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燕子花は愛と歩む


 ――私の名を呼んでくれ
 じっと見つめた瞳の奥が揺らぎ、たゆたっている。蝋燭の火が反射し、瞳が万華鏡のように色を変える。このまま消えてしまうんじゃないかと錯覚しそうになって、僕は彼の手を掴み、その名を呼んだ。
 
◇◇◇◇◇◇
 
 空がどんよりと鈍色に染まっていた。
 雷蔵ひとりで行うように、と直々に指令があった実習に出てもう数日が経過している。
 迷い癖という致命的な病は修行を繰り返した今もまだ治りきってはいないが、それでも無事に課題を終え、雷蔵は帰路についていた。
 はらり、と舞いはじめた雪が地面を濡らしては消えてゆく様を眺めて、足早に歩を進める。
 吐く息が白く立ち上り、冬の訪れを告げていた。
 ついこの間まではまだ秋の香りが残っていた。草木が色付く中で、雷蔵は仲間たちとともに学業に励み、その合間に三郎とともにふたりの未来のことを考え、さらなる特訓を重ねてきた。その愛しい日々は既に過去のもの。今朝になって急に冷え込んだのだ。
 本格的に降り積もる前に、少しでも早く学園に近付きたかった。無事を祈ってくれた恋人と友人たちに一刻も早く会いたくて、雷蔵はひたすら山道を突き進む。その足取りはどこか重く、握りしめた手は寒さでかじかむというのに汗が滲んでいる。息を殺し、ただ前を向いて周囲に神経を張り巡らせた。
 ――誰かが、見ている
 探るような視線がずっとまとわりついている。にも関わらず、その気配からは殺気を感じず、ただじっと雷蔵の様子を観察してるだけだ。
 正直、気味が悪かった。
 相手の思惑が分からず、それがまた気持ち悪い。気配を悟らせるのは忍びとしては有り得ないことだ。なのに、これはどういう事なのか。相手は忍びなのか、そうでないのか。行動に出るべきか、無視を決め込むべきか。考えれば考えるほど沼に嵌っていく。
「やあ、雷蔵」
 思案する雷蔵に、突然耳慣れた声が聞こえた。
「……三郎?」
 木陰からゆらりと姿を見せた三郎は雷蔵の記憶の中の彼と寸分違わぬ姿形で笑っていた。
「そろそろ戻るかと思ったよ」
「それで、この寒空の下で待ってたの? 」
「待ちたかったからね」
「僕がもっと遅かったらどうしたのさ」
「その場合は、またその時考える」
「……まったく、お前って奴は」
 色々と言いたいことはあるが、それはやめておいた。三郎のおかげで、張り詰めていた気持ちがふっとやわらいだからだ。
 だが、雷蔵を見張る気配はまだ消えていなかった。むしろ、三郎の姿を捉えてからは頭からつま先までを舐め回すような視線が這っている。雷蔵は、素知らぬ顔を決め込みながらもチラリと三郎に目配せした。彼も、気がついているはずだ。
「まあまあ雷蔵、結局会えたんだからいいじゃないか」
 ――無視していい
 矢羽根の合図に、雷蔵は努めて平静を装った。
「 ……そうだね。でも次からは学園で待ってて欲しいな。三郎が風邪を引いてしまったら大変だからね」
 ――どういうこと? 三郎は何か知ってるの?
「風邪をひいたら看病してくれるんだろう?」
 ――私の予想が正しければ……
    確かめたい。 今は話を合わせてくれ
「その場合は、その時考えようかな?」
 ――分かった
 少しだけ意地悪な心が湧いて、表の会話にそう返せば、三郎は大袈裟に肩を落として「らいぞ~」と情けない声をあげた。
 冗談だということは、きっと伝わっているだろう。初夏に想いを通い合わせて、秋に互いを確かめあった。そして冬を迎え、雷蔵の心の内はあの頃と比べると凪のように穏やかになっている。互いへの理解が深まり、信頼し合う関係になったのだと思う。
 だから、雷蔵は「立ち話をしてると日が暮れちゃうよ。行こう」と声を掛けて再び歩みを進めた。
 
◇◇◇◇◇◇
 
「あれ? そこにいらっしゃるのは不破雷蔵先輩と鉢屋三郎先輩ですか?」
 何とか日が暮れぬうちに学園の近くにある町へと辿り着いたふたりは、声の主の方へ同時に振り返った。
「やあ、乱太郎」
「きり丸にしんベヱも。お前たち、こんな時間にどうしたんだ?」
「「「ぼくたち、お使いの帰りでーす!」」」
 元気の良い返事に、つい頬が緩みそうになる。帰ってきたのだなあと実感して、雷蔵はほんの少しだけ胸を撫で下ろすが、すぐに気持ちを引き締め直した。
 ふたりを追いかけてきた気配は、町に入ってから忽然と姿を消した。相手の素性が分からぬ中、不用意な発言は避けなければならないし、警戒を解くこともできない。だが、この三人を巻き込む訳にも無下にする訳にもいかず、雷蔵は素知らぬ顔を決め込み平然と穏やかな表情を浮かべた。
「先輩たちは?」
「今日も仲良くおふたりでお出かけですか?」
「うん、まあそんなところかな」
「私たちも今から帰るところなんだ。もう日暮れが近いし、一緒に行こう。なあ、雷蔵」
「そうだね。三人とも、それでいいかい?」
「「「はーい! よろしくお願いします!」」」
 ふたりで歩んでいた時の穏やかな空気は、ワイワイと賑やかな道中へとガラリと変わった。三郎はお気に入りの後輩たちに構うのが楽しいのだろう。優しい笑顔を見せ、口々に今日あった出来事を語る三人に相槌をうっている。
 ふいに、そんな彼が好きだなと思った。
 ふたりきりでいるとき、三郎はひどく優しい眼差しで雷蔵のことを見つめてくる。いつだって、三郎は雷蔵のことを第一に考え、優先し、大事にしてくれる。恋仲として、親友として。そして背中を任せる相棒として。彼以上に信頼出来る相手はいないと断言できるし、自分にだけ見せる三郎の〝顔〟は雷蔵の中に蔓延る欲を満たしてくれた。
 だが、こういう時の姿も好きだなと思うのだ。自分だけでは引き出せない彼の姿もまた、雷蔵が好きになった鉢屋三郎の姿だった。
「雷蔵!」
 名前を呼ばれ、はっと前を向く。悪い癖がまた出てしまっていた。少し先で、無邪気な顔を見せる乱太郎、きり丸。そしてなぜかしんベヱを背中におんぶした状態で手を振る三郎が待っていた。
「しんベヱが腹が減って動けないって言うんだ。少しだけ急いでもいいかい?」
「せんぱい、ごめんなさ~い」
 駆け寄り、「もちろんいいよ」と頷く。
 ――その時だった
 すれ違った相手から雷蔵を値踏みするようなあの嫌な気配を感じたのは。咄嗟に振り返れば、人混みの中に姿を紛らわせ、すでに気配は消えていた。
「三郎……」
 呼びかけて、雷蔵は口を噤む。
 ほんの一瞬。誰にも気が付かれない程度の僅かな時間。三郎の表情は張り詰め、鋭い眼差しを光らせていた。
 
◇◇◇◇◇◇
 
「三郎、説明してくれるよね」
 後輩たちを一年は組の仲間たちの元へと無事に送り届け、ふたりは自室へと戻ってきた。それまで、我慢していた気持ちが抑えきれず、引き戸を閉めてすぐに雷蔵は切り出した。
「……分かった。いずれ君には伝えないといけなかったことだ。ちゃんと話すよ」
 三郎の声音はどこか強ばっている。座るように促され、雷蔵はいつもの定位置に腰を下ろした。三郎も同様に腰を下ろすと、じっと雷蔵の顔を見つめ口を切った。
「君が感じていた気配の正体。あれは、私の父が寄越した者だ」
「三郎のお父上が?」
「おそらく間違いない。町ですれ違ったとき、鉢屋の者しか分からないはずの矢羽根を使ってきた。前の休暇で戻らなかったから、様子を見に来たといったところだろう」
「ということは、ついに?」
「私もそう思う。前に少し話した通り、私が君と親しくしていることを嗅ぎ付けて疎んじている者がいる。これまでは静観していたが、ようやく動き始めたんだろう」
「三郎。お前、もしかして気付いていたから……」
「待っていたんだ。きり丸から話を聞いて、もしやと思ったけど。勘が働いてよかった」
 〝きり丸〟その名を聞いて、雷蔵は少し前に図書委員会の用事で後輩たちを連れて町に出た日のことを思い出した。あの時も、一瞬だけだが奇妙な視線を感じていた。
「きり丸は、大丈夫なんだろうね」
「安心していい。あくまで、狙いは私と君だ。雷蔵のことを聞き出そうとして接触したようだけれど、あくまでそれだけだよ」
「……よかった」
 ほっと胸を撫で下ろす雷蔵とは対象的に、三郎は依然として張りつめた表情を浮かべ考え込んでいる。
「三郎……?」
 雷蔵の呼び掛けに、三郎の視線が揺らぐ。
 口を開いたかと思えば閉ざし、こぶしを固く握りしめた。三郎は、迷っている。雷蔵は直観的にそれを悟った。去年の春に手紙を隠していたあの日の三郎が今の三郎と重なって見えた。
 だが、ようやく口を開いた三郎の声は予想に反して明るかった。
「まあ、悩んだところでしょうがない。今の私たちなら、乗り越えられるはずさ。雷蔵、そうだろう?」
「うん。僕ら、覚悟を決めたじゃないか」
 視線を逸らさず、頷き合う。
 三郎が表情をやわらげ、優しく微笑んだ。そしてすぐにその相貌を引き締める。
「雷蔵。私たちの将来のことで、話しておかなければならないことがある」
 真っ直ぐな声が部屋に響き、雷蔵の身体を貫いた。
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