきた。
その動きに、たまらずぞくぞくと背筋が震える。
(こいつ、上手いし…!)
百戦錬磨のような接吻。
何処で、誰を相手にと問いただしてやりたいが、生憎口は塞がって言葉は出ない。
くちゅくちゅと卑猥な音をたてながら、きせは角度を変えて何度も口付けて来る。
「……ふ…んぅ……」
乱れた呼吸が異様なまでに色香を引き出し、鼻にかかった甘ったるい声を漏らすきせ。
されるがままだった沖田の欲情に火がつく。
きせの後頭部に手を添え、もっと深く合わさるように手前へと引き寄せた。
そしてーー…。
「……んぁ…俺ぁ寝てたのかぁ……?」
ズキズキと傷む顳かみを抑えながら、いつの間にか眠っていた土方は突っ伏していたテーブルから顔を上げた。
吸っていたはずの煙草は灰皿の中で消失。
目の前には、アイスペールの中に頭を突っ込んだまま身動き一つしない銀時の姿。
「…何やってんだ、こいつは」
自分の足下では、寝言を口走りながら眠り続ける近藤。
真横には、無を顔に張り付けた妙が立ち尽くしている。
「…ねぇ、私何を見せられているのかしら…」
「あぁ?」
彼女の視線の先。
向かいの席では、膝抱っこしたきせと熱い抱擁を交わす沖田。
まじまじとその光景を見据え、次第に血の気が引いて行く土方は状況を理解し悶絶する。
(頼む、誰か夢だと言ってくれ……)
鈍器で頭を殴られたかのように、土方はその場に血の涙を流しながら再び崩れ落ちた。
翌日。
「あたま痛い……」
きせは青ざめた顔色でズキズキと傷む頭に氷水を押し当てる。
「完全に二日酔いだな」
沖田が用意した薬を水で流し込み、油断すると吐き気が催す最悪な体で、きせは重々しく溜息をついた。
「昨夜は酔っ払いに付き合わされるし、今朝は早朝鍛錬には参加出来ないしで、もう散々です」
いやいや、一番酔って暴れたのはお前だと、沖田は明後日の方角見据え失笑する。
「そういえば、僕はどうやって屯所に戻って来たんですか?」
「覚えてないのか?」
「面目ないです…」
カルーアミルクを飲んでからの記憶が一切無く、気付いたら沖田の部屋で一夜を明かしていた。
しかも、部屋の主を差し置いて、ちゃっかり布団でぐっすりと眠っていたのだ。
「帰って来たのは深夜だったしな。他の連中はみんな寝てるし、めんどくせーから俺の部屋に連れてった」
「何から何まで本当申し訳有りませんでした」
畳に額を擦り着けんばかりに頭を下げると、きせは再び沖田を見上げて来た。
「他に何かご迷惑おかけしていませんか?」
醜態を晒してしまったのではと不安気に見上げて来るきせに、沖田は一瞬言葉に詰まる。
(俺とキスしたって言ったら、コイツどんな顔すっかな…)
あの後、満足いくまで口づけを交わすと、きせはそのままズルズルと沖田の胸になだれ込み寝入ってしまった。
(おかげでこちとら大変だったぜ…)
店に騒ぎを謝罪し、潰れたきせを担ぎ、燻る熱を持て余しで、なかなか散々な想いをした。
ちなみに、近藤は土方が連れ帰った。
人の気も知らずに、布団で幸せそうに眠るきせに腹も立ったが、元を辿れば全て自分が発端であり、これは自業自得というやつだろう。
「…あの、沖田隊長?」
やはり何かやらかしてしまったのではと、今にも謝罪してきそうなきせに、沖田は反省の念を込めて首を横に振った。
「お前、あの後すぐに寝ちまったから何もしてねェよ」
「そ、そうですか」
安堵してみせるきせに、沖田は昨夜の事を当面己の胸の内にしまって置く事を決意した。
「あぁ、一つ命令しとく。酒を飲む時は必ず俺が居る時にしろな」
「?はい、分かりました」
「近藤さんよぉ……今度は吉原にでも行かないか」
同じく二日酔いの近藤は、たった一晩で何故か激痩せした土方の発した言葉に耳を疑う。
「トシ!?お前本当にどうしちゃったのっ!?」