このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

燕子花は愛と歩む

2.移ろいゆく日常

前日に降りはじめた雪は音もなくただしんしんと降り積もり、朝起きた時には一面が銀世界に変貌していた。
臨時休園が決められた忍術学園では、朝から各委員会が様々な作業に駆り出されていた。
三郎は学級委員長委員会の面々とともに学園長先生の庵の雪かきに呼び出され、口では文句を言いながらも、呼びにきた勘右衛門とともに部屋を出ていった。
そして、雷蔵もまた図書室で本の修繕を黙々と行っていた。
午前中は、きり丸や怪士丸、久作たち下級生も一緒に賑やかに作業をしていたのだが、午後にはせっかくの休みなのだからと思って遊びに行かせてやった。
なので、今作業を続けているのは、雷蔵と委員長の中在家長次だけである。
あともうひと月もすれば、長次は卒業を迎える。その頃には、おそらく雷蔵が委員長を引き継ぐことになるだろう。
季節は移ろい、永遠に変わらないように思えた学園での生活は変化を迎えていた。

――私たちの将来のことで、話しておかなければならないことがある

三郎の声が脳裏に焼き付いていた。
彼の父は鉢屋衆という忍び衆を率いており、三郎は三男坊として生まれたという。
変装の技術は父親から教えを受け、忍術学園で忍としての技量と知識を学び、卒業後は兄を支えるために郷里に戻ることが定められているらしい。
だが、2年前に長兄が流行病で亡くなり、次兄が跡継ぎとなった頃から状況が変わったと三郎は語った。

――私の立場はあまり良いとは言えない

長男を無くした父は心を病み、その思いを一身に背負わされた次兄もやがて引き摺られるように心を失った。そんな次兄と三郎は折り合いが悪く、間を取り持ってくれていた母が亡くなってからは取り巻く状況は悪化の一途を辿っているらしい。家に戻る。それはすなわち、三郎にとっては兄の影として兄のために全てを捧げる生涯を選ぶことを意味する……と。
それが三郎にとって何を意味するのか、雷蔵は彼に直接確認することが出来なかった。だが、察することは出来たとは思っている。
三郎が纏う仮面は三郎に無限の可能性をもたらした。間違いなく、変姿の術は三郎の強みであり、武器だ。だが、それは時に三郎自身を喰い尽くすかもしれない諸刃の剣なのかもしれない。それは、雷蔵にとっても望ましくない未来だった。

全てを捧げるのなら、君がいい。
もちろん、忍びとして仕える存在に対する
忠誠と、君への思いを履き違えてはいけな
い。それでも、私は君がいい

真っ直ぐな言葉に、雷蔵はただ頷くことしか出来なかった。
現状"鉢屋"は三郎の近頃の動きの原因は雷蔵にあると見ている。
もし、雷蔵がこのまま三郎とともに彼の郷里を選んだとしてもそれは三郎にとって望ましい未来ではないことを諭され、雷蔵さえよければ、卒業後の進路はどこかの城に一緒に就職することを選びたいのだと三郎は言った。
雷蔵からすれば、ともに生きると約束した日から三郎と同じ道を選ぶことは決まっていたのだから、それに何の異論もなかった。
こんな大事な話、もっと早く話してくれてもよかったのにとは心のどこかで思ったけれど、三郎には三郎の都合というものがあるのだろうし、この話をもしあの梅雨の頃に聞かされていたらどう受け止めていたのか、雷蔵には自信がなかった。
あれから月日は過ぎ、忍びとして、三郎とともに生きることがどういうことなのか自覚しつつある。ふたりで修行をこなし、互いについて話せることは話した。まだ具体的に進路を考えたことはなかったが、三郎の意見も尊重したいと思うし、互いに未熟な部分を補いたいとも感じていた。
気持ちをそのまま伝えれば、三郎は頷き、ひとりではこわくなかったものが、ふたり一緒だとこわくなったと自嘲気味に笑った。



――頼む、雷蔵。私の……



「……雷蔵」
物思いに沈んでいた雷蔵の意識は、深く響く低音によって引き戻された。弾かれたように顔をあげ、その声の主の方を向く。中在家長次は、いつもと変わらず、ただ静かにそこにいた。
「手が止まっていた。また、悩んでいるのか」
「すみません。……少し、考え事を」
「……進級試験のことか」
「……いいえ」
「では、鉢屋三郎のことか」
「………………いいえ」
「では、何を?」
今日の長次は、どこか饒舌だった。
生き字引と一目置かれるひとつ上のこの先輩は、雷蔵にとって最も身近な上級生だ。多くを語らず、どこか近寄り難い雰囲気を持つ長次について分からぬことも多いが、彼が優しく強い先輩であることは確かだった。雷蔵は彼のことを尊敬している。そんな長次からの問いかけに、雷蔵は戸惑った。今、自分は何を悩んでいるのか。進級試験のこと、三郎のこと。どれも正しく、どこか違う気がした。
「……私自身のことです」
ふたりで歩むのならば、三郎に待つ困難は自分自身の困難だ。雷蔵の出した結論に、長次はゆっくりとうなづいた。
「雷蔵」
「はい」
「鉢屋三郎は優秀な忍びだ」
「……はい」
「そして雷蔵。お前もまた優秀な忍びだ」
雷蔵はなんと返事をすべきか困ってしまった。長次は、雷蔵の迷い癖のことをよく知るはずだ。タソガレドキの忍頭が自身のことをどう評したのかも耳にしただろう。言葉を発さない雷蔵の代わりに長次は言葉を続けた。
「積み重ねたものは目には見えなくとも確かに明日の糧となる。努力も、信頼も、知識も。目には見えなくともそこにある」
力強い眼差しに、全てを見透かされているような気持ちになった。長次の言葉が、雷蔵の心に染み渡っていく。
「中在家せんぱ……」
雷蔵が口を開きかけたその時だった。
「長次ーー!!!!」
図書室の扉が勢いよく開け放たれる。底抜けに明るい笑顔を浮かべた七松小平太がその勢いのまま歩み寄ってきた。そのすぐ後ろには参ったなとでも言いたげな表情を隠そうともしない三郎がなぜか続いている。
「雪だ! 遊ぼう!」
そう言ってはじめて、小平太は周囲の様子を見渡した。
「なんだ、まだ仕事中か! 待っているからあとで遊ぼう。雪合戦だ! 鉢屋、行くぞ!」
言いたいことを言い終えると、すぐに小平太は踵を返して図書館を後にする。
「……ということだ。雷蔵、君もあとで合流してくれよ」
返事をする間もなく、三郎も小平太のあとを追いかけて出ていく。たった一瞬出来事に、雷蔵は呆然とふたりが出ていった方向を眺めた。
「早く、終わらせよう」
「は、はい!」
長次の言葉に慌てて頷き、雷蔵は手を動かした。慣れたもので、集中さえしていれば次々に作業は進んでいく。あともう僅かにせまったところで、雷蔵は長次の視線に気が付いた。
「先輩?」
長次は無言で、雷蔵に作業の続きを促す。そして、その様子を眺めながらボソリと呟いた。
「あとは、任せた」
その言葉が今の作業のことだけではないことに気がついて、雷蔵はただ深くうなづいた。
遠いようで、もうすぐそこに近づいている春の足音が聴こえるようだった。

◇◇◇◇◇◇

進級試験の日程が発表されると、にわかに周囲が慌ただしくなったのを雷蔵は肌で感じていた。
「なあ知ってるか? あいつ、家業を継ぐから進級はしないんだそうだ」
「えっ? そうだったの?」
八左ヱ門が話題にあげた同級生は、座学の成績が抜群に良い生徒のひとりだった。きっとこのまま6年生に進級するのだとばかり思っていた雷蔵は驚きを隠せず、その張本人へと視線をやる。いつも通り屈託なく笑う様を見ると、春から彼がいなくなるのは信じられなかった。
「やっぱり、ここまで来ると寂しくなるもんだな」
毎年、様々な事情で学園を去るものはいる。一流の忍者を育てる学園だから、厳しい授業についていけないもの、最初から教養を学ぶことを目的に入学し、低学年で去るものなど人によりけりだ。
「人のことばかり心配してはいられないぞ」
「耳に痛いこというなよ~、三郎」
「手が止まってるから言ってるんだ。雷蔵も」
「ごめん。ええっと、何の問題だっけ?」
3人は試験に向けて、与えられた課題をこなしていた。春までと決まっている生徒と、最終学年への進級を希望する生徒の間に流れる空気はやはりどこか異なっていて、これまでとは違う日常がそこにはあった。
「おーい! お待たせ~!」
「勘右衛門。それに、兵助」
ひょっこりと姿を見せた"い組"のふたりに雷蔵は手を振って応える。
「お~! こっちこっち!!」
八左ヱ門が嬉々として声を上げた。い組のふたりとは、実技の実習で同じ班を組むことになっている。今日はその作戦を立てる約束をしていたのだ。八左ヱ門がいつになく歓迎しているのはおそらく、苦手分野の座学から今だけでも逃避できるからだろう。八左ヱ門は優秀な忍びではあるのだが、どちらかといえば座学よりも実践を好む傾向がある。三郎が呆れたような視線を向けていることに気がついて、雷蔵は笑った。
「さっそくだけど、俺がたてた作戦を見て意見を聞かせてくれ」
兵助が腰を下ろしながら、巻物を広げた。
進級試験として行われる今回の実習は、戦の準備を進めている"あるふたつの城"に潜入し、城内の見取り図や兵力など様々な情報を収集すること。そして、合戦の火蓋が切られればどこが戦場になるのか。どのような策を練るのか予想を立てることだった。当日は、二手に分かれた上でさらに城の内部のどこを誰が探るのかを決めておく必要がある。また、城だけでなく周辺の町への調査などの下準備も行う必要があった。
「事前調査の鍵となるのは、やっぱり三郎の変姿の術だと思う。もちろん、俺たちもそれぞれ調査をするから変装の必要はあるけれど、三郎には特に難しい局面を任せることになると思う」
兵助の言葉に全員が頷き合った。
「なら、私はどちらの城の調査にも関わろうと思う。みんなにも手伝ってもらうことがあると思うから、日が近付けばもっと具体的に打ち合わせがしたい」
「うん、俺もそう考えてた。俺も含めたほか4人は二手に分かれよう。雷蔵と勘右衛門には必要あれば三郎の補助を頼めるかな?」
「じゃあ、俺と雷蔵は分かれた方がいいな」
「うん。お互いの状況はこの辺りで伝えるのはどうかな」
口々に意見を述べ、いつ何をすべきか。自分がなんの役割をすべきか。それぞれの主張を検討し合う。雷蔵も兵助が示す地図を眺めながら、思考をめぐらせた。ふと、三郎と目が合って彼と約束した将来のことが頭をよぎった。
――同じ城に、就職しよう
その未来は、確実に近付いてきている。夢物語ではなく、現実に迫っていることを雷蔵は今になってようやく実感していた。先輩たちの姿を見て、その背中を追いかけていた日々はもうすぐ終わる。後輩たちの手本となり、学べるものを学び、そして己の力で立たなければならない日がやってくるのだ。
だが、今は一人ではない。仲間たちを信じ、一緒にこの課題に向き合うことができるのだ。
悩みは尽きないが、己だけで抱えるものではないのだということを、雷蔵は分かってきていた。
2/2ページ
スキ