偽りのカンパネラ
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大木に止まったツクツクボウシが、短い命の限りを高らかに鳴き上げている。
真夏の太陽はそれを祝福と受け取り、夕暮れにも関わらず燦々と大地を照らした。
縁側で夕涼みをしていた沖田は、軒下に吊るされた風鈴を見上げる。
街を散策していた時、音色に惹かれ衝動的に購入してしまった物だ。
鬼灯が描かれた風鈴は、透き通った美し音色を奏でた。
肌には感じられなかったが、微風ながら風が吹いているようだ。
沈みゆく太陽を見送りながら、再び風が訪れるのを待つ。
ほどなくして、穏やかな風が緑の香りを運びにやってきた。
人の手では操りようのない、風鈴の鈴の音に涼しの風情を感じる。
「ほぉ、風鈴か」
床板を軋ませながら、真選組局長である近藤が沖田の隣に歩み寄って来た。
「なぁ総悟、ちょっと道場に来てみないか?」
「あぁ、終わったんですかぃ」
今日は、朝から道場で真選組入隊希望者の実技試験を行っている。
以前は実技試験など行なわずとも、身分不問でも独身者なら入隊資格があるとされていた。
しかし、ここ最近は攘夷浪士のテロ活動が活発化している。
直ぐにも実戦に駆り出される事を考えれば、それなりに実力ある者を入隊させるべきと、提案者である土方自ら採用試験に立ち合っていた。
沖田も、最初こそ興味本位から同席していたが、道場で良い子に竹刀を振っていました、と言わんばかりの見掛け倒しな入隊希望者に興味は消え失せ、早々にも退席していた。
そんな沖田の心情を悟ってか、近藤はにんまりと笑う。
「面白い奴が出て来たぞ。斉藤から一本取ってみせた」
「へぇ、そいつぁスゲぇや」
少し驚いた様子で、沖田はようやく風鈴から目を離した。
張り詰めた空気はそのままに、志願者で熱気溢れる道場はすでに鎮静していた。
長蛇の列が出来ていた入隊希望者も、今や数える程度。
どうやら、土方のお眼鏡に敵った希望者は極僅かのようだ。
「なんだ、総悟。来たのか」
試験管として竹刀を振っていたはずの土方は、汗一つかかずに涼し気な顔をしていた。
憎たらしいその顔に、痣の一つでも出来ていればいいと企んでいた沖田は、入隊希望者の技量の無さに肩を落とす。
もっとも、自分でさえ土方に一撃入れるのは至難の業故にそれも仕方が無いのだが。
「面白い奴がいるって聞いたんですが、どいつですかぃ」
「あぁ、神凪の事か」
沖田の指す人物に当てがあるとすればただ一人、土方は迷わず一人の青年を見据えた。
入隊希望者の輪から少し外れた所に、神凪と呼ばれた青年はいた。
顔のラインに添って切り揃えられた癖の無い小豆色の髪に、穢れを知らぬ真っ直ぐな黄金の瞳。
他の隊士に比べてかなり小柄なのが少し気にかかるが、真選組が誇る三番隊隊長とやり合ったというのだから、見かけによらずかなりの実力者なのだろう。
“無敵の剣”と謌われし斉藤の剣を凌いだその腕前、興味があった。
「土方さん、俺にも一戦やらせてもらえやせんか?」
「そりゃ、構わないが…」
珍しくやる気のある沖田に面食らいながら、土方は神凪を呼び寄せた。
「神凪きせと申します。宜しくお願い致します」
「一番隊隊長、沖田総悟。お手合わせ願いやす」
まだ声変わりしていない中性的な声を道場に響かせ、きせが深々と綺麗に一礼した。
竹刀を構え両者が対峙すると、道場内は水を打ったように静まる。
ツクツクボウシの鳴き声だけが、異様な程大音量で木霊した。
沖田ときせは、見合ったまま身動き一つしない。
十数回と繰り返されたツクツクボウシの鳴き声が、終わりを告げようとしている。
鳴き声が止まった。
それを合図に、地を蹴る音が響くと同時、二人は竹刀を交差させていた。
凪ぎ払う沖田の竹刀を屈んで避けるきせ。
突き出した竹刀よりも早く後退する沖田。
飛び退き間合いを取った頃、観衆は息を殺し呆然としていた。
一瞬の出来事に、目で追うのがやっとだった。
じりじりと爪先で間合いを詰め、再び地を蹴る音が道場に響くと、竹刀のぶつかり合う音が激しく耳を打つ。
「へぇ、面白いじゃん」
沖田の口から思わず溢れ落ちる。
打っても打っても屈しないきせに、気づけば夢中になって竹刀を振っていた。
「だけど、まだまだだな」
華奢な体をしたきせは、見かけ通り筋肉はさほど付いておらず、鍔迫り合いにもなると分が悪いよう。
「…っく!」
歯を食いしばり、必死に沖田の竹刀を押し返そうとしている。
だが、己の弱点を見極めているのだろう。
力では敵わないと悟れば、きせは直ぐにも退避に転換する。
小さな体を有効に駆使し、沖田の脇に転がり込むと背後へと回り込んだ。
「おおぉ!すごいぞ!」
「やるな!あのチビ!」
見事な立ち回りに観衆から声が上がる。
だが、そう簡単に事が運ぶほど沖田という男は容易い相手ではない。
不利な立ち位置を諸共せず、沖田はきせの振り下ろした竹刀を易々と受け止め、軌道をずらし、そのまま天高く竹刀を大きく払った。
「っ!?」
脇に隙が出来たきせが、驚きと悔しさに目を見開き、顔を顰めた。
その表情を見据え、沖田の口端がにやりと上がった。
勝負あり。
誰しもそう悟った。
しかし、沖田の竹刀は攻撃体制に入ったまま止まらない。
「総悟!!そこまでだ!!」
すかさず土方が止めに入る。
だが、沖田の手は止まるどころか、竹刀はそのままきせの肋目掛け勢いを増した。
「総悟っっ!!」
土方が止めに入ろうと足を踏み出す。
しかし、間に合うはずもない。
悲鳴を飲み込むように息を止めた観衆から目もくれず、竹刀はそのまま抉るように下から振り上げられた。
その時、誰もが予想しない出来事が起きた。
なんと、きせは鼻先すれすれで竹刀を避けると、そのまま後転飛びをし窮地を脱した。
これには誰しもが驚いた。
再び静まり返る道場。
「こいつは、相当な大物が現れたな」
驚愕に顔を引き締めた近藤は、腕を組んだまま立ち尽くしている。
踏み止まった足を引き戻し、土方は先程入隊したばかりの新米へと視線を伸ばした。
見ればきせ自身、なんとか逃げお失せたといった様子で、荒々しく呼吸を繰り返しながら肩を揺らしている。
そして、きせは今一度大きく呼吸を整え、竹刀を構え直した。
沖田の技量を目の当たりにしてもなお、やり合う気でいるようだ。
それを見るなり、土方は何処か嬉しそうに顔を緩ませた。
「育て甲斐あるな、こりゃ」
一方の沖田も、自分の呼吸が僅かに乱れている事に気がついた。
夏の暑さだけではない汗が、頬を一筋伝い落ちる。
「…はは、マジでこいつおもしれぇ」
その目は、新しい玩具を見つけた子供のように輝いていた。
ツクツクボウシの鳴き声すら耳に届かない。
誰もがこの二人の勝敗の行方を追っていた。
竹刀を構えたまま幾度目かの間合いを詰め、床板を叩きつけるように、両者一斉に強く足を踏み出した。
しかし、舞台は唐突に幕を下ろす事になった。
「…えっ!?ちょっ…ぁぁっ!?」
緊迫した空気の中、間の抜けた悲鳴がきせの口から上がる。
何かに足を取られたのか、体をふわりと浮き上がらせ、バランスを取る事も叶わず、そのまま顔面から勢い良く床へと滑り落ちたのだ。
道場に、大きな衝撃音が上がる。
そして、きせの手から抜け落ちた竹刀が、カランと床を転がり虚しく響いた。
誰がこのような展開を想像出来たであろう。
顔面を強打し俯せに倒れたままのきせを見つめ、みな言葉を失った。
「お、おいっ、大丈夫か!?」
真っ先に我に返った土方が駆け寄ると、きせはゆっくりと起き上がり顔を擦った。
「うぅぅ…」
ひんひん鼻をすするきせを気にかけつつ、その足下に落ちている見覚えのある赤いアイマスクを見つけた。
昼寝の時には欠かせない、沖田ご愛用の物だ。
どうやら、激しい打ち合いの最中、沖田のポケットから滑り落ちたようだ。
それをきせが気付かず践んでしまい、足を滑らせたのだろう。
「総悟〜!お前な〜!!」
「あぁ、悪い」
先程までの気迫は無く、沖田はしれっと謝罪するなり、覗き込むようにしてきせの様子を伺う。
「おい、大丈夫か?」
「い、いひゃいですぅ…」
「だろうな、すごい音したぞ」
沖田と互角に近い勝負をしていた勇猛な侍は、額と鼻先が赤くなり、痛みのあまり生理的な涙で瞳を潤ませている。
そのギャップに耐えかねた沖田は、我慢しきれず笑い出した。
「…っく……あははは!」
「おい総悟」
「あはは、すいやせん」
土方に咎められ謝罪を口にするも、さして悪びれた様子も無く、沖田はきせの頭をよしよしと撫でた。
痛みが引いてきたのか、ようやく顔をあげたきせの瞳をじっと見据え、沖田はふと笑みを浮かべた。
「土方さん、こいつ、俺にくだせェ」
「はぁ?」
「一番隊で預かりやす」
「おいおい、ちょっと待て総悟。勝手に決めんな」
もう決めたとばかりに話を進める沖田に、土方は苛立たし気に髪をかき上げた。
実は、沖田の他にもきせを自分の隊へと申し出ている隊長がいる。
さきほど、実技試験で打ち負かされた斉藤も挙手した一人だ。
確かに、これほどの実力を兼ね備えた新人隊士はそうそうお目にかかれるものではない。
育て甲斐ある隊士を傍に置きたいと願うのは、土方も同じである。
「いいじゃないか、トシ」
上機嫌な笑い声を上げながら、近藤はしゃがんだままの土方達を見下ろした。
「総悟が何かに執着するのは珍しい。ここは一つ、任せてみようじゃないか」
「近藤さん…」
局長である近藤の了承を得られたのなら仕方が無いと、土方はまだ納得はいかないものの渋々頷いた。
「しょうがねぇ、ちゃんと面倒みろよ総悟」
「分かっておりやす」
沖田はきせの頭を撫でながら、酷くご機嫌な様子で笑いかけた。
「よし、今日からお前はサド丸9号だ」
「ちゃんと面倒みろって言っただろうが!!!」
軒下で風に揺れる風鈴の音が、空に溶けていく。
古来より、鬼灯は死者の霊を導く提灯に見立てられるという。
描かれた鬼灯が、消えゆく太陽の光を浴びて提灯のように火を灯した。
鬼灯が描かれし風鈴は、その音で何を導く……。
真夏の太陽はそれを祝福と受け取り、夕暮れにも関わらず燦々と大地を照らした。
縁側で夕涼みをしていた沖田は、軒下に吊るされた風鈴を見上げる。
街を散策していた時、音色に惹かれ衝動的に購入してしまった物だ。
鬼灯が描かれた風鈴は、透き通った美し音色を奏でた。
肌には感じられなかったが、微風ながら風が吹いているようだ。
沈みゆく太陽を見送りながら、再び風が訪れるのを待つ。
ほどなくして、穏やかな風が緑の香りを運びにやってきた。
人の手では操りようのない、風鈴の鈴の音に涼しの風情を感じる。
「ほぉ、風鈴か」
床板を軋ませながら、真選組局長である近藤が沖田の隣に歩み寄って来た。
「なぁ総悟、ちょっと道場に来てみないか?」
「あぁ、終わったんですかぃ」
今日は、朝から道場で真選組入隊希望者の実技試験を行っている。
以前は実技試験など行なわずとも、身分不問でも独身者なら入隊資格があるとされていた。
しかし、ここ最近は攘夷浪士のテロ活動が活発化している。
直ぐにも実戦に駆り出される事を考えれば、それなりに実力ある者を入隊させるべきと、提案者である土方自ら採用試験に立ち合っていた。
沖田も、最初こそ興味本位から同席していたが、道場で良い子に竹刀を振っていました、と言わんばかりの見掛け倒しな入隊希望者に興味は消え失せ、早々にも退席していた。
そんな沖田の心情を悟ってか、近藤はにんまりと笑う。
「面白い奴が出て来たぞ。斉藤から一本取ってみせた」
「へぇ、そいつぁスゲぇや」
少し驚いた様子で、沖田はようやく風鈴から目を離した。
張り詰めた空気はそのままに、志願者で熱気溢れる道場はすでに鎮静していた。
長蛇の列が出来ていた入隊希望者も、今や数える程度。
どうやら、土方のお眼鏡に敵った希望者は極僅かのようだ。
「なんだ、総悟。来たのか」
試験管として竹刀を振っていたはずの土方は、汗一つかかずに涼し気な顔をしていた。
憎たらしいその顔に、痣の一つでも出来ていればいいと企んでいた沖田は、入隊希望者の技量の無さに肩を落とす。
もっとも、自分でさえ土方に一撃入れるのは至難の業故にそれも仕方が無いのだが。
「面白い奴がいるって聞いたんですが、どいつですかぃ」
「あぁ、神凪の事か」
沖田の指す人物に当てがあるとすればただ一人、土方は迷わず一人の青年を見据えた。
入隊希望者の輪から少し外れた所に、神凪と呼ばれた青年はいた。
顔のラインに添って切り揃えられた癖の無い小豆色の髪に、穢れを知らぬ真っ直ぐな黄金の瞳。
他の隊士に比べてかなり小柄なのが少し気にかかるが、真選組が誇る三番隊隊長とやり合ったというのだから、見かけによらずかなりの実力者なのだろう。
“無敵の剣”と謌われし斉藤の剣を凌いだその腕前、興味があった。
「土方さん、俺にも一戦やらせてもらえやせんか?」
「そりゃ、構わないが…」
珍しくやる気のある沖田に面食らいながら、土方は神凪を呼び寄せた。
「神凪きせと申します。宜しくお願い致します」
「一番隊隊長、沖田総悟。お手合わせ願いやす」
まだ声変わりしていない中性的な声を道場に響かせ、きせが深々と綺麗に一礼した。
竹刀を構え両者が対峙すると、道場内は水を打ったように静まる。
ツクツクボウシの鳴き声だけが、異様な程大音量で木霊した。
沖田ときせは、見合ったまま身動き一つしない。
十数回と繰り返されたツクツクボウシの鳴き声が、終わりを告げようとしている。
鳴き声が止まった。
それを合図に、地を蹴る音が響くと同時、二人は竹刀を交差させていた。
凪ぎ払う沖田の竹刀を屈んで避けるきせ。
突き出した竹刀よりも早く後退する沖田。
飛び退き間合いを取った頃、観衆は息を殺し呆然としていた。
一瞬の出来事に、目で追うのがやっとだった。
じりじりと爪先で間合いを詰め、再び地を蹴る音が道場に響くと、竹刀のぶつかり合う音が激しく耳を打つ。
「へぇ、面白いじゃん」
沖田の口から思わず溢れ落ちる。
打っても打っても屈しないきせに、気づけば夢中になって竹刀を振っていた。
「だけど、まだまだだな」
華奢な体をしたきせは、見かけ通り筋肉はさほど付いておらず、鍔迫り合いにもなると分が悪いよう。
「…っく!」
歯を食いしばり、必死に沖田の竹刀を押し返そうとしている。
だが、己の弱点を見極めているのだろう。
力では敵わないと悟れば、きせは直ぐにも退避に転換する。
小さな体を有効に駆使し、沖田の脇に転がり込むと背後へと回り込んだ。
「おおぉ!すごいぞ!」
「やるな!あのチビ!」
見事な立ち回りに観衆から声が上がる。
だが、そう簡単に事が運ぶほど沖田という男は容易い相手ではない。
不利な立ち位置を諸共せず、沖田はきせの振り下ろした竹刀を易々と受け止め、軌道をずらし、そのまま天高く竹刀を大きく払った。
「っ!?」
脇に隙が出来たきせが、驚きと悔しさに目を見開き、顔を顰めた。
その表情を見据え、沖田の口端がにやりと上がった。
勝負あり。
誰しもそう悟った。
しかし、沖田の竹刀は攻撃体制に入ったまま止まらない。
「総悟!!そこまでだ!!」
すかさず土方が止めに入る。
だが、沖田の手は止まるどころか、竹刀はそのままきせの肋目掛け勢いを増した。
「総悟っっ!!」
土方が止めに入ろうと足を踏み出す。
しかし、間に合うはずもない。
悲鳴を飲み込むように息を止めた観衆から目もくれず、竹刀はそのまま抉るように下から振り上げられた。
その時、誰もが予想しない出来事が起きた。
なんと、きせは鼻先すれすれで竹刀を避けると、そのまま後転飛びをし窮地を脱した。
これには誰しもが驚いた。
再び静まり返る道場。
「こいつは、相当な大物が現れたな」
驚愕に顔を引き締めた近藤は、腕を組んだまま立ち尽くしている。
踏み止まった足を引き戻し、土方は先程入隊したばかりの新米へと視線を伸ばした。
見ればきせ自身、なんとか逃げお失せたといった様子で、荒々しく呼吸を繰り返しながら肩を揺らしている。
そして、きせは今一度大きく呼吸を整え、竹刀を構え直した。
沖田の技量を目の当たりにしてもなお、やり合う気でいるようだ。
それを見るなり、土方は何処か嬉しそうに顔を緩ませた。
「育て甲斐あるな、こりゃ」
一方の沖田も、自分の呼吸が僅かに乱れている事に気がついた。
夏の暑さだけではない汗が、頬を一筋伝い落ちる。
「…はは、マジでこいつおもしれぇ」
その目は、新しい玩具を見つけた子供のように輝いていた。
ツクツクボウシの鳴き声すら耳に届かない。
誰もがこの二人の勝敗の行方を追っていた。
竹刀を構えたまま幾度目かの間合いを詰め、床板を叩きつけるように、両者一斉に強く足を踏み出した。
しかし、舞台は唐突に幕を下ろす事になった。
「…えっ!?ちょっ…ぁぁっ!?」
緊迫した空気の中、間の抜けた悲鳴がきせの口から上がる。
何かに足を取られたのか、体をふわりと浮き上がらせ、バランスを取る事も叶わず、そのまま顔面から勢い良く床へと滑り落ちたのだ。
道場に、大きな衝撃音が上がる。
そして、きせの手から抜け落ちた竹刀が、カランと床を転がり虚しく響いた。
誰がこのような展開を想像出来たであろう。
顔面を強打し俯せに倒れたままのきせを見つめ、みな言葉を失った。
「お、おいっ、大丈夫か!?」
真っ先に我に返った土方が駆け寄ると、きせはゆっくりと起き上がり顔を擦った。
「うぅぅ…」
ひんひん鼻をすするきせを気にかけつつ、その足下に落ちている見覚えのある赤いアイマスクを見つけた。
昼寝の時には欠かせない、沖田ご愛用の物だ。
どうやら、激しい打ち合いの最中、沖田のポケットから滑り落ちたようだ。
それをきせが気付かず践んでしまい、足を滑らせたのだろう。
「総悟〜!お前な〜!!」
「あぁ、悪い」
先程までの気迫は無く、沖田はしれっと謝罪するなり、覗き込むようにしてきせの様子を伺う。
「おい、大丈夫か?」
「い、いひゃいですぅ…」
「だろうな、すごい音したぞ」
沖田と互角に近い勝負をしていた勇猛な侍は、額と鼻先が赤くなり、痛みのあまり生理的な涙で瞳を潤ませている。
そのギャップに耐えかねた沖田は、我慢しきれず笑い出した。
「…っく……あははは!」
「おい総悟」
「あはは、すいやせん」
土方に咎められ謝罪を口にするも、さして悪びれた様子も無く、沖田はきせの頭をよしよしと撫でた。
痛みが引いてきたのか、ようやく顔をあげたきせの瞳をじっと見据え、沖田はふと笑みを浮かべた。
「土方さん、こいつ、俺にくだせェ」
「はぁ?」
「一番隊で預かりやす」
「おいおい、ちょっと待て総悟。勝手に決めんな」
もう決めたとばかりに話を進める沖田に、土方は苛立たし気に髪をかき上げた。
実は、沖田の他にもきせを自分の隊へと申し出ている隊長がいる。
さきほど、実技試験で打ち負かされた斉藤も挙手した一人だ。
確かに、これほどの実力を兼ね備えた新人隊士はそうそうお目にかかれるものではない。
育て甲斐ある隊士を傍に置きたいと願うのは、土方も同じである。
「いいじゃないか、トシ」
上機嫌な笑い声を上げながら、近藤はしゃがんだままの土方達を見下ろした。
「総悟が何かに執着するのは珍しい。ここは一つ、任せてみようじゃないか」
「近藤さん…」
局長である近藤の了承を得られたのなら仕方が無いと、土方はまだ納得はいかないものの渋々頷いた。
「しょうがねぇ、ちゃんと面倒みろよ総悟」
「分かっておりやす」
沖田はきせの頭を撫でながら、酷くご機嫌な様子で笑いかけた。
「よし、今日からお前はサド丸9号だ」
「ちゃんと面倒みろって言っただろうが!!!」
軒下で風に揺れる風鈴の音が、空に溶けていく。
古来より、鬼灯は死者の霊を導く提灯に見立てられるという。
描かれた鬼灯が、消えゆく太陽の光を浴びて提灯のように火を灯した。
鬼灯が描かれし風鈴は、その音で何を導く……。
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