守る場所
指名変更
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土井side
夜の風が静かに吹く長屋の前で、咲は一呼吸置いてから、そっと戸を叩いた。
「夜分遅くにすみません。今、お時間よろしいですか?」
扉を開けた土井半助は、いつもと変わらぬ穏やかな顔で頷いた。
「ええ、大丈夫ですよ。……どうぞ」
通された部屋には、湯の香りが漂っていた。
畳に腰を下ろすと、咲の表情にはどこか迷いがあった。
「……どうかしましたか?」
土井が湯を差し出しながら問うと、咲はほんの一瞬だけ、視線をさまよわせたあと――
「好きって……どういうことなんでしょうか」
静かに、けれど突然に投げかけられたその言葉に、土井の指が止まる。
「……え?」
「“好き”って……どんな気持ちなんだろう、って……」
私の心臓が、ひとつ跳ねるのがわかった。
彼女の声が、いつもより少しだけ静かだったせいか、
あるいは――その言葉が、あまりに真っすぐだったせいか。
(……今、それを私に……?)
けれど、次の瞬間。
「……今日、くノ一の子に聞かれたんです。“好きって、どんな気持ちですか?”って」
彼女が、ふっと苦笑をこぼした。
「答えられなかったんです。任務の心得も、武器の使い方も教えられるのに、“好き”だけがどうしても出てこなくて」
(……生徒の話、か)
胸の奥にこっそり湧いていた期待が、静かに霧散していく。
安堵とも、落胆ともつかない感情が、湯気のように胸に広がった。
「それで……どう答えればいいのかなと思って。
こんな相談、歳の近い土井先生にしかできなくて……」
「……そうでしたか」
湯をひと口飲んで、私は少し考える。
「好きって……言葉にするのは難しいですね。
理由なんかなくても、その人のことが気になってしまったり。
言葉を交わしたわけじゃなくても、目で追ってしまったり……」
それを言いながら、私はひとつ気づいてしまう。
(……全部、自分のことじゃないか)
訓練の様子を見るたびに、彼女の様子を気にしていた。
誰かと話していれば、内容まで気になってしまう。
(ああ、そうか)
“好き”という気持ちを、誰かに教えようとして、ようやく私は、自分がその只中にいることを知った。
それでも、顔には出さずに言葉を続ける。
「……だからきっと、“好き”って、理屈じゃないのかもしれませんね」
咲は、静かに頷いた。
「……ありがとうございます。
少しだけ、答えに近づけた気がします」
戸が閉まったあと、部屋に静寂が戻る。
湯の香りだけが、まだほんのりと空気に残っていた。
土井は咲が座っていた場所をそっと見やった。
畳のわずかな凹みが、さっきまで彼女がそこにいたことを物語っている。
(……生徒の相談、か)
自分に向けられた言葉ではなかった。
くノ一の子に“好きってどういう気持ちですか”と聞かれて、どう答えればいいか分からなくて……その相談。
それだけのことだったはずだ。
けれど――
(どうして…あんなふうに聞くんですか、あなたは)
静かで、少し戸惑いのある声。
“好きって”と口にするたび、こちらの胸がざわめいた。
相談なのに、まるで……まるで自分自身が問われているようだった。
その問いに言葉を探しながら、自分の心をのぞきこんでいた。
気づけば、“好き”の定義を説明するふりをして、自分の気持ちを語っていたのかもしれない。
(私は……)
彼女の声に、仕草に、微笑みに、いつのまにか惹かれていた。
くノ一の教え子たちに見せる厳しさと、時折ふっと見せる迷い。
傷を隠すように笑うその眼差し。
真っ直ぐで、どこか不器用なその人柄。
思い返せば、最初に“相談してもいいですか”と声をかけられた瞬間から、胸の奥が落ち着かなかった。
(生徒の話なのに、私は……)
ほんの一瞬でも、自分に向けられた問いだと思ってしまった。
そう思った自分に、胸が痛む。
そして同時に――気づいてしまう。
(私はもう、とっくに……)
心はとうに、彼女に向いていた。
生徒の相談に答えながら、自分自身の答えに辿り着いてしまった。
「……厄介だな、感情というものは…」
ひとりごとのように、ぽつりと漏れる。
机の上の湯飲みに手を伸ばし、そのぬるくなった温もりを掌に受けながら、土井は目を閉じた。
気づいてしまった心は、もう元には戻らない。
彼女が今夜、自分を頼って訪ねてきたという事実が、胸のどこかを確かに灯していた。
眠れぬ夜になりそうだと、土井は静かに目を開けた。